”思い出した”――その先にある誓い――
護送を翌日に控えた深夜。
イリスはもう一度、夢の世界へと引き寄せられていた。
今度は前回と違っていた。
漂う空気は静謐で温かく、黒ではなく、月明かりのような銀が満ちていた。
彼女は、どこか懐かしい感覚に包まれながら立っていた。
空には幾千もの星が流れ、空間は歪むことなく、ただ静かに”記憶”を映していた。
その中央に――
一人の少女が、誰かに向かって両手を差し伸べていた。
その姿は、鏡のようにイリスに酷似していた。
けれど、衣の形も、髪の結い方も違う。
彼女は、遥か過去――前世のイリス、≪ニーナ≫だった。
そのニーナが、深く傷ついた青年の身体を抱きしめていた。
男は全身を黒に包まれ、長い髪が血に濡れ、魔力の暴走で形を保てないほどになっていた。
星の巫女となったニーナは、泣きながら結界を構築し、彼を封印しようとしていた。
それでも――彼は、彼女の手を取ろうとした。
「……もう……いい……もう、いいんだ……」
「違う……違うの……!私は、あなたを……」
涙を浮かべたニーナが、かすれる声で叫んだ。
「ルヴィアン……!」
その名が放たれた瞬間、満ちていた星の光が大きく脈打った。
黒く崩れかけていた彼の姿が、一瞬だけ、少年のような純粋な姿へと戻る。
だが、ルヴィアンの目には、どこか悟ったような静けさが宿っていた。
「ねえ、ニーナ。覚えてる?
……君が僕に、”ルヴィアン”って名をくれた日のこと」
ニーナは頷く。涙が止まらない。
「君が僕に名前をくれたとき、僕は初めて生きていると感じた。
その名前が、僕をこの世界に”固定”してくれたんだ。
でも僕はもう……君と同じ光にはなれない。
君と同じ場所には、もういられなくなったんだ」
「違う……!私はそんなつもりじゃ……!」
「わかってる。
優しさだったって、知ってる。
だから……その優しさで、僕を封じてくれていい」
それは、責める声ではなかった。
ただ、寂しさと切なさを飲み込んだ、静かな告白だった。
「だから……これが僕の最後の願い。
――僕が世界にとっての”災厄”になる前に、僕を”君の名”で、止めて欲しい。
……でもいつかまた……君にその名を呼んで欲しい」
「ルヴィアン……!」
その名を、ニーナは泣きながら叫んだ。
震える手で彼の頬に触れ、ニーナは最後に微笑む。
「いつかまた、会いましょう……ルヴィアン」
結界が完成し、光と影が交錯する。
光の柱が彼を包み込む直前――
「ニーナ。ありがとう……」
その声は、痛みと安らぎ、どちらともつかない余韻を残し、光に溶けていった。
それは、別れの記憶ではなく――約束の記憶。
*
次の瞬間、空間が揺れた。
夢の世界がほどけるように崩れ、イリスの意識は現実へと戻る。
彼女は目を開き、涙が頬を伝っていることに気づく。
「……ルヴィアン……」
イリスはベッドの中で、ゆっくりとその名を口にした。
吐息とともに零れたその名前は、彼女の胸にずっと刺さっていた棘を、柔らかくほどく。
「思い出した……私が、あの人に名前を与えた……」
彼を救いたくて、彼の孤独を壊したくて与えた名。
けれどそれが彼を縛り、追い詰めてしまった。
そして、その名を封じたのも――自分だった。
「……ごめんなさい。
でも、やっと……思い出したの」
月明かりの差し込む窓辺で、イリスの目から、再び一筋の涙が流れる。
彼の中に眠る哀しみが、少しずつ、記憶の中の温もりと繋がってゆくのを感じながら。
名を与えたのは、自分。
名を呼び返せるのも、また自分。
イリスは静かに、窓辺に手を伸ばす。
遠い夜空に、まだ名前のない星が瞬いていた。
――そして、星紋の塔の禁書の間に、ひとりの少女が足を踏み入れる。
*
結界の奥――セフィルは、まるでそれを予期していたかのように、瞳を開けて待っていた。
イリスは口を開くと、静かにこう言った。
「……思い出したの。“彼”の名前」
セフィルのまなざしが、深く優しく揺れる。
「……そうか。君はまた、彼を思い出したんだな」
「前世の私は、彼に……“ルヴィアン”という名前を与えたの。
でも、それは……名前を奪うことと同じだったのかもしれない」
「いや、それは違う」
セフィルの声は穏やかだったが、奥に芯の強さがあった。
「彼はその名を、最後まで手放さなかった。
それは“選ばれなかった痛み”を抱えながらも、君との繋がりを唯一保つためだった」
イリスの胸が締めつけられる。
「私……彼に、ひどいことをしたのよね……?」
「そうかもしれない。
だが君はそれを忘れて生きてきたわけじゃない。
“また彼と向き合いたい”と願って、この時代に生まれ、記憶を手繰ってきた」
「……彼は、まだ私を、許してくれるかな」
「それは、君が向き合うべき問いだ。
でも……もしも君が彼の名を、心から呼んだのならーーきっと、彼は気づいている」
セフィルが、微かに微笑む。
「名は、呪いにもなり、救いにもなる。
君の名が、彼を封じたのなら――今度は、君の手でその鎖をほどける」
イリスは静かにうなずいた。
その目にはもう、迷いではなく、決意の光が宿っていた。
ーーそして、翌朝。
“名を思い出した少女”の元に、護送の時が、迫っていた。
この世界において、「名前」はただの呼称ではなく、
・存在を世界に認識させる”定義”
・魔法的、魂的な「契約」や「帰属」の印
という、強い力をもっています。
特に、「星の巫女」や、「癒し手の王」の魂を持つ者が与える”名”は、
魂や存在そのものに影響を与えるほどの力ある命名なのです。