173.テオドールの失態だわ
睨みつけたものの、ここで私に攻撃するほど愚者ではなかったようね。まあ、斜め後ろで威嚇する番犬も影響したと思うけれど。話を持ち帰るヴァルター騎士団長を見送った。
「ひやひやしました」
小心者のウサ耳獣人エレオノールは、ぴるると耳を揺らす。ピンクのふわふわの長い耳が、ぺたりと倒れていたわね。手招きして耳を撫でた。ああ、癒されるわ。
「平気よ、私に攻撃したら何が起きるか……想像できない馬鹿ではないわ」
どこかの誰かと違って、ね。含めた意味を察したエレオノールが頷き、後ろで待っていたテオドールに場所を譲る。差し出されたのは報告書だった。簡潔にまとめられた文面に目を通し、手を伸ばす。
大人しく膝を突いて待つテオドールの頬へ、手のひらを滑らせた。目を閉じる彼の頬を指先できゅっと摘む。
「誰の失態?」
「申し訳ございません」
「言い訳しないところは偉いわ」
逆にそれ以外褒めようがないと言い放つ。嬉しそうに尻尾を振る幻影が見えた。エレオノールより、ずっと獣人ぽいわ。
第二皇子アウグストが逃げた。想定した通りなので、ここは問題ない。なぜ一緒にあの女が逃げてるのよ。
「影が追跡しております」
「追跡……ね」
つまり捕縛に至っていない。逃げてる途中って意味じゃない。ムッとして足を踏み出す。美しく磨かれた靴の爪先で、テオドールの顎を持ち上げた。というか、足を組んだ勢いで押したら顎に当たったの。
倒錯的な光景に、エレオノールが涙を浮かべて両手で顔の下半分を隠す。驚かせたかと思えば「素敵」と意味不明な感想が聞こえたので、聞かなかったことにする。変な性癖の扉を開かないといいけど。
「お嬢様、必ず捕らえます」
「私ね、害虫は徹底的に駆除したいの」
排除しなさい。言い方を変えた私に、テオドールの目が輝く。人殺しの命令を受けて、嬉しそうにしないで。
彼が手を汚すのは私のため。暗殺者の運命から救っても、結局テオドールは人を殺すのね。責任はちゃんと取るわよ。飼い主だもの。組んだ足を解いて絨毯の上へ戻し、前に身を乗り出した。近い距離で彼の金髪を撫でて首筋を撫でる。
「分かってるわね?」
首を持ち帰りなさい。言葉にしない命令を、察した忠犬はすぐ頷いた。一礼して部屋を出る背中を見送る。
「凄い……こんな世界があるなんて」
「エレオノール、お茶が欲しいの」
うっとり呟く彼女に用事を言いつける。どうしましょう、何か変な方向へ目覚めさせた気がするわ。でも修正の方法は知らなかった。すぐ用意されたお茶に銀匙を入れ、くるりと回す。その間も何か呟くエレオノールを無視し、一口含んだ。
少し渋いわね。ジャムを入れて味を直し、もう一口。明日の準備をしなくてはダメね。どこか倒錯した異世界に飛んだ様子の秘書官を、現実へ引き戻すために扇をパチンと鳴らした。
「エレオノール、明日の準備をお願い」
本来ならテオドールに任せるところだけど、彼は猟犬としての役目を果たしてもらわないといけない。はっとした様子で承諾を伝えるエレオノールは、ピンクのウサ耳を揺らして踵を返した。
リッター公爵の次男エトムント、使える男ならいいけれど。