ニーナとルヴィアン
風が強く、星の見えない夜だった。
祈りの儀式を終え、星紋の聖域を出たニーナは、何かの引力に導かれるように歩いていた。
(ルヴィアン……)
その名を思った瞬間、胸が痛んだ。
以前は彼の側にいるだけで、心が穏やかになった。
けれど、最近は違う。
彼の近くに立つたびに、冷たい気配が肌にまとわりつくようになっていた。
そしてそれが、“彼のもの”であることに――彼女は気づいていた。
彼女の足が止まったのは、星詠みの孤児院にある塔の奥、誰も使わなくなった天文室。
扉の隙間から、微かな光が漏れている。
そっと扉を押し開けると、そこにいたのは、闇に紛れるように窓辺に佇むルヴィアンだった。
月明かりのないその夜でも、彼の輪郭だけは、確かにそこにあった。
「……ルヴィアン」
呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥にあるものを見て、ニーナは息を呑んだ。
まるで、深い湖の底。
どこまでも静かで、どこまでも冷たく、誰の声も届かない場所。
「君だったんだね。……やっぱり、君は来てくれると思ってた」
「……ルヴィアン、あなた……」
「変わった、だろ?」
その言葉には、嘲るでもなく、責めるでもなく、ただ寂しさだけが滲んでいた。
「僕はね、ずっと君の傍にいたかった。
でも君が光に近づくほどに、僕は……影になっていった」
ニーナは首を振る。
「違う、そんなこと……」
「違わない。君は“癒し手の王”として目覚めた。
皆が君を仰ぎ見て、君の力に救いを求める。
でもその光は、強すぎるんだ。僕には、眩しすぎるんだよ」
ルヴィアンは立ち上がり、ニーナへ一歩、また一歩と近づいた。
「セフィルが“鍵守”に選ばれたのも……わかってる。
僕の中には、もう“影”しかないって、皆がそう思ってるんだろ?」
「私は……あなたをそう思ってない……!」
ニーナの声が震えた。
「私は……あなたに“名”を贈った。
存在を肯定したかった。生きていてほしいと願った。
それは、今も変わらない」
その言葉に、ルヴィアンは一瞬だけ瞳を揺らした。
「……本当に、そう思う?」
「ええ。だからお願い、戻って――」
その瞬間、室内の空気が、ピシ、と割れるような音を立てた。
黒い霧がルヴィアンの背後から、ゆっくりと立ち上がる。
それは彼の意思ではなかった。
だが彼の中に生まれた隙――愛と絶望の隙間を縫って、何かが入り込んだのだ。
《ルヴィアン……“選ばれなかった者”よ》
《お前の苦しみを、光は理解しない》
《だが我らは、お前の存在を否定しない。共にあれ。お前こそが“闇の鍵”》
ルヴィアンは額を押さえ、苦しげに膝をつく。
「やめろ……!僕は……こんな声、呼んでない……!」
「ルヴィアン!」
ニーナが駆け寄ろうとした瞬間、空気が裂け、空間が歪む。
彼の周囲に“闇”が蠢き始める。
それは恐怖ではなく、甘い囁きのようだった。
理解されることのない苦しみを、ただ“受け入れる”だけの声。
《君の光に、僕の影を添えよう》
ルヴィアンが、顔を上げた。
その瞳の奥には、もう“人”としての理が薄れかけていた。
「ニーナ……僕は、君のために影になる。
誰にも選ばれなかったなら、自分で選ぶ。
君の光がすべてを癒すなら、僕はすべてを背負う」
「ダメ……!」
ニーナは叫んだ。涙が頬を伝う。
「ルヴィアン……ダメ!!――お願い!戻って!!」
けれどもう、影は彼の心の奥に根を下ろし始めていた。
その夜、ルヴィアンは“人”であることをやめ、
「闇纏い」として封印される未来への扉を、自ら開いてしまったのだった。