飛行船の夜――星の記憶、手記の声
飛行船は、静かに星夜の空を進んでいた。
甲板に吹く風は冷たく、けれどどこか心地よかった。
イリスはひとり、船内の小さな個室にいた。
ラーデンもセフィルも今は席を外しており、
まるで時間が止まったかのような静寂が、そこにあった。
彼女の膝の上には、古びた装丁の本。
ゼルファード学園長から託された、《ニーナの手記》。
それは、どこか懐かしい匂いがした。
まるで遠い昔の自分に出会うような、不思議な気配が本全体から漂っていた。
(……今なら、きっと読める気がする)
そう思って、手を伸ばした。
開いた瞬間、金の魔法文字がふわりと浮かび上がる。
それは星の紋章と同じ――“星の記憶”にのみ反応する、封印魔法だった。
ページが自然にめくられ、淡い光を放ち始める。
それは、「星の巫女」に選ばれた者だけに伝えられる、
かつての悲しい真実と、未来への祈りの記録だった――
*
私の名はニーナ。
この手記を読むあなたは、きっと未来で“星の巫女”として目覚めた者でしょう。
ありがとう。
あなたがここにたどり着いたということは、封印は揺らぎ、再び選択の時が来た証だから。
この世界はかつて、幾千の戦乱と絶望に沈んでいました。
人の恐れ、怒り、欲望――その負の感情が、やがて“かたち”を持ち、世界を蝕んだ。
それが、《影なるもの》。
人が生み出し、そして制御できなくなった、終焉の闇。
私は、かつて“鍵守”と共に、その闇に立ち向かいました。
けれど、その戦いは決して勝利ではなかった。
闇は滅びず、ただ封じられただけ。
そして、私の大事な友人は、闇に呑まれ……。
闇纏いとなり、封印せざるを得ませんでした。
私は次第に闇を纏っていく彼を、ずっと恐れていた。
でも本当は、彼もまた――私たちのもうひとつの鍵だったのかもしれないと思うのです。
だからきっと……本当の封印の鍵は、私とセフィル、そして……ルヴィアン。
セフィルが“陽”の鍵守なら、ルヴィアンは“陰”の鍵守だったのかもしれない。
陰と陽、光と影。どちらが欠けても、封印は完全ではなかった。
あの時、三つの魂が揃わなかったせいで、真なる封印は完成しなかったのです。
だから……私は、ふたりを塔に還しました。
いつか目覚めてくれることを願って。
彼らは、塔の対極に封印され、決して交わることのない隔たりの中にいます。
いつか必ず、“第三の魂”が目覚める。
その時こそ、あなたたちが未来を選び取る番。
――どうか、セフィルを信じて。
彼は何度でもあなたを守るでしょう。
彼は……私の光であり、最も深い場所で私を支えてくれた存在。
そして……もし“彼”が目覚めるときが来たら。
その闇に、あなたの光を注いであげて。
どうかもう……誰も孤独にしないで。
それが、私たちの願い。
私たちの……“約束”なのだから。
*
イリスは、ページを閉じられなかった。
手が震え、胸が軋む。
これは「過去の自分」の言葉……
けれど、今の“自分”に向けられた、未来を託す祈りだった。
「本当に……私が、受け継いだんだね。ニーナ……」
彼女の目から、一粒、涙がこぼれる。
イリスの胸の奥で、静かに何かが灯った。
セフィル、ルヴィアン、そして自分。
この三つの魂こそが、“真なる封印”を完成させる。
けれど、それは同時に、再び悲劇を繰り返さぬための“覚悟”を問うものでもあった――。
イリスは空に向かって呟く。
「セフィル……ルヴィアン……そして私。
まだ終わっていない。過去も、約束も、未来も……全部」
その瞬間、彼女の星の紋章がふわりと輝き、
まるで手記が応えるように、その光を一筋の星のように天へと返した。
(ありがとう、イリス)
どこかで、優しい声が聞こえた気がした。




