後編
ぐりると町を一周して、私は旅館に戻った。途中、最初に車で通りかかった駅前広場にも立ち寄り、改めてその場の銅像もチェック。たまこわちでも明石川祐介でもない、第三の人物の像だった。
いや「第三の人物」どころか、こうして私が見て回った限り、町中に設置された像は全部で十個。人数にして五人であり、ちょうど一人ふたつずつだ。なるほど、こんな小さな町から五人ならば「有名な詩人を何人も輩出」と誇りたくもなるのだろう。
しかし町とは無関係な旅行者である私にとって、詩人の数よりも興味深いのは……。
「うん、やっぱりそうだ!」
ひと風呂浴びてから部屋に戻り、改めて手帳を見ながら、私は「Eureka!」と叫びたい気分になっていた。いやアルキメデスの故事に倣うのであれば、風呂を出た後ではなく、本当は入浴中に叫ぶべき。
というよりも、そもそもアルキメデスと比べるのは分不相応。客観的に見れば、そこまでの大発見ではないからだ。その点は承知しながらも、私個人としては、それほど大きな興奮を覚えてしまう。
何かというと、銅像の説明プレートがパズルのピースになっていたのだ。だからこそ、それぞれ違う形になっていたのだ。
ちょうど絵のないジグゾーパズルだった。本来ジグゾーパズルというものは、描かれている絵に基づいて完成させる遊びだろうが、例えば白色の無地のジグゾーパズルも存在するように、ピースの形だけで繋げることも可能。
この町の銅像群の説明プレートも、そんなジグゾーパズルだった。
最初に見かけた『明石川祐介氏は、昭和36年の生まれで……』を左上とすれば、その右隣にピタリとはまるのが、同じ明石川祐介プレートの『「かみのかみ」は明石川祐介の代表的な詩集であり……』。
さらに別のひとつを繋げて上段は完成、同様に中段も三枚で構成される。下段は四枚であり、その左端――全体としては左下の隅――が、たまこわちプレートの『たまこわち氏は新進気鋭の女流詩人であり……』だった。
「さて、結局これは何を意味するのか……?」
ワクワクドキドキしながら、完成したジグゾーパズルを、改めて頭の中で思い描いてみる。
まずは、それぞれのパズルのピースの上に銅像を並べた光景を想像。しかし十個の銅像は「一人ふたつずつ」であり、五通りのポーズしかないから、何か違う気がする。せっかく十個のピースがある以上、別々の十個を並べたいわけで……。
「ならば、プレートの説明文か!」
同じ人物の銅像なのに異なる記述が書かれていた理由。これこそが、パズルの本質だったに違いない!
幸い、それぞれの銅像を区別する意味で、手帳にはプレートの形と一緒に、説明文の冒頭も記録していた。ジグゾーパズルの完成形に合わせて、書き出しの一文字を平仮名で並べると……。
あ か い
や ね の
た て も の
「赤い屋根の建物……。これだ!」
大興奮だった。
冒険小説か探偵小説の主人公になったみたいな気分だ。
例えば小さい頃に読んだ冒険活劇では、暗号を解いたら宝物の在処が判明したり、あるいは連続殺人のミステリー小説の場合、自殺した犯人の秘密の告白が出てきたり……。
「よし! 明日は『赤い屋根の建物』を探すぞ!」
一般的に、誰でも夜になるとテンションが上がるという。
私も例外ではなく、暗号解読の高揚感も、翌朝には少し収まっていた。
一応『赤い屋根の建物』の件は頭の片隅に留めたまま、まずは大人しく観光をする。旅館の者に勧められるがまま、町の中央にある記念館――五人の詩人の作品などが展示されている――を訪れてみると……。
二階建ての白い会館であり、屋根は真っ赤に塗られていた。
「なるほど、これが町にとっての宝物か……」
口では「なるほど」と呟きながら、私の心の中には、しょぼんとした気持ちが広がるのだった。
それぞれの経歴や作品の背景なども解説されていたが、知らない詩人の作品を眺めていても、特に興味深いものは一切なく……。
記念館を出ると同時に、結局ほとんど忘れてしまう。その時点で私の頭に残っていたのは、以下のような一編のみ。たまこわち氏の定型詩だった。
『謎なんて 解けてしまえば 色褪せる』
(「パズルの銅像」完)