飛行船の片隅で
魔導飛行船は、王都へ向けて、静かに空を滑っていた。
朝霧を抜けてゆく窓の向こうには、淡い陽光が雲の海を染めている。
その光を背に、イリスは膝の上に一冊の古びた手帳をそっと置いていた。
それは、ニーナ――前世の彼女が遺した手記。
ゼルファードの手から、密かに託されたものだった。
セフィルは少し離れた席で、窓の外に視線を投げていた。
その静かな横顔をちらりと見て、イリスは躊躇いがちに唇を開いた。
「……セフィル、少し話してもいい?」
彼がゆっくりとこちらに顔を向ける。穏やかな瞳がイリスの不安を包んだ。
「もちろん。どうかしたか?」
イリスは小さく頷いて、手記を胸に抱いた。
「昨日……読んだの。ニーナの手記を。
全部は……まだ読み切れてないけれど……」
少し息を吸って、言葉を選ぶように続ける。
「あなたのことが書いてあった。“陽の鍵守”だって……。
でもそれだけじゃなくて……本当はもう一人、“陰の鍵守”が必要だったって……」
セフィルの眉がわずかに動く。イリスはページを指先でそっとなぞる。
「陽は世界の外側を、陰は内側を守る。
そして、中心に星の巫女……三人が揃って、ようやく“封印”は完成する……って。」
彼女の声が震える。
そして、その震えを静かに受け止めるように、セフィルが小さく息を吐いた。
「……ルヴィアン、か」
「え……?」
「その役を担う者だとすれば、彼しかいない」
イリスの心が波打つ。セフィルの表情は、どこか痛みを宿したようだった。
「……陰の鍵守は、闇に近すぎる。
だからこそ、その本質を知り、制御しなければならない。
だが同時に……最も脆く、最も孤独だ」
その声に、イリスの胸が締めつけられた。
セフィルの言う“彼”は、あの孤児院で共に育った、もう一人の少年。
「……たとえ、今は闇に囚われていたとしても……」
セフィルの声が、そっと夜明け前の風に溶けていった。
「闇は、光の欠片を知っている。だからこそ、痛みを知っているんだ」
セフィルはしばし黙ったまま、船のゆるやかな揺れに身を任せていたが、やがて口を開いた。
「……誰かを守りたかった想いが、闇に変わってしまうことがある。
でもそれでも……その想いが本物なら、いつかまた、光になれる」
彼の瞳には、自らの過去に対する悔いと、静かな覚悟が滲んでいた。
淡い光が船室を包む中、セフィルの言葉は、まるで祈りのように響いた。
イリスは、その言葉に胸を打たれた。
――光があれば、影が生まれる。
でもその影もまた、光とともに歩んできたもの。
――影もまた、光を知っている。
闇もまた、愛から生まれることがある。
ならば、私が見た彼の闇も……
もう一度、光に触れられる日が来るはずだ。
信じたい。私の手が、届く限り。
過去を悔やむのではなく、信じること。
手を差し伸べることを、恐れないこと。
それが、自分の「今」を繋ぐ意味なのだと、静かに思えた。
「……ありがとう、セフィル」
セフィルの指先が、イリスの右手の甲――星の紋章にそっと触れる。
風の音に混じって、遠くで甲板の帆が軋む。
その微かな音さえも、ふたりの間の静寂を際立たせた。
イリスはそっと彼の手に触れた。
「ルヴィアンを……助けたい。もう、ひとりにさせたくない。
闇に囚われたまま、終わってほしくないの」
「……なら、俺も一緒に行く。
君の信じる未来があるなら、俺はそこに在る」
静かな誓いが、魔力のように確かに結ばれていく。
そして、イリスの胸の奥に、ほんのわずかな希望の光が灯った。
――たとえ、過去に手が届かなくても。
今、この瞬間からなら、きっとまだ間に合う。
この光を、信じ抜いて進んでいこうと。
陰陽の鍵守:構造と意味について
セフィル=陽の鍵守(秩序・外界・希望・未来)
ルヴィアン=陰の鍵守(混沌・内界・真実・過去)
星の巫女(ニーナ/イリス)は、その中心に立つ「星の記憶」であり、
二人の鍵守は、それぞれ異なる側面から彼女と契約することで封印の輪が完成します。
封印とは、本来“三重の結び”で成立する構造で、
巫女(中心)+ 陽(外の鍵)+ 陰(内の鍵)
過去の封印が不完全だった理由
過去世で、陽の鍵守=セフィルのみが選ばれ、
陰の鍵守であるルヴィアンは「異常」とされ、排除されました。
巫女は、幼なかったこともあり当然知らず、
当時の魔法評議会の誰も、この三位一体の構造を知らず、気づくこともありませんでした。
そのため、ルヴィアンは存在に苦しみ、
「自分は余分な影」と思い込み、犠牲になる道を選んでしまいました。
その結果、封印は片翼を欠き、「静止しただけ」で、
真に封じられてはいなかったのです。




