怒れる貴族 ― エスラ公爵の激昂 ―
王都・魔法省の奥、重厚な扉で隔てられた豪華な部屋で。
荘厳な柱が立ち並び、まるで陰謀そのものを隠す迷宮のような空間に、怒りの声が木霊した。
「ゼルファードの老いぼれめ……!
貴様、よくも……!我らを出し抜いてくれたな!」
声の主は、王国枢密院の一角を担う重鎮、ディアストレ・ヴァン・エスラ公爵。
彼は怒りに任せ、机を思い切り叩いた。
高価な水晶製の書簡台が小さく跳ね、上に乗っていた書状が宙に舞う。
「“協定”とは、よくも言ったものだ……。
巫女と鍵守が、対等の存在として王家と並び立つだと? 馬鹿な!」
唇を噛み、顔を真っ赤にしながら、空間を睨みつける。
手元の文書を何度も握りつぶし、指の骨が軋むほどに力を込めていた。
「こんなもの、認められるはずがない……っ!
巫女は、王国に奉ずる器。鍵守もまた、ただの“兵”でしかない!」
震える手で落ちた書状を拾い上げる。
そこには確かに、王家と魔法評議会、そして星紋の塔の間で交わされた、
“魔法的拘束力を持つ文書”の写しが記されていた。
しかも、立会人としてあのラーデン・ノアクレストの署名が――
「……ラーデン……っ。あの男、王子の側近を気取っていながら……」
目の奥で怒りの火が燃え上がる。
「ならば、いっそ次の評議会で“認可の無効”を提案するまでだ。
……あの巫女も鍵守も、いずれ“支配”下に置く」
低く、呪詛のように呟く。
その声音には、もはや理想や正義の影はない。
あるのは、“王家の存在を守る“という名目に隠された、自身の野心だけだった。
「見ていろゼルファード。
貴様がいくら外堀を埋めようと――
私の“駒”はまだ、動かせるのだ」
忌々しげに呟いたその時、背後の扉が静かに開いた。
「……失礼します、公爵閣下」
入ってきたのは、黒衣に身を包んだ若き魔導師。
その顔は、評議会や学園に出入りすることのない、無名の者のように見えた。
だがその瞳には、冷えた鉄のような知略の光が宿っていた。
「“例の件”、準備は?」
「滞りなく。学園内に残した”印”は予定通り反応を始めています。
まもなく、“闇の残響”が動き出すでしょう」
「……良くやった。あの存在が、ここまで目を覚まし始めるとはな。
巫女と鍵守の覚醒に、奴らが呼応したか」
ディアストレは笑みを浮かべた。
その顔は、美しい仮面のように整っていたが、底知れぬ冷酷さを湛えていた。
「星の記憶が呼ぶのなら、それすらも利用してやる。
あの娘が“星の巫女”であることなど、今はどうでもいい。
必要なのは……その力だ。奴らの“心”までも、支配できればいいだけのこと」
黒衣の魔導師は、無言で一礼し、言葉を続けた。
「“彼”も動かしますか?」
その一言に、ディアストレの目が細くなる。
「……ラーデン・ノアクレストか?
奴は読めん。
王子に忠誠を誓う仮面の裏に、まだ理想の残滓が見える。
ゼルファードの情に揺らぐ可能性もある……」
「排除の対象と?」
「いや――“試す”。
王子を守るために、どこまで踏み込めるか……。
駒であることを忘れた者には、“罰”を」
最後の言葉は囁きだった。
まるで、かつて忠義を誓った者への断罪であるかのように。
やがて部屋を出ていく黒衣の魔導師。
その後ろ姿に、ディアストレは言葉をかける。
「闇は、まだこの王都の地下に蠢いている。
星の記憶など……とうに忘れられた神話だ。
だがな、神話は利用するためにある――我らの支配のためにな」
その声が消えた瞬間、柱の陰、壁の奥で微かに、何かが蠢いた。
それはかつて世界を蝕んだ”負の感情”の欠片、
名もなき “闇の残響” の予兆だった。
彼は握りしめていた書状を折りたたむと、静かに炎の魔法で燃やした。
灰となる文字。その中に、燃え残ったひとつの名――
「イリス・ヴァレンティア」の名が、黒く焦げて、舞い上がっていった。




