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異世界恋愛系(短編)

うちの天然お嬢さまが、「悪い男っていいわ。わたくし、騙されてみたいの」などと自分に向かって言い出しやがったのだが、押し倒しても許されますか?

「ねえ、レイモンド。わたくし、悪い男に弄ばれてみたいの。どうしたらいいかしら」

「……すみません、お嬢さま。もう一度よろしいでしょうか」

「もうレイモンドったら。お耳が遠くなっちゃったの? 悪い男に弄ばれてみたい、わたくしそう言ったのよ」


 公爵家に仕える若き執事レイモンドは、目の前の可憐な令嬢のトンデモ発言に目を白黒させた。


「お嬢さま、急にどうなさったのです。先日の茶会で、何か話題になりましたか」

「ええそうなの。みなさま、婚約者がいらっしゃるのだけれど、それとは別に好きなかたがいらっしゃるそうよ。どんなひとが好きかと聞かれたので、わたくしも考えてみたの」

「それで、『悪い男』ですか」

「ええ、だって危険な男って魅力的でしょう。そんなひとが見せかけでもわたくしを愛してくれるのなら、それはきっと幸せなことだわ」


 小首を傾げながらころころと笑っているのは、公爵家のひとり娘セリーヌ。その姿は、妖精と言われても納得するほどに美しい。


 彼女を溺愛する両親から真綿にくるむように育てられたせいか、笑顔で突拍子もないことを口にする。美しい見た目にも関わらず、「天然令嬢」と陰口を叩かれているのはそのせいだ。


(いったい、なんと返事をしろと?)


 内心冷や汗を流しまくりながら、レイモンドは紅茶のお代わりを用意した。セリーヌはレイモンドの気持ちなど想像もつかないようで、屈託ない笑顔を見せている。


(()()()()()()()()()()()か……)


 いくらあだ名が「天然令嬢」とはいえ、その美しさは折り紙つきだ。むしろ小賢しい女など嫌いだという男からすれば、これ以上はないほどの好物件だろう。


 彼女を溺愛する両親は何を考えているのやら、未だ婚約者のいない公爵令嬢。そんな彼女の発言が公になれば、社交界は面白おかしく騒ぎ立てるにちがいない。


(ないとは思うが、悪い男に弄ばれたりなどしたら令嬢としての人生は終わりだ)


「ねえ、レイモンド。どうしたらいいかしら。あなた、悪い男に心当たりはある?」


 うるうるとした瞳で自分を上目遣いで見つめてくる美少女。しかもまるで見せつけるかのように、両手を組みながら胸の谷間を強調している。今までの人生、そしてそれに伴う大小様々な苦労が脳内を駆け巡った。


(しかも私に紹介させようというのか?)


 レイモンドは、頭痛をこらえて小さくため息をついた。



 ***



 誰にも言ったことはないが、レイモンドは今までに3回人生をやり直している。


 1度目の人生で、セリーヌは別の女性に懸想した王太子から婚約を破棄されたあげく、辺境の修道院への追放を言い渡された。


 セリーヌは物語で登場する悪役令嬢のようなきつい顔立ちと物言いをしていたが、身分が下の人間を理不尽にいじめるようなそんな下衆な女性ではない。けれど落ち目のセリーヌをかばう人間は皆無だった。


 公爵家は領地を取り上げられ多くの財産も没収された。追放されるセリーヌに、十分な護衛をつけることも叶わぬほどに。


 そしてセリーヌとレイモンドは北の修道院に向かう途中で野盗に襲われた。もちろん統率の取れっぷりからして、野盗ではなく王太子から指示を受けた騎士団であろうことは明白だ。しかし正体がわかったところで、レイモンドが有利となることはない。


 そもそもレイモンドは、セリーヌの気まぐれで貧民街で拾われ、執事をしていただけ。そんな彼では騎士団を撃退することは難しい。せめて主人が辱めを受けることだけは避けなければ。


 レイモンドはセリーヌを強く抱きしめると、ごうごうと流れる濁流に向かって崖から飛び降りた。公爵令嬢セリーヌ及び執事レイモンド。ともにわずか18年の短い人生だった。


 2度目の人生で、レイモンドはセリーヌを幸せにするために奔走した。


 セリーヌは立ち回りがうまくない。どれだけ賢く優れていても、相手に与える印象が悪ければ損をする。


 頻繁に起こる他者とのすれ違いをセリーヌ以上にもどかしく思っていたレイモンドは、セリーヌの言葉遣いや立ち居振る舞いをそれとなく誘導した。


 1度目の人生ではそんなことをしようものなら癇癪を起こしたに違いないセリーヌだったが、不思議と2度目の人生では素直に従った。


 不幸だったことは、セリーヌの聡明さに隣国の王が目をつけたことだ。戦争を仕掛けられたあげく、セリーヌは王太子との婚約をなかったことにされ、年の離れた国王に嫁がされた。


 けれど結婚後も表舞台に立つことはなかった。彼女が逃げ出すことを恐れた国王によって、幽閉されたのだ。国王は自分がセリーヌに愛されることはないだろうということだけは理解していたらしい。


 宦官として付き従ったレイモンドを目の敵にした王は、セリーヌの目の前でレイモンドを酷くいたぶった。2度目の人生でレイモンドが最後に見た光景は、なぶられ息絶える寸前のレイモンドの横で、人生に絶望し自害するセリーヌの姿だった。この時のセリーヌとレイモンドもやはり18歳だった。


 3度目の人生。レイモンドは今までと趣向を変えることにした。目立たず、病弱な令嬢としてセリーヌを過ごさせる。普通にしていれば、王太子との婚約は立場上避けられない。目立てば他国から横やりを入れられる。だからこそ、セリーヌの両親さえもふたりで欺いた。


 どうしてセリーヌが自分の突飛な提案を受け入れてくれたのか、いまだにレイモンドにはわからない。年頃の高位貴族の少女だ。社交界や王子さまに憧れを持つほうが普通だというのに、彼女は王都から離れた公爵家の領地でのレイモンドとの生活を選んでくれた。もしかしたらセリーヌは、自分が思っている以上に拾ったレイモンドのことを気に入ってくれていたのかもしれない。


 だが突然領内で流行した流行病にかかり、セリーヌは本当にベッドから起き上がれない体になった。いっそ穏やかにも思える静かな療養生活は、世話をしていたレイモンドが先に病を重篤化させたことで終わりを告げる。自分の最期をレイモンドは覚えていないが、きっとふたりしてそのまま天に召されたのだろう。結局18歳を超えて生き残ることはできなかった。



 ***



 4度目の人生を迎えたとき、レイモンドは決めた。今回は、先のことを考えるのはやめようと。18歳までしか生きられないのなら、彼女には好きなことをしてのんびり暮らしてほしい。


 セリーヌの幸せを祈るあまり、レイモンドは時に母親のように口うるさくしてきた自覚があった。それはセリーヌが軽んじられぬよう、足元をすくわれぬようにするためだったけれど、年端のいかない子どもにしてみれば面白いものではなかったはずだ。


 そんな今までの配慮を投げ捨てて、セリーヌの楽しさだけをレイモンドは優先することにしたのだ。


『レイモンド、本当にお部屋を抜け出して大丈夫なの?』

『ええ、せっかくですからお嬢さまのやりたいことを全部やってしまいましょう』

『本当に? わたくしが望むことはなんでも?』

『ええ、お嬢さまが望むことはすべて叶えて差し上げます』

『あらそれじゃあ、とんでもなく悪いことをお願いするかもしれなくてよ』

『お嬢さまのためなら、喜んで悪事に手を染めましょう』


 そう答えた自分を見て、鮮やかに笑ったセリーヌの姿を今でもレイモンドは覚えている。そして言葉通り、影に日向にレイモンドはセリーヌの希望を叶えてきたのだ。


 セリーヌが笑ってくれればそれでいい。そう思っていた。


 けれどそれは、セリーヌの口からはしたない言葉を聞くためではなかったはずだ。彼女には真っ当な、日の当たるあたたかな道で幸せになってほしい。願いはただそれだけだったのに。


 純粋だからこそ笑ってひとを傷つける。子どものような無邪気さにレイモンドは翻弄された。


(私の思いも知らないで。どうしてあなたは……。)


 目の前でセリーヌが違う男の元に嫁ぐのを、血を吐く思いで耐えてきた。その自分に、『悪い男』を紹介させようとするなんて。


(なんて悪い子なのでしょうね)


「ねえレイモンド、どうしたの? もちろんわたくしのために協力してくれるわよね?」


 その言葉に、ぷつんと理性と限界がぶち切れる音がしたような気がする。


 そしてレイモンドは、主人であり手が届くはずのないセリーヌを押し倒したのだった。



 ***



「レイモンド?」

「まったく、お嬢さまときたら。『悪い男』がなんですって? 男なんてすべからく皆、悪い生き物に決まっているではありませんか。あなたを美味しく食べてしまおうと、よだれを垂らしながら見つめている。その視線に気がつかないほど純粋に育ったあなたが、私は時々無性に憎たらしくなります」


 セリーヌに言うべき言葉ではなかった。セリーヌの幸せを願って行動したのはレイモンドの勝手なのであって、セリーヌにそれを頼まれたからでも、強制されたわけでもない。今の言葉は完全な八つ当たり。それなのに、飛び出した本音はもう止められなかった。


「こんなに美しくなられて。この花を手折るのは誰なのか。社交界で話題にならない日はありませんよ」


 美しいからこそ、無惨に踏みつけてしまいたい。そう考える人間の気持ちが、今ならレイモンドもわかるような気がした。


「私がどんな気持ちであなたを見つめていたか、あなたには到底わからないでしょうね」


 王太子やら隣国の国王やらはセリーヌを不幸にする。いっそ他人に任せるのではなく、自分とともにあったほうがセリーヌは幸せになれるのではないかと考えたことさえあったのだ。


 けれど最後の最後まで妄想を現実に移すことができなかったのは、身分違いの恋であることをよく理解していたから。


 権力者とともにあることが幸せだとは思わない。けれどレイモンドのような平民には、セリーヌを守る力が圧倒的に足りない。セリーヌをさらって市井へ駆け落ちするなどもってのほかだ。まずその前に、セリーヌはきっとレイモンドのことなんて使い勝手のいい使用人以上に思ってはくれていないのだろうけれど。


『きゃっ!』

『大変、セリーヌお嬢さまが。誰か! 泥棒! 泥棒よ!』


 どんなに人生をやり直しても、出会いはいつも同じ場所。うらぶれた貧民街に迷い込んできたセリーヌから、美しい宝石がはめ込まれたブローチをかっぱらった場面からだ。


 お前は、彼女とは違う世界の生き物だ。身の程を知れ。そう突きつけられているような気がした。だからだろうか、宝物だったはずのブローチはその輝きを失い、人生をやり直すごとにすっかりくすんでしまった。今にもひび割れ、崩れ落ちそうにさえ見える。


『それは、道案内のお礼にわたくしが彼にあげたのよ。誤解しないでちょうだい』


 そう言いながらレイモンドを庇ってくれた、セリーヌの優しさが詰まった贈り物だったのに。



 ***



 レイモンドは、セリーヌのきまぐれで拾われた孤児。見た目こそ整ってはいるが、血筋を重んじる貴族の家で、セリーヌのそばで働けることが不思議な身の上。それ以上のことなど望むべくもなかった。


 ――ねえ、レイモンド。わたくし、悪い男に弄ばれてみたいの。どうしたらいいかしら――


 けれど、セリーヌの言葉でたがが外れた。一時の冒険心で手折られるくらいなら、いっそこの手で。あるいはそう思い詰めるくらいには、このやり直しの日々にレイモンドが耐えられなくなっていたのかもしれなかった。


「お嬢さま、ご存知ですか。乙女の証を傷つけることなく、快感を得る手段もあるのですよ。お互いにね」


 首筋に顔をうずめれば、くらくらするほど甘い香りに包まれる。そのまま少しばかり歯を立ててやれば、セリーヌが頬を染めたあげく、涙をあふれさせた。


 まったく、このおかたは。これでは相手を拒むどころか、興奮させる要素しかない。高貴な女性の涙は、いっそ扇情的でさえある。


 まるみを帯びた頬から、真珠のような雫が伝い落ちる。それをそっと舐め上げて堪能し、レイモンドは言い聞かせるようにささやいた。


「お嬢さま、男をあまり舐めてはいけません。いくら身分という純然たる壁があったとしても、欲情した男にそれらを理解する理性など残ってはいないのです」


 はくはくと唇を震わせるセリーヌ。その唇にむしゃぶりついて、まろやかな胸をもみしだき思う存分甘い声で鳴かせてみたい。そんな凶暴な想いを押し隠し、レイモンドは微笑む。


「これに懲りたら、むやみやたらに男を煽るような真似をしてはいけませんよ。……怖がらせてしまい、本当に申し訳ありませんでしt()

「……あら、これがなかったことになるとでも?」


 普段のふわふわとした砂糖菓子のような雰囲気はどこへやら、つんと冷たく言い捨てられてレイモンドは苦笑する。


「当然でございます。クビになることはもとより、お嬢さまを辱しめた罪としてこの両腕を切り落とされてもしかるべきだと存じます」


 責任は取るつもりだ。それだけのことをした自覚はある。もはやこれまでだとうなだれつつ、けれどようやくセリーヌから離れられると安堵したのもまた事実。


 だが、レイモンドを前にセリーヌは微笑んだ。随分昔に見たようなどこか懐かしい高慢な顔つきで。



 ***



(どうしてこうなった)


 形成逆転。セリーヌに馬乗りになられたレイモンドは、ひとり顔をひきつらせる。先ほどまで確かにレイモンドがセリーヌを押し倒していた。冷静になったレイモンドがセリーヌから離れようとした瞬間に襟元を引き倒され、逆に押し倒されたのである。


「お嬢さま自ら、私に罰を与えたいとおっしゃるのならもちろん止めることなどいたしません。けれど素手のままでは逆に手をいためてしまいます。どうぞ鞭をお持ちになってください」

「だーかーらー、どうしてそういう方向性にいってしまうのかしら。なんなの、そんなにわたくしって、女性としての魅力にかけるのかしら?」

「お嬢さまは、死ぬほど魅力的な方ですが? そもそも好きな相手でなければ、宦官になってまで嫁ぎ先についていくはずがないでしょう?」


 ぽろりと、つい2度目の人生の話がこぼれてしまった。言うつもりなどなかった、言っても意味が伝わるはずのない、どこかに消えてしまったかつての出来事。男であることを捨ててでも、彼女のそばにいたかった。その覚悟はあのときの彼女に少しでも伝わっていただろうか。


「あら、やっぱりレイモンドにもやり直す前の記憶があったのね。わたくしの記憶は、夢のようにぼんやりとしていて断片的な上にとても不明瞭なものだったけれど」

「お嬢さま、あなたは一体何を……」

「わたくしだって毎回頑張ったのよ。レイモンドの隣にいられるように。それなのにレイモンドときたら、わたくしを拐ってこの身を暴くどころか、自己犠牲の塊で献身的に尽くしてくれるのだもの。嬉しいやら、悔しいやらで、わたくし、頭がどうにかなりそうだったのよ?」


 さらなるトンデモ発言がセリーヌの口から溢れだし、レイモンドは呆然とするしかなかった。セリーヌの幸せのために頭を悩ませていたレイモンドの隣で、セリーヌはセリーヌなりに努力を重ねていたらしい。どうもその努力は明後日の方向であったような気もするが。


「もしかしたら、高慢ちきなわたくしだったから、レイモンドの好みではないのかもと悩んで、今回は男受けするように天然に見える努力だってしていたのに」

「お嬢さま……? つまり、お嬢さまは天然ポンコツ令嬢ではなく、養殖ポンコツ令嬢だった……?」

「何よ、天然でなければ好みではないとでも言うつもりかしら?」

「いいえ、そもそも私が好きなのはお嬢さまですから。どんな性格や雰囲気であろうが、お嬢さまはお嬢さまです」

「……ありがとう」


 はにかんだように笑うその姿は、最初に出会ったセリーヌの姿そのままで、レイモンドは涙が出そうになった。


「それにしても、どうして人生をやり直すことができたのでしょうか。私もお嬢さまも魔法の素養なんて持ち合わせておりませんのに」

「それは、あなたに渡したブローチのせいかもしれないわね。おばあさまの形見なのだけれど、持ち主の願いを叶える力があるそうよ」

「そ、そんな大切なものを、私に与えていたのですか! 何を考えておられるのです!」

「だっておばあさまに、本当に大切な相手ができたら、渡すように言われていたんだもの。真実の愛があれば、効果を発揮するだろうっておっしゃっていたのよ」


 ブローチの価値やら、やり直しの秘密やら、情報量の多さに頭がくらくらした。


「記憶があったのなら、話してほしかったです」


 やり直しの日々は孤独で寂しくて、セリーヌの隣だというのにときどきわけもなく消えたくなった。あがくことをやめなかったのは、やり直しの理由がセリーヌの幸福のためだったからだ。自分だけの事情なら、レイモンドの精神はとっくに破綻していただろう。


「レイモンド、あなただってわたくしに内緒にしていたでしょう」

「それは……」

「それは? まさか狂人扱いされるのが怖かったなんて言うつもりではないでしょうね?」


 レイモンドに言えるわけがない。セリーヌに記憶がなかった場合、無駄に怖がらせることになってしまう。それを自分は恐れていたなんて。今のセリーヌを見ていれば、それが杞憂だったことがわかる。たとえ記憶がなかっとしても、自分の心配を笑い飛ばし、未来へ突き進むだけの強さが彼女にだってあったはずなのだ。


「ねえ、レイモンド。あなた本当に、わたくしが『悪い男に騙されたい』と言った意味がわからないの?」

「……自惚れてもかまいませんか?」

「むしろわたくしのほうこそ聞きたいのだけれど、養殖はお嫌い?」

「まさか。手に入るはずのない女神が微笑んでくれたのです。手を離したりしませんとも」


 セリーヌに出会ったときから、自分はすでに彼女に心奪われていたのだと、レイモンドはようやく自覚した。だからこそ、彼女が身につけていたブローチがどうしても欲しくなったのだ。あんな足がすぐついて換金できないような代物、普段のレイモンドなら絶対に手を出さなかったのだから。


 泥棒と呼ばれていたレイモンドだが、その実すべてを根こそぎ奪われたのは自分のほうだと思う。命どころか運命まですべて彼女に委ねてしまった。しかもそれが少しも不快ではないのだから始末が悪い。


「レイモンド、あなた、わたくしのこと」

「ええ、愛しております。そうですね! お嬢さまの許可もとれたことですし、続きをいたしましょうか」

「いいの?」

「ああ、ここでは腰が痛くなってしまいますし、せめてベッドに移動しましょうね」


 輝くような笑顔でにっこりと微笑みながら、レイモンドはセリーヌの手にそっと口づけた。



 ***



 記録によれば、公爵家第22代当主は、歴代当主の中でも非常に人気の高い人物であったと言われている。


 彼女は珍しい女当主であり、公爵家の跡取りでありながら、その配偶者に平民男性を指名するような人物だった。奇天烈にも思われる行動だが、優れた改革を行ってきたことで彼女の評価は高い。


 特に上下水道の設備に尽力したことにより、王国内の他地域とも比べて感染症の発生率が激減したことは周知の事実である。


 また身分に関係なく、才能のある人間を取り立てたことにより、多くの優れた人物を輩出したことでも有名だ。


 なお彼女は自身が選んだ夫を深く愛していたようで、当主業の傍ら、計6名もの子どもを産んでいる。


 この当時にしては珍しく、夫婦そろって80歳近くまで長生きしていたようだ。晩年は孫やひ孫に囲まれ、穏やかに天寿を全うしたと伝えられている。


 当主夫妻は生涯壊れかけのブローチを大切にしていたというが、そのブローチにまつわる逸話については残念ながら記録されていない。


 一説によれば、時戻りの薔薇と称された魔宝玉がはめ込まれていたとも言われているが、さすがにそれは公爵家の持ち物と言えども眉唾であろう。

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