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思母の唄  作者: マナティ
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第二章 十二歳差の親子


   ◇


 高校一年生といえば二度目の誕生とすら言える二次成長期の真っ只中である。中学・高校と男女に華やぐ共学校に進学し続けた龍之介だが、これまで浮いた話を持ったことは一度もない。容姿については凛々しいという静音の評価は身内贔屓として脇に置いたとしても平凡未満ということはなく、染髪もピアスもやらないためやや古めかしくはあるが、代わりに清潔感があった。ふとした切っ掛けで恋人の一人くらい難なく作れそうに思えるが、親への不信もあってか彼の異性への関心はややひねた目覚め方をしており、異性全般に妙な偏見を持つ傾向が見られた。

 例を挙げると、たとえば担任の杉浦愛美がいる。静音より若干年上くらいの若い女性であり、仕事ぶりは生徒の目から見てもやや怪しいところがあったが、朗らかな人柄で人気は高かった。彼女はつい一昨月に挙式を上げたばかりということもあって機嫌よく惚気話を振りまくことが多くあり、だいたいの人間は笑って済ますが龍之介はその限りで無く、彼女のそのようなところを一方的に毛嫌いしていた。

 逆の例として、龍之介と同じ美化委員に属する武田由利という女子生徒がいた。龍之介の一つ上の先輩で、一言で言うなら地味な女性であった。化粧気が薄く、髪型も少々野暮ったく、言動にも洒落っ気というものが今一つ欠けている垢抜けない娘だったが、愛嬌と媚態を同一視しがちな龍之介にはむしろ好ましく見え、また委員会での仕事ぶりは実直の一言に尽き、男の目から見ても尊敬に値するものだった。あるいはこの人ならば、などと龍之介も年相応に夢想したりするほどだったが、こちらについては残念ながら夢が現実となる兆しは今のところない。

 纏めるに龍之介は女性への性的関心は人並みくらいにはあっても、男女関係というものに対しては厚く隔意を抱いており、とりわけ女性の、大なり小なり男に身を預けようとする仕草を殊のほか嫌っていた。過度の媚態は誰の目にも滑稽に写るだろうが、年相応の化粧、お洒落、愛嬌、異性への関心すらも厭うようでは咲ける花もない。

 しかし幸い龍之介は同性の友人にはあまり不自由しないたちであり、そのことが時として思春期の人間を抜き差しならない域にまで引き摺り込む鬱屈の沼に龍之介が足を踏み入れるのをかろうじて押しとどめていた。

 たとえば龍之介のクラスメートでもある土屋小次郎という少年がいる。小学校からの知り合いで、ともにやや時代錯誤めいた名前を持っていたことから友誼を結ぶようになった。学業面においても平均点スレスレの次元で競い合うライバル同士であった。

「なんだよ龍、そんなに見つめるなよ。俺にソノケは無いからな」

 少々、下品なきらいがある男だが。

「口汚い奴だ。ここまで臭って来るぞ」

 芝居気を混ぜて龍之介が顔を顰めて見せると、小次郎は慌ててポケットからキシリトールガムを取り出し、三粒ほど包み紙から出して一息に口の中へ放り込んだ。柔道部に入れそうなくらいの大柄なのに変に小心なところもある少年で、冗談に過ぎなかったことを一言告げてから龍之介も一粒相伴に預かった。

「それよりどうだ、新しい家族の方は」

 間違っても静音の事ではないし、そも尋ねたのは龍之介の方である。小次郎の家はついこのあいだ猫を飼い始めたのだ。

「まぁまぁだよ」

「可愛いか?」

「どうだろ」

「女を家に連れ込む口実に使うなよ? 俺猫を飼ってて、この間子供を産んだんだ。良かったら見に来ない? ってさ」

「わー可愛いー。ところで家の人はいないの? え、なんで鍵を閉めるの? キャーヤメテー……て、なにやらすんだ」

「と言いながら獲物を探してしまう小次郎君だったと」

「と、のちの共犯者R氏は語るのであった」

 軽口とも言えない馬鹿話を二人で笑い合った。もし静音がここにいれば目を丸くしてしまうくらい、けらけらと笑う龍之介の顔にはおよそ屈託というものがなかった。龍之介は学校が好きだった。篤学の士とは成績を鑑みても到底言えないが、しかし長男という煩わしい地位がないというだけでこれほどの自由の園は他になかった。

 学内で最も親しいと言える目の前の友人にしろ、間にあるのは切りたいと思うならいつでも切れる儚い関係であり、卒業後の進路が異なれば、多かれ少なかれ自ずとそうなるだろう。だからこそ、龍之介は小次郎を大事にしたいと思っており、相手もそうならなお嬉しく思うだろう。それは今となっては、父にも静音にも、薫にすら期待できない繋がりなのだ。

「龍、今夜遊ばないか?」

 下校のチャイムが鳴って、龍之介が薄っぺらい鞄を持って立ち上がろうとしたとき、同じく薄っぺらな鞄を抱える小次郎が誘ってきた。夜遊びの誘いである。

 部活動が盛んな藤枝学園で、二人は同じ帰宅部として放課後にもよくつるんでいた。毎度ではないが夜遊びは深夜にも及ぶこともあり、ときには小次郎の部屋で酒瓶を開けて、こっそりと大人の真似事を楽しんだりもする。小次郎のいかめしい顔は、コンビニでの年齢詐称には打って付けだった。

 ただ学生服など着ていてはいかめしさ以前の問題なので、その場合は二人とも事前から着替えを用意しておくか、今日のように思いつきの計画なら一旦帰宅し、着替えてこなくてはならない。

「よし、行くか」

「おう、行こう」

 集合時間と場所を打ち合わせた後、龍之介は駐輪場で愛車を回収し、毎朝の通学路を風切って逆走していく。数分もせずに例の土手に差し掛かった。まだ夕方には早い。

 夕食については、既に朝から静音に断りを入れていたので今日は頓着する必要はない。小次郎の誘いが無くとも、龍之介は今日帰らないつもりだったのだ。といっても週に何度も朝帰りするまで遊び呆けるようでは貯蓄にも支障が出るので、適当にあまり金を掛けずに時間を潰し、家族が寝静まる頃にこっそりと帰るのが常だった。結果的に、かつての父と同じようなことを龍之介は行っていた。

 曇った空のせいで寒々しく、西尾川も心なしか色が淀んでみすぼらしく見えた。これが本当の姿なのだという気が龍之介にはする。

 しかし変わったこともあった。土手道と二メートルほど高低差をつけて並行している車道の端に、なにか毛むくじゃらな異物を龍之介は見つけた。自転車を止めて確かめて見ると、それは茶色い毛をした猫の死体だった。

 おそらく土手脇の車道をうろついていて、車に轢かれてしまったのだろう。タイヤが圧し掛かったと思われる胴体は抉れてペシャンコになっており、骨と内臓が露出している。五体は投げ出されており、血と臓物さえなければ腹を出して大の字に寝そべっているようにも見えた。口は半開きで欠伸をしているかのようにだらしなく、酔っ払った大人の行き倒れを彷彿とさせた。

 龍之介は土手を下りて猫の死体の傍に立った。猫の視力が生きていれば、龍之介を天使のお迎えとも錯覚したかもしれない。龍之介の方は猫の魂をどこかに迎えるつもりなどなく、追悼する気持ちにもまた乏しかった。内蔵まで衆目の目に晒す死に様は、無残の一言に尽きる。恐らく今日授業のある間に轢かれたのだろうが、今日であって幸いだった。ここ数日は連日の雨で、ようやく止んだのが今朝からだった。もし雨晒しで放って置かれていたら、ここら付近は今頃ひどい臭いになっていたかもしれない。

 さすがに哀れみを覚え、龍之介は埋葬することを考えたが、この場所に勝手に埋めていいのか分からず、スコップなどの道具の用意もない。どこに連絡すればいいのかもわからないので、結局そのままにしておくしかないと判断したが、すぐさま取って返すのも憚れ、龍之介は間の抜けた立ち往生を余儀なくされた。

 茶猫の光のないまなこを眺めていると、もちろん猫の方は何も見えてはいないだろうが、龍之介は不思議とこの猫と目を合わせて意志を疎通させている気分になった。

(どんな気分だ)

 何時の間にか会話が始まっていた。

(死んでるときって、何が見えてるもんなんだ。俺は生きてるから分からないんだ)

 およそ二分もの間、龍之介は猫の死骸と見詰め合っていた。龍之介にネクロフィリアの気は無いが、ただ猫の死体を見ていると記憶の奥底をカリコリと引っ掻くものがある。その正体はなにかと気になり、なんとか記憶の土より引っ張り起こして中身を確かめると、その不快さに龍之介は眉をひそめた。

 それは母の葬式の記憶だった。

 この茶猫と同じく、彼女もまた交通事故で死んだのだ。猛スピードのトラックに跳ね跳ばされたはずの彼女の体は、葬式の段階では中身はともかく外見だけなら、そう酷いものではなかった。医師が必死に繕ってくれたのかもしれない。

 葬式の日の事は、一昨年のことだけあって龍之介は良く覚えている。遺体は棺の中。それを中学二年生の龍之介は棺の頭部についた小さい窓から覗き込んだ。死に装束と化粧を纏った母はまるで蝋人形のように青白く、生命も体温を感じさせない作り物めいた美しさを醸し出していて、このまま火葬で焼き払ってしまうのが何とも心苦しくなり、あるいはこのまま家で保管できはしないかと、そんな馬鹿なことを当時の龍之介に思わせた。

(ゆっくり眠るといい。もう誰も、起こしはしないから)

 一匹の猫についてはこの時初めて、一人の肉親についてこの時二度目のこととして、龍之介は自らの心の内側に幕を下ろした。カーテンコールは必要ない。舞台が終わったというなら演者も客もただ休むべきなのだ。

 詮無い会話の真似事は打ち切り、龍之介は帰ることにした。このまま死体を眺めていては、怪しい趣味と間違われかねないと、今更ながらに気にしていた。

 住宅街まで自転車を飛ばすと、塀の上を気取った様子で歩く黒猫に出くわした。誰かの飼い猫か、それとも野良か。

「車に気を付けろよ」

 気まぐれな忠告をつんと無視して、黒猫は悠然と歩いていく。


   ◇


 旧姓、高倉静音は静岡県を出身としており、高校卒業の際に上京して都内の大学に通った。その大学で教員資格を取ったが教職に就くことはなく、父方の叔父の紹介でさる映画製作会社の事務員に就職し、そこで天野翔一と出会った。その頃の翔一は年齢三十六歳、勤続十年を越えてまさに社会人として油が乗っている時期であり、とりわけ彼の仕事ぶりは同年代は愚か社内全体の中でも非常によく目立った。入社当初から映画製作については新人らしからぬ見識と経験を併せ持っていた翔一だが、良き映画のためならばと部署の違いも年齢差も気にせず、あれこれと正論難題を吹っかけ回る様から、時として周囲より敬遠されがちでもあった。しかし理解ある上司と先輩方に恵まれたこともあり、十年のうちに取れるべき角は取れ、尖るべきはさらに尖り、幾つか運もあってのことだが、ついには若手の中で最初に監督役を任せられるようにもなったいわゆる出世頭だった。

 信頼と敬意の脚光を浴びながら粛々と仕事をこなしていく寡黙な男の背を、静音が憧憬の眼差しで追うようになったのはごく自然なことだった。当然その頃の翔一には既に妻と二児がいたが、良くも悪くも翔一は根っからの映画製作者であり、口を開けば仕事に纏わる話しかせず、家族写真も持ち歩かず、連日の深夜残業や休日出勤も望むのところという姿勢で、およそ家庭の匂いというものを感じさせないところがあった。彼が妻を失ったと聞き、喪が明けてからさほど時を置かないうちに静音が意を決して後釜に名乗り出たのも、そういったところが寄与していた。

 さながら錆び付いた鉄に油を差すように、静音には他人の頑な心を解きほぐす才能があった。総合芸術とも言われる映画の製作会社であるから、とりわけ現場近くは作家、画家、演者、大工、衣裳デザイナーと一癖も二癖もありそうな人種の坩堝であったが、静音はその懐深く受容性に富む人柄で闘牛士さながらに彼らの意固地な頭角をひらりとやり過ごし、時にはロデオのように笑いながら尻に敷いてしまうほど人付き合いに長けていた。あるいは叔父が自分の会社に静音を誘ったのも、そういった彼女の稀有な技量を見込んでのことかもしれない。とにかく彼女はそういった才覚と、持ち前の前向きさを駆使して、当初はつっけんどんもいいところであった翔一に対しても徐々に胸襟を開かせていき、やがては家族に紹介されるところにまでこぎ着けた。

「本当にいいのか、静音君。当たり前だが、家族というのは本来、一から作っていくものだ。途中参加の家族なんて、わざわざ要らない苦労を背負い込む必要などないだろうに」

 翔一はしきりにそう言ったが、静音は気にしなかった。

「未婚の男性と結婚したって、義理の母や兄弟が出来るんですから、苦労が生まれるのはおんなじです。でもまぁあれですね、本当に手の付けようのない不良息子と娘だというなら、少しは考えますけど?」

「そんことはないが、君を受け入れるかどうかはまた話は別だ」

「受け入れられないとも決まっていないでしょう? せっかく長年の片思いが叶いそうなんです。挑戦ぐらいさせてください」

 そうして初めて出会う翔一の二児たちは、見事なまでに対照的な面持ちで静音を出迎えた。掴み所なく、型どおりの態度しか見せない兄の龍之介に対し、妹の薫はけんもほろろに頭から静音に猛反発した。当時まだ七歳の子供が、泣きじゃくりながら「新しいお母さんなんていらない!」と声を枯らして叫ぶ様は、四、五年にも及ぶ長い片思いをようやくに成就させられたことでやや浮かれ気味になっていた静音の心中を強かに打ちのめした。

 そんな薫の様子であったから、結婚を前提とした付き合いを始めてからも、早々に静音が天野の家に住み着くわけにはいかず、しばらくは夕食だけを共にして帰るような通い妻めいた日々が続いた。次第に改まっていくものの翔一もまだこの頃は連日帰りが遅く、夕食は静音と兄妹の三人きりという日が多かった。自分が帰れない日は来なくても良いと翔一は言ってくれていたが、それは静音の方から断った。いずれ越えねばならない関門であるし、また静音は翔一を男性として尊敬してはいたが、一から十まで盲信してもおらず、とりわけ人と人の間を取り持つ技量についてはやや疑いも持っていたため、むしろ自分一人の方が対処しやすいと考えた。

 この頃すでに職を辞していた静音は、だいたい午後四時ごろを目安に天野の家に入り、炊事や洗濯などの世話をするようになった。薫を除いた男二人はあまり家を汚すたちではなかったため掃除は数日に一度程度でよく、それもリビングや廊下などの公共の場や、翔一の私室のみに留まった。龍之介らが通う藤枝学園は幼少中高一貫校であり、完全なエスカレーターでは無いものの大学まであるちょっとしたマンモス校であり、当時龍之介は中等部三年、薫は初等部二年に属していた。それぞれの校舎が近くにあり、かつ薫がまだ小さいこともあってこの頃の二人は連れ立って帰宅することが多く、二人の鳴らす呼び鈴が静音にとっては辛抱開始のゴングともなっていた。

「二人ともお帰りなさい」

 精一杯の笑顔で出迎えると、兄は能面のような顔で「ええ、ただいま」と簡素に返し、妹は顔を見るのも嫌だとつんとそっぽを向き、声をかける間も無くさっさと二階へ駆け上がった。龍之介の方は挨拶にも、その他に静音が一生懸命仕入れてきた若者向けの世間話にも一応受け答えはするが儀礼的な域を出ず、それもあまり長引かせてしまうと階上から癇癪まじりの呼び出しがかかってしまうので、やはりあまり静音のところに長居しなかった。夕食の際にはこれでもかと腕を振るって見せたが、せっかくの会心の出来も隔意に塗れた子供には効果は薄く、薫は口が曲がっても美味しいとは言わないと心に決めている風ですらあった。当然、食卓の空気は極めて重苦しく、ひとまず何かを尋ねれば形の上だけでも何かを返してくれる龍之介だけが静音の救いとなっていた。夕食の片付けを終え、家を出る際も彼だけは下に降りてきて見送りをしてくれた。

 だいたいこういった様子が二ヶ月ほど続き、静音は大いに消沈したがめげることはなく、また薫に対して変に恨みを拗らせることもなかった。新しい母を名乗る見ず知らずの女が、我が物顔で家に居ついていたらどのような気持ちになるかは、自分の身に置き換えてみれば察しはついた。何事も順序というものがあり、いまはひとまずあの兄妹に自分という存在に慣れてもらう段階だと人付き合いの名人はごく前向きに考えた。薫の態度は幼少ゆえに遠慮というものがなかったが、換言すれば感情に対して至って素直であり、形式的な態度を崩さない兄よりもむしろ胸中は分かりやすかった。静音は努めてあまり薫に干渉しないようにし、それでも時折降ってくる罵声はのらりくらりと受け流し、食事の際にはまるで家政婦のように丁寧に彼女に尽くした。明確に下手に出ることで、抜身の牙にゆっくりとヤスリをかけていこうとしたのである。

「静音さん、ひとつ相談があるんですが」

 ある日に龍之介がひょいと、待ちに待った切っ掛けを持ってきた。静音が天野家に出入りするようになって、だいたい三ヶ月ほどたったくらいのことだ。薫が通う初等部のクラスのレクリエーションで、生徒皆が家から料理を持ち寄り、立食形式に昼食を取るイベントが企画されたらしく、持参する料理について龍之介は薫より相談を受け、それをまた静音の方に持ってきたという次第だった。

「店でケーキでも買って持たせようとも思ったんですが、手伝ってやってもらえませんか。良ければでいいんですが」

「まかせて。まっかせて」

 気勢余って、静音は三度も胸を叩いた。兄が仕向けたこととあらば薫も強く反対できず、せめてもの意地悪としてやれ「フランス料理がいい」だの「フォアグロとかいうのを買ってきて」だのと生意気をぬかしたが、龍之介が目をやるとすぐに声は小さくなり、リクエストは結局焼きそばに落ち着いた。

 作った料理を早朝に持たせる必要があるため、件のレクリエーション前日に、静音は初めて天野家に泊まった。そして日の昇る前からキッチンに意気揚々と出陣し、事前に買い込んでいた大量の材料と、実家から運んできた大小様々な調理器具をテーブルの上に広げ、颯爽と腕まくりした。

 具体的な調理の手順は省くが、結果として静音は二十人分ほどの焼きそばに加えて、きっかりクラスの人数分のショートカップケーキまで手作りしてしまい、翔一の二児たちを大いに驚かせた。そして約三十個のカップケーキを三十センチ四方の平たい手提げ式の箱にきちんと仕舞い、抜かりなく保冷剤も大量に仕込み、目をきょとんとさせる龍之介の両手にしっかと持たせた。大きさもさることながら、天地無用かつワレモノ注意のため薫の手に余ると判断されたのだ。結局その日の龍之介は、自分の教室に向かう前にまず初等部校舎の家庭科室の冷蔵庫にまで足を運ぶ羽目になった。

 こうして薫(と龍之介)が持参したショートケーキは味もさることながら、チョコレートソースによって一つ一つイラストまで書かれており、それが薫のクラスでも人気なアニメキャラクターを模したりなどしていたものだから、薫の級友たちの間でも大いに評判になった。さすがの薫もここまでされては静音に礼を言わないわけにはいかず、ひいてはこれが二人の和解の始まりとなった。長い冬が終わり、雪が溶け、新たな関係性が血の繋がらない親子の間に芽を出した。しかしすべての問題が解決したわけではなく、薫と静音の距離が縮まるにつれ、今度は龍之介の方が明らかに家から遠ざかるようになっていった。

 高等部に登ってから龍之介は遅くまでのバイトを週に四日入れ、残る日も友人との約束などを理由にまともに家に帰らないようになった。先日の夕食といい、龍之介だけをのけ者にするかのような今の天野家の状況に、静音は心を痛めずにはいられない。本来異端者は自分のはずであり、そこから脱しようと奮戦してきたが、それが実れば今度は龍之介が弾き出されてしまっては元の木阿弥である。しかし龍之介は態度そのものはことさら友好的ではないにせよ敵意らしきものは見せず、静音に対しても常に一定の敬意を払っている。真意を探ろうと試しの言葉をいくつか放ってみても暖簾に腕押しに終始し、さしもの人付き合い名人も心底を掴みかねていた。

「私、嫌われてるでしょうか」

 静音はそう翔一に相談したが、彼は即座に否定した。

「あいつが嫌っているのは私だよ。私を嫌っているから、私が連れてきた君にも心を開く気になれないのさ。とばっちりを受けさせてすまない」

「そんな……」

「私が妻とどう暮らしてきたか、以前にも君に話したろう? あいつは昔から母親思いで、夫よりもよほど夫らしいやつだった。憎まれるのも当然なんだ。悪く思わないでやって欲しい」

「だとしたら、翔一さんこそ龍之介君と話をするべきです」

「ああ、そう思う。何度か試みもした。ただこればかりはもう取り返しがつかない。私たちが和解するにあたって一番肝心な人間がいなくなってしまった」

「……お母さんを愛してたんですね。きっと良い親子だったんだわ」

「そう思う。家庭を顧みなかったのは私だけだ。龍之介のことは、どうかそっとしておいてやってくれないか。それと、何度も言うようだが」

「止めたりなんてしませんよ。せっかく薫ちゃんとも仲良くなれたんだし。話し合って決めたことですから、籍入れについてはまだ待ちますけれど」

 気丈に言う静音だったが、事態を好転させる秘策が彼女にあるわけでもない。死んだ母を今でも想い、母を蔑ろにした父をいまだ憎む。善良な少年がその善良さ故に心を鬱屈させているところに、静音の立場から掛けられる言葉などありはしない。

 だからこそ、尚のこと静音は龍之介を気にかけるようになった。彼が心から笑うところを一度でもいいから見てみたいと思った。翔一からの話でしか知らない、「夫よりもよほど夫らしい」という子供に、自分もまた出会ってみたいと思った。


   ◇


 龍之介が家に帰り、着替えを済ませてからすぐさま取って返そうという時、リビングで洗濯物を畳んでいた静音から声が掛かった。

「龍之介くん」

 龍之介は立ち止まり、静音が廊下に出てくるのを待った。

「龍之介くん、薫ちゃんのこと何か知らない?」

「薫? どうかしたんですか」

「それが、なんだか様子がおかしくて。帰ってきてからずっと部屋に篭もりっきりなの」

 静音の不安げな視線を追いかけて、龍之介も薫の部屋のドアを見やるが、そこからでは薫の異変など分かりようも無かった。

「寝てるんじゃないですか?」

「ただいまも言わなかったの。いつも大声で言うのに、今日は何も言わずに部屋に行って。だから薫ちゃんが帰ってきたって、最初気付かなかったくらいなんだから」

 そう聞くと、たしかにらしからぬ態度であるが、仮に薫が何かに悩んでいるとしても龍之介は積極的に手出しする気にはなれなかった。悩んでいる人間に対し余計な干渉をするべきではないと、龍之介は学んでいるのだ。

「そのうち出てきますよ。心配いりません」

 無意識に首を撫でながら、龍之介は断じた。

「そうはいかないわ。家族だもの」

 静音の反論は簡潔で、いつになく力強い。それだけに、なぜ、こうも気に触る言葉を選んでくるのか龍之介は詰問したい気分にかられた。

「部屋には行ってみたんですか」

「行った。鍵かけてるのよ」

「珍しいですね」

「そう、ますます変でしょ。龍之介くんから、尋ねてみてくれないかな。龍之介くんになら、なにか答えてくれるかもしれないから」

 言葉に何か含みを感じたが、龍之介は止む無しに踵を返し、降りた階段を再び昇っていった。「ありがとう」と弾むような声が後ろから聞こえたが、龍之介は答えなかった。

 薫の部屋の前につき、ノックを二、三。

「薫、いるか」

「兄ちゃん?」

「そう」

「どうしたの?」

 どうしたものかと龍之介は考え、とりあえずドアを開けようとした。やはり鍵が掛かっている。

「どうしたんだ。珍しいな」

「ちょっと、ね」

「ちょっと?」

「そう、ちょっと」

 言い訳の下手さに、龍之介は頭痛を覚えた。しかし薫の声は深刻なまでに暗い、というほどではなかったが明るくもなかった。確かにこれは何かがあったのかもしれない、と龍之介は直感的に思ったが、しかしながら今ここで時間を掛けて聞き出すのは憚られた。早いところ小次郎との待ち合わせの場所に向かわねばならないし、母親代わりならもう他に適役がいる。

「別に用は無いんだ。じゃあな」

 素っ気なく言葉をかけて階段に戻ると、階下から静音が非難がましく龍之介を見上げていた。さすがに素通りはできず、龍之介は頭をかきながら所感を述べた。

「確かに普通じゃないみたいです」

「そうでしょ? そう思うでしょ?」

「なにか俺たちに見られたくないもの、そう、日記でも付けているとか」

「薫ちゃんに、そんな習慣あった?」

「いえ。ああ、思い出しました。彼氏が出来たらまず交換日記からとか何とか、以前に言っていたような」

「出来たのかしら?」

「どうでしょうか。なんにせよ情報不足です。顔を見せたくないなら、しばらく放っておけばいいですよ。夕食には降りてくるでしょうから、その時に話を聞けばいいんです」

「話してくれる、かな」

「仮に聞けなくても、食欲なり顔色なりを見れれば分かることもあるかもしれません。俺は、今日は友達と約束がありますが……」

 行くな、などと静音は一言も言わなかったし表情にも浮かべなかったが、そのことが却って龍之介に譲歩をせざるを得ない気持ちにさせた。

「なるべく、早く帰ります。それと明日は第二土曜で、学校もバイトもないですから……」

「出かけないの?」

「出かけたい、ですが、まず静音さんの話を聞きます。必要なら、薫とも」

「ほんと? お願いできる?」

「……約束します」

 不承不承ながら、龍之介はそう言わざるをえなかった。


   ◇


 待ち合わせ場所である駅前の噴水近くで、十分ほど待ちぼうけを喰らっていた龍之介だったが、目当ての人物が駅の出口にふらりと現われたところを即座に見つけ、軽く手を上げた。大柄な小次郎は、それだけに人混みのなかでも目立つので、こういうときには便利であった。

「よう、遅れた」

 友人・小次郎は三十分の遅刻をたった一言で片付けた。片付けられた龍之介というと、こちらは二十分遅刻した身であったが、おくびにも出さず真っ先に小次郎を非難した。

「罰金な。今日の出費は、お前が七だ」

「せめて五と二分の一に」

「前は俺が七だったろ」

「いや、さらに前に俺が十だったことがあるはずだ」

「その数日前の約束をドタキャンした詫びだって、お前から言い出したんじゃないか」

 一通り言い合いを続けた後、「ま、実際悪かった」と小次郎は頭を下げた。友人のこういう殊勝なところが、龍之介は嫌いではない。

「どうしたんだ?」

「兄貴に捕まってさ。この間借りた金を返せって」

「なんだ借金か」

「つっても三千円かそこらだぞ。けど兄貴の方が今日どうしても必要だったみたいで、俺もあんま余分に持ってなかったから、うだうだ言い合ってた」

 小次郎には歳の近い兄と弟がいると、龍之介は話だけで知っていた。やはり小次郎のように二人も大柄な体格をしているのだろうかと勝手に想像している。男兄弟三人で喧嘩が絶えないらしく、時折龍之介も愚痴を聞かされてきたが、同じくらいの頻度で兄弟間の微笑ましいやり取りを聞かされることもあるので、総じて仲の良い兄弟なのだろうと捉えている。

「お前まさか、いま文無しか?」

「いんや、母さんに助けてもらった。危なかった」

 小次郎はからからと笑った。

「まったく家族って奴は、言いたい放題言えるもんだから、喧嘩するときはすぐ喧嘩しちまうよな」

「そうかな」

「けど兄貴ともたまに二人で酒を飲むこともあるんだ。そんときゃ何時も盛り上がるんだよな。これもやっぱ家族だからかな」

「そうかもな」

「いや兄弟で飲みって、結構いいぞ。お前もやってみ。妹ちゃん、いま何歳だっけ?」

「九歳。じゃぁ今度誘ってみるかな」

「うはは」

 そんな会話をしながら、二人は歩き出した。とりあえずの目的地は腹ごしらえのためのファミレスである。そのあとは、大体はカラオケかボーリングがゲームセンターかといった具合になる。

「おう、なんか元気ないな」

「なに?」

 道すがら、突然小次郎がそんなことを言い出した。

「さては薫ちゃんとなにかあったな?」

「なんでだよ」

「お前みたいなシスコンが落ち込んでいるなんて、そりゃ妹ちゃんに彼氏が出来たとしか思えない」

 小次郎は一度だけだが薫と面識があり、二人がまだ中学生だったころ、龍之介が実母の代わりに幼稚園まで薫を迎えに行くところに、小次郎が付き合ったことがあるのだ。

 それにしても、たとえ冗談と分かっていてもあまりな言われように、龍之介は頭を抱えた。心外という言葉では到底足らない。

「冗談だ。悪かった。けど元気ないって思ったのは本当だぞ。何かあったのか?」 

「なにもありゃしないよ」

「そうか?」

 小次郎は深く訊ねず、笑いながら前を歩いていった。目当てのファミレスが目の前に見えており、その直ぐ隣の電気屋のショーウィンドウに二人は差し掛かった。見本として窓に飾られている液晶テレビの一つがプロ野球中継を流していて、何となく二人して足を止めた。

「おお。広島勝ってる」

 他県民でありながら、小次郎は広島ファンであった。なにか拘りがあるらしいが、プロ野球界に関心が無い龍之介にはよく分からない。

 隣のテレビはニュースを映し出している。近くで起こったひき逃げ事件のことを報道していた。轢かれたのは女子中学生であり、即死であったそうだ。

「いやだよなぁ。最近こんなのばっかで」

「だな」

「犯人は酔払い運転だってよ。勘弁して欲しいぜ」

 気分を悪くしたのは小次郎だけではなく、龍之介もまた帰りがけに見た猫の死体を思い出し、顔をしかめた。ニュースで死亡した少女の母親が涙ながらに犯人への怒りを訴えていた。このように涙を流し、悲しみをあらわにできる人がいるなら、その少女はきっと幸せだったのだ。死にゆく人間に対して、それ以上の手向けを龍之介は思いつけない。自分はどうだったかと思い起こせば、あまり記憶がはっきりしない。父はどうだった、薫はどうだった。

「おお、また打った」

 隣で小次郎が手を打って喜ぶ。すでにニュースには興味をなくしているようだ。龍之介はこの後の予定に思いを馳せた。夜遊びの常習犯である龍之介と小次郎であったが、大体がカラオケやゲームセンターに興じるくらいで、飲酒に手を染める頻度はさほど多くはなく、だいたい月に一度といったところであった。二人で大人の真似事を楽しんではいたが、酒の味そのものを好んでいるわけではまだなかったのだ。

 つい先週にも、小次郎の家で慣れない洋酒の味に二人でひいひい咳込んだばかりであり、いつもであればしばらくは控えるところなのだが、龍之介はさてどう切り出せばこれまでの暗黙の了解を破ることに友人が同意してくれるかに考えを巡らせていた。

 帰り道の猫、ニュースの少女。今日という一日のなかで一つの亡骸と一つの訃報に触れた。そのいずれもが母の死に顔を想起させ、龍之介の胸に枯れ果てるような風を吹かせた。龍之介は何とはなしに、酒浸りになってしまいたい気持ちに駆られた。ただひたすらに、何もかもを忘れるまで酔っ払ってしまいたいと思った。


   ◇


「ただいま」

 すでに夜遅く、十一時を少し過ぎたくらいに龍之介は帰宅した。天野家は九時過ぎには大抵皆寝室に入っているので、そういう時は龍之介はチャイムを鳴らさず、忍び込むように玄関をくぐる。

 龍之介は壁に手をついて、言うことの聞かない体を必死に制御しながら、のそのそと廊下を歩いた。ボーリングの最中、適度に盛り上がってきた頃を見計らった龍之介の酒の誘いに、小次郎はいともあっさりと賛同してくれた。「飲みたいなら飲もうぜ」といった調子だ。

 階段を登る前にキッチンに入り、明かりもつけないまま流し場に立って、蛇口を捻る。流れてきた水道水を直接手で掬い、一息に飲み干した。ぷはぁ、と吐き出した息は自分でも酒臭かった。

 サラリーマンみたいだな、などと龍之介が自嘲したとき、想像上のモデルは父であったが、直ぐにイメージの齟齬に耐え切れず崩れさった。あの男が酔っ払って千鳥足で歩くところなど想像もつかない。だが想像にないというのなら、母の死後にあっさりと二人目の妻を見つけてきたこともそうだった。

 もう一杯飲み干してから、龍之介はそのまま気怠さに負けて床にへたり込んだ。あまり酒に強い方ではないと自覚はしていたが、今日は盛大に失敗した。小次郎がしきりに急かしつけるせいもあって、つい調子に乗ってしまい、途中からはほとんど飲み比べの様相を呈していた。

 きっとうさ晴らしだったのだ。二年という月日はそれなりに長く、少しずつ少しずつ心にヤスリをかけていくような日々だった。

「やっぱ家族じゃこうはいかないよ。小次郎」

 龍之介が心の奥底を見せられるのは、どうしても赤の他人だった。

 先ほど水を飲んだとき、龍之介はキッチン周りのものをざっと見渡していた。調理器具や調味料の配置が、彼の記憶にあるものと若干変わっている。だが醤油瓶が以前はどこに置かれていたかなど、龍之介はもう覚えていない。実母のエプロンがどんな柄であったかも、すこし怪しくなっている。一人の人間の消失とはこういうものかと、龍之介は恐れすら感じた。

 耐え難い孤独感が龍之介の肌を粟立たせた。息苦しい。首が疼く。温もりが欲しいと感じる。あるいは七年前の母もこのような気持ちだったのだろうか。そう考えると、龍之介は泣きたい気持ちにすらなった。

「龍之介くん?」

 聞こえてきた声に振り向くと、どこまでも七年前をなぞるようにリビングの方から静音が顔を覗かせていた。

「龍之介くん、どうしたの?」

 ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、寝巻き姿の静音が隣に駆け寄ってくる。少し湯上りの香りがした。入浴後からさほど間がないのであれば、寝ていたところを起こしてしまったわけではないようだと、龍之介は妙なところで安堵した。

「すみません。すこし酔ってしまって」

 隠してもしょうがないので正直に答えると、案の定静音が何か物言いた気な顔をするのが、暗い中でもわかった。

「大丈夫?」

 訊ねながら、静音は棚からコップを取り出し、水を注ぎ始めた。

「大丈夫です。静音さん、寝てなかったんですか」

「いつも寝るのはもう少し遅いよ」

「そうでしたか」

「さ、これ飲んで」

「もう飲みました」

「いいから。もう一杯」

 無理矢理押し付けられる。言われた通り、龍之介はコップを受け取り中身を飲み干した。それだけで息が切れてしまい、龍之介は膝を抱えて必死に胸を落ち着かせようとした。静音はそんな龍之介の手からコップを抜き取って、そのまま龍之介の隣に座った。背中をさすってやりたかったが、龍之介はキッチンの壁にピタリと背中を付けていたので、断念せざるをえなかった。フローリングの心地いい冷たさを、十二歳差の親子は共有し合った。

「無茶したら良くないよ。未成年なんだから」

「すみません。返す言葉もないです」

「なにか、嫌な事でもあった?」

「いいえ、そういうわけじゃないです」

「そう? 龍之介くん、色々溜め込みそうだけど」

 龍之介は何も言わなかった。

「気持ち悪くない? 吐きそう?」

「大丈夫です」

「部屋まで戻れる?」

「少し休めば戻ります。父を呼んだりしないでください。一人で戻れますから」

「翔一さんならいないよ。今日は珍しく残業。だから今夜は私、一人ぼっち」

 珍しくですか、と龍之介は当てこすってやろうかと思ったが止めた。ひどくみっともない物言いに思えた。

「薫はどうしたんです?」

「相変わらず。結局、夕食にも降りてこなかったの。食欲がないって。だから顔も見れてない」

「……」

「理由の想像つく?」

「分からないですよ。聞かないことには」

「明日、協力してくれるっていう話、覚えてる?」

「約束は守ります。ちょっと起きるのは遅れそうですが」

「うん、頼りにしてる」

「どうでしょう。近頃、ろくに話もしてないし」

「大丈夫よ。薫ちゃんと二人で話すとき、たくさん龍之介くんの話が出てくるんだから」

「そうなんですか」

「大体は私が来る前の話ね。龍之介くん、ナイトだったのね」

「薫がそう言ったんですか?」

「ううん、私の感想。お母さまが亡くなられる前からも、幼稚園への送り迎えとかいろいろ龍之介くんがしてあげてたんでしょ」

「一貫校でしたから」

「あと薫ちゃんが誰かに乱暴されたりなんかして泣いちゃってる時には、すぐに駆けつけてくれたりとか。嬉しそうに話してたわ」

 龍之介はウンザリしたような、やりきれないような、複雑な顔でかぶりを振った。

「覚えがない?」

「いいえ、確かにそんなこともありました」

「お友達との喧嘩とかかな」

「そんな感じです。調子に乗って言い過ぎてしまうところがあるみたいで。そのくせ打たれ弱くて、よく笑うやつですが同じくらいよく泣くんです」

「へーえ」

 なんでも無いように相槌をうちながらも、静音は龍之介の言葉の裏をよくよく読み取った。薫の話を否定しなかったことから、静音が来る以前、彼は本当に薫の面倒を熱心に見ていたのだろう。だが静音は龍之介が殊更薫に構っているところを見たことが無い。たまに帰ってきて薫に何かをせがまれても大抵あれこれ理由をつけて断っていた。

「さっき、龍之介くんが色々溜め込みそうだって、私言ったでしょ?」

 唐突に話を変えた静音に、龍之介は視線だけを向けた。

「私ね。龍之介が、何かの重たいものを誰の手も借りずに一人で背負って、一人で苦しんでいるように見えるの」

「俺がですか?」

「そうよ」

 重たいもの、との言葉に龍之介は深い実感を抱いた。そうかもしれない。こんなにも未練がましい性格でなければ、きっと自分は静音ともまた違った形で接することが出来たのだ。

「別に悩みなんかありません。俺は大丈夫です」

 嫌な方向に話が進む気配があったが、体は依然として鉛のように重く、この場を逃げ出すことは出来そうになかった。なのでせめてもの抵抗として、龍之介は一切静音と目を合わさず、膝の間に顔を沈めた。

「龍之介くん。君の気持ちを聞かせてほしいの。そうしない限り、私も、君も、翔一さんも、誰も前に進めない気がするの。君くらいの歳の子が、他でもない自分の家で、一人苦しい思いをし続けるなんて、あっちゃいけないことなのよ」

 目を向けずとも、きっと静音の両眼は春の水面のように瞬いていて、真っ直ぐに自分を見つめているのだろうと龍之介には想像できた。そして龍之介はけっしてそれを確かめようとしなかった。

「翔一さんを許してあげてと言うんじゃないの。許せないのならそれでいい。でもその気持ちを自分だけの胸に閉じ込めないで。そのままにしていたら、龍之介君の心の中に暗いものがどんどん積み重なって、いつかは物の見方すら歪めてしまうようになる。君は、それを、もっと吐き出すべきなのよ」

「だれに吐き出せと言うんです」

「翔一さんが聞く。私も聞く」

「父の悪口を、静音さんに言えと言うんですか」

「私は、一応この家の母親役を目指しているの。母親は父親だけの味方じゃないでしょ?」

「子供だけの味方でもないでしょうよ」

 ようやくに龍之介はおもてを上げた。平時の澄まし顔を険しく歪ませ、二年以上も燻り続けてきた怒りと苛立ちを、眼差しと言葉という形で静音に対し初めてあらわにした。

「俺が胸の内を吐き出して、何がどうなるというんです。父が憎いと言って、母の死が悲しいと言って、母を置き去りに幸せになっていくこの家が心底腹立たしいと言って、何が解決すると言うんです? もうこれは取り返しが付かないことなんですよ。心配はいりません。遠くないうちに、俺はこの家を出ます。静音さんを邪魔する人間はいなくなり、俺もいちいち腹を立てないで済む。解決というなら、それがそうです」

「いいえ、違う。もちろん君が将来のために決めたことなら誰も反対しない。けど、ただ家が嫌だから、家族が嫌だから離れたいというだけなら、私は待ってと言う。お願い、少しでいいから待って欲しい。もう少しだけでいいから時間をちょうだい」

「言われる筋合いなんかありません。どうして俺が貴方の言うことを聞かなくてはならないんです」

「おかしくないでしょ? だって私は母親だもの。君の、新しいお母さん」

「いらないんですよ、新しい母さんなんて!」

 堰を切ったように、押し殺された怒声が龍之介の口元から弾け飛んだ。その途端、怒鳴られた側と怒鳴った側双方の胸に、同一のほのかに懐かしい風景が去来した。今の龍之介の言葉は、かつて薫が初対面の静音に叫んだことそのままであった。

 薫と静音が和解する切掛を作ったのは龍之介だった。新しい母親を歓迎しないなら、龍之介は静音を助ける必要など無かった。クラスのレクリエーションのことなど静音に伝えず、薫に適当な店屋物を持たせれば良かった。それをしなかったのは、薫に拒絶され心を痛ませる静音も、静音を拒絶したいあまりに心を捩くれさせていく薫も、いずれも等しく不憫に思えたからだ。互いに非も責もないのに、傷付け合い損ない合ってしまう姿が見るに耐えず、やむなく龍之介は二人の間に助け舟を出した。

 今もまた同じなのだろうかと龍之介が思い至ると、まるで足元に忽然と穴が開いたような恐怖を覚えた。達観した風を装いながら、今の自分はあのときの薫と同じくらい誤ったことをしているのだろうか。そのことを静音は、教えようとしてくれているのだろうか。

「……」

「……」

 二の句を継げない龍之介に対し、静音もまた返す言葉を持たなかった。とうとう怒らせてしまった。それと同時に、出会ってから一年をかけ、ようやくに言葉を交わせたような気もした。

「……強く言ってしまってすみません」

「ううん。私こそごめん」

 重苦しい沈黙が二人にのしかかった。年長者の務めとして、場を収めたのは静音の方だった。

「今日はもうよそうか。時間も遅いし、龍之介君もしんどそうだし」

「そうしてくれると助かります」

 ようやくに酒も引いてきて、龍之介はよっこらせと身を起こした。ややふらつくが、自室に戻る程度ならば支障はない。

「部屋に戻ります。おやすみなさい、静音さん」

 静音は一拍の沈黙を挟んでから、「おやすみなさい、龍之介君」と答えた。

 龍之介としてはキッチンで別れたかったが、階段を昇るところまで静音は付いて来た。まさか静音の前で階段から転げ落ちるわけにはいかない龍之介は、一歩一歩慎重に段差を上がっていった。

 自室に帰るまで、龍之介は静音の事を考えていた。彼女は本当に良い人なのだ。そしてかつて龍之介に出来なかったことを、いま成し遂げつつある。

 家族の再生。

 皆に心からの笑顔を。

 恐らく何よりも母が求めて止まなかったあの食卓の風景を、自分こそが叶えてやりたいと尽力し、結局無駄骨に終わった母の夢を、静音がいともあっさりと叶えてしまった。詮無い仮定の話ではあるが、もし、あの七年前の夜、母に寄り添ったのが自分ではなく静音であったなら……。

 気が滅入るばかりの空想を打ち切って、龍之介は部屋に入り、すぐさまベッドにもぐりこんで泥のように眠った。夢に一人の女性が出てきたが、翌日にはもう顔を忘れていた。いい夢だったの悪い夢だったのかも分からなかった。




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