できるけどやらないという幻想
行き詰まったとき「できない」と匙を投げたくなる。
多くの場合、本当に「できない」から、匙を投げざるを得なくなっている。
時間がない、お金がない、人手がない、能力がないから、行き詰まっている。
「匙を投げたい」という希望の段階で止まっているように錯覚するのは、「できない」という現実から目を背けたい欲求や、「できなくては困る」という外圧のせいだろう。
過ぎ去ってしまえば「やらなかった」という結果しか残らない。
自分にブーメランが飛んでくるのを避けるため、人は無意識に「できない」を「できるけどやりたくない」に変換するのである。
厄介なのが、他人にも同様に「できるけどやってない」という評価を下すことだ。
これはけして、相手の能力を認めているわけではない。
サボっている、怠けている、という評価をする。
これもやはり自己愛に起因している。
高い要求を周囲に向けて、自分はそれだけ奉仕されて然るべき人間だ、と思い込んでいるのだ。
人間は、自己愛というフィルターを通した幻想世界の中で集団生活をしている。
ゴマスリが上手い人というのは、この幻想世界でのケアに手が回る、非常に優秀な人物である。
現実の仕事を放棄しても、要人の自己愛さえケアしていれば出世できる、という歪んだ真理を、抵抗なく飲み込める懐の深ささえある。
パワーゲーム、マネーゲームの非情さに、単にゲームと割り切って、非情とも思わず、素直にプレイできる人が、結局は勝つのである。
一番良いのは、そういう人に戦わせて、そういう人が稼いだお金を分けてもらいながら、自分は競争から退いて、組織の隅でひっそり、のうのうと暮らすことだ。
経営者よりも良いご身分、といえるのではないだろうか。
いつほじくり返されるかわからない、核シェルターの中で暮らすような不安が常に付きまとうが、プレイヤーとしての適性を欠く人間に残された選択肢としては、上等である。
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