第一章 天野家の人々
初投稿になります。全3章〜4章予定。
少しでもお楽しみ頂けたら幸いです。
◇
夕暮れであった。
一日の終わりが始まろうとしていた。
遠い街並みの向こうで太陽はすでに人の目の高さに近いところまで降りてきていて、夕暮れ特有の人を否応なく物悲しくさせる色合いに世を染め上げていた。
西尾川の川沿いで、天野龍之介は自転車を止めた。夕焼けを受けて、西尾川の川面がまるで宝石を散らかしたように燦爛と輝いている。それを綺麗と思うだけの感受性は龍之介にもあったが、通学路として毎日ここを通る彼にとっては初めての景観でもないので普段ならば足を止めるほどではない。しかし今の龍之介の場合、足を止める理由になるものであればこの際なんでもよかった。
自転車を置いて少しばかり土手を降り、芝生の斜面の上に龍之介は座り込んだ。昨晩までの雨で、生い茂る草はわずかに水に濡れていた。途中の自販機で買った炭酸飲料水を一煽りし、どうせならば飲み干すまでここで川を見ていくことにした。
西尾川はその名の通り、街を西から東へ横断する二級河川である。教科書に登場するような有名な川ではないが、川幅は広いところで三十五メートルにも及び、市の外れにある下水処理場によって常に良好な水質を保たれている。いま龍之介がいるところからでも、結構な数の魚が泳いでいるのが見て取れる。休日には河口近くの河岸で必ず誰かしらが釣竿を構えているし、上流では毎年盆休みになると大勢のキャンプ客で賑わいを見せている。名所と大々的に喧伝できるほどでもないが、この街で暮らす者なら誰もが一定の愛着を抱く、そんな川であるのだ。
釣りもキャンプも嗜まない龍之介にとっても、毎日の通学路であるのだから馴染み深くならざるをえない。川に沿って延々と続く土手道を一人自転車で走っていると、風を切っていく感触のなかにふんわりと優しい川の匂いが混ざり、そのまま世界のどこへでも行けてしまいそうな気がしてくる。こういった感覚を龍之介は口には出さずともそれなりに気に入っており、結果として高校入学後半年間、雨の日以外は欠かさず自転車通学を続けてきた。その甲斐あってか運動部に所属していないにしては彼の五体はよく引き締まっており、青いブレザー型の制服が良く似合っていた。
飲み物が空になった。残された空き缶を川に投げ捨ててやろうかとも思ったが思い直し、若い足取りで土手の傾斜を難なく登っていく。道の脇に置いておいた愛車に跨り、カバンを前かごに入れ、その隙間に空き缶を挟み込んだ。
さぁ、潔く帰ろう。
少年は力強くペダルを踏み出した。加速するにつれペダルはぐんぐんと軽くなり、車体全体がスピードに乗った。ジョギング中の青年を追い越し、道端の水溜りが飛沫をあげ、無風のなか龍之介一人が風を切って進む。夕方五時三十分。太陽が役目を終えようとし、出番をうかがう月がもううっすらと雲の陰に潜んでいる。天野家の夕食は早い。今ごろは妹が空腹を喚いて、母親を急かしているかもしれない。潜む迷いを吹っ切るためにも、誰も見て無い所でこれ見よがしに強くペダルを踏む。蹴る。回す。なにも躊躇うことはないと両の足に言い聞かせる。ただ家に帰るだけだ。帰るだけなのだ。
◇
住宅街の中央付近に龍之介の自宅はある。車の交通量が少ないので、よく子供らが道路を塞ぎサッカー遊びなどに興じており、今日もその例に漏れなかった。日はまだ落ちきっておらず、暗くならないうちなら、彼らの遊びは続く。邪魔には思ったが、自分も幼い頃には似たようなことをしていたので、声を挙げる気にはならない。間違っても彼らを轢き飛ばしてしまわないよう、龍之介は慎重にハンドルを切った。
家の前で龍之介は自転車を止めた。隣の家のブロック塀の上を、野良猫がチョコチョコと歩いているのを横目に、門扉を開ける。車庫の隅に自転車を置いてチェーンをかける。そして数秒間、龍之介は玄関の扉を前に躊躇した。ポケットの中の合鍵に手を伸ばしかけ、止める。まずチャイムを押すことにした。自分にとっても、またおそらくは中の者にとっても心の準備が必要と考えた。
チャイムを押してから、ちょうど一呼吸の間を空けて、龍之介はポケットから鍵束を取り出し、玄関の戸を開けた。すぐに廊下の向こうから足音が駆け寄ってきた。
現われたのは女性だった。結構な美人、と龍之介は見るたびに思う。背中まで伸びた黒髪も、細長い手足も、同年代の女友達とは一味違う大人びた気配を龍之介に感じさせる。年齢は二十代後半としか龍之介は記憶していなかったが、それくらいの女性がこうしてエプロン姿で玄関先に立っていれば、なるほどいかにも新妻か若い母親といった風体であり、事実彼女はその通りであるのだ。もっとも龍之介の隣に立たせれば、彼らを親子と見なす者はいないだろう。彼女は紛れもなく龍之介の母親であったが、しかしそう名乗るには明らかに若すぎた。
「ただいま。静音さん」
「おかえりなさい。龍之介くん」
静音と呼ばれた女が湛えた笑みは柔和なものだったが、ぎこちなさもまた僅かに滲みでていた。何時もの事であるので龍之介も気にしないし、またきっとお互い様でもあるのだ。
たった一言でもう次の言葉に困ったか、龍之介がのそのその靴を脱ぐ間、静音は組み合わせた両手をしきりに動かして間誤付いていた。龍之介が玄関を昇った際に、ようやく事前に準備していた話題を思い出し、浮ついた様子で身を乗り出した。
「どう? お腹減ってるなら、おやつとか少し用意してあるんだけど」
「おやつ、ですか」
「そう。今日さつまいも買ってきたのよ」
好きでしょ? と精一杯愛想よく聞いてくる。龍之介は確かに蒸したさつまいが好物であったし、静音もそれを予め知った上で尋ねていた。龍之介は返す言葉に悩みながら、こうした悩みを抱えること自体、随分久しぶりなことに気づいた。ここ最近龍之介が家にいる時間はいたく減っており、最後にこの家で夕食を取ったのが何時の事か思い出せなかった。
「遠慮しておきます。夕食、食べられなくなりそうですから。多分もうすぐですよね」
「ええ、小一時間くらいかな」
「じゃぁ、待ってますよ」
「そう、わかった。じゃぁ、できたら呼ぶね」
「ええ、どうも」
絵に描いたようなうわべだけのやりとりを経て、龍之介は静音の脇を通り過ぎ、えっちらおっちらと自室へと続く階段を登っていった。体育後の階段だってこれほど億劫ではない。静音とたった一つ二つ言葉を交わしただけで、龍之介のところだけ重力が十パーセントほど重きを増したよかのようだった。そしてそれは、階段の先で待ち受ける小さな妹の姿を見つけたことでさらに一割増しほどになった。
まだ小学三年生の薫は、本来龍之介の太ももくらいまでの身長しかないが、今は頭上から若干の怯えを滲ませて龍之介を見下ろしていた。顔立ちは龍之介と良く似ているが、直毛の龍之介と違い薫の髪ははんなりと柔らかなウェーブを描いている。実母の遺伝だった。
「おかえり」
「ああ」
「今日、本屋のバイトないんだ」
「あれは火・木だからもともと無いよ」
「じゃぁ、ガソリンスタンドの方?」
「そう。でも今日は休みを貰った」
龍之介は、足早に薫の横を通り過ぎた。視線が背中を追ってくるのを感じたが、振り返るのは躊躇われた。龍之介は自室に入り、そのままいの一番にベッドに倒れ込んだ。思い出したように、肩に掛けていた鞄を投げ出し、次いで胸に生じる形の無いもやを溜息と共に吐き出す。効果は怪しかった。
自室の床には漫画やら何やらが乱雑に散らばっており、その配置は今朝家を出た時と何も変わっていないように見える。これまでも、龍之介のいない間に静音がこの部屋に入ったことは恐らくない。別段入ったところで怒るつもりはないが、その気遣いについては龍之介はありがたく思っていた。この部屋だけが、この家で唯一彼女の匂いを感じずに済む最後の聖域なのだ。どれだけ保つかは怪しいが、可能な限り存続させたいものだった。
制服から着替えようと起き上がった時、部屋の扉がノックされた。相手を予想しつつ龍之介はドアを開けた。やはり薫だった。
「どうした」
「ね、遊ぼうよ」
薫はさも気軽そうに言い、そのあまりにも下手くそな作り笑いが、却って彼女の希望を叶えさせた。
「いいよ、久しぶりだもんな。けどまずは着替えさせてくれ」
「兄ちゃんの部屋でいい?」
「ああ」
「やった」
薫は笑顔というよりは、ほっとしたような表情を見せて一度戸を閉めた。薫が龍之介の部屋に好んで居着こうとするのは昔からのことだ。龍之介も以前までは、自分の部屋に妹の姿があることを日常の一部として当然のように捉えていた。
着替えを再開しようと姿見に目をやって、特に面白みもない自分の姿を、龍之介はなんとは無しに眺めた。彼の高校はブレザーの制服を採用しているが、画一的な制服でも着こなしにはそれなりの個性が出るものだ。しかし龍之介はジャケットの前ボタンはきちんと閉めていたし、ズボンを腰で履いたり、ローファーの踵を潰したりもしなかった。強いて指摘するならネクタイがやや緩い程度だ。
髪は黒く短く、ピアスもしていない。容姿も美麗でこそないが端正ではそれなりにあり、総じて龍之介は「大人の思い描く好青年」に非常に近いなりをしていた。これは彼の主体的な選択によるものではない。拘りがあってそうしているのではなく、拘りがないからそうなった。
手早く制服を脱いで、龍之介は安物の普段着に着替えた。その際、ワイシャツの袖口のボタンが外れかけているのに気付いたので、龍之介は少し考えてから机の中から裁縫セットを取り出した。針の穴と睨めっこしながら龍之介は、自分よりもずっと裁縫が上手であろう、この家一番の働き者のことを思った。龍之介の実母が交通事故で他界したのが一昨年、龍之介が十四歳のとき。その後、親戚連中の一部が疑いの目を向けてくる程度に直ぐのこと、静音が龍之介らの家にやって来た。聞くところによると、もともと父と同じ職場に勤めていて、実母が存命の頃から面識自体はあったらしい。しかしながら決して不倫を行なっていたわけではない、とはさて父の言葉だったかそれとも静音であったか。龍之介も鵜呑みにはしていないが、特段問い質したいとも思っていなかった。
継母根性などという言葉が辞書に載っているあたり、父の後妻と子供達の確執は世間では有り触れた出来事らしいが、静音の人柄は龍之介の危惧に反して実に善良なものだった。それでも、幼い今よりもう幾分幼かった妹の薫は、当初新たな母の出現に猛反発したものだ。当時わずか七つか八つの少女が、泣きじゃくりながら「新しいお母さんなんていらない!」と声を枯らして叫ぶ様は、一応立場を同じくする龍之介とて胸に痛みを覚え、当事者の静音にしてみればそれこそ胸を射抜かれるような思いだっただろう。ちょうどこのように、と龍之介は糸を通し終えた針を、布地に突き刺した。
またノックが聞こえてきた。
「もういい? 兄ちゃん」
「ああ」
ゲーム機の本体を抱えて、薫がドアを開けて入ってきた。そういえば、こうして薫がノックをするようになったのはいつからだったか、龍之介はもう思い出せなかった。
「なにしてるの?」
「寄るなよ。針を持ってる」
尖っているものはなんでも嫌いな薫はそそくさと離れた。
「静音さんに頼めばいいのに」
「これくらい、小学生でも出来るさ」
薫は後ろ暗いことでもあるのか何も言い返さず、ゲーム機を手早く兄の部屋のテレビに繋いだ。コントローラーの一つを兄に差し出す頃には、ちょうど龍之介も裁縫を終わらせていた。
「久しぶりだな」
コントローラーの重さと感触を確かめて、龍之介は思わず呟いた。
「でしょ? 兄ちゃん、最近ちっとも家にいないから。静音さんも心配してたよ」
二年前まで、薫の顔はいつだって心を写す鏡だった。楽しくなければ薫は笑わないし、楽しければ隠さず笑う。そして今、薫はやはり作り笑いにしか見えない表情をしていた。嫌らしいことに、薫がそうしているとますます龍之介に実母の顔を思い出させる。
ゲームが始まった。縦スクロールのシューティングゲームが薫の昔からのお気に入りだったが、一人でやっている所はあまり見ない。忙しない電子音を聞きながら数十分がすぎ、薫が操る戦闘機が、敵の攻撃を受けて何度目かの墜落を果たした。
「あーん」
薫は「今のなし」と言わんばかりに両手を左右に振った。墜落のし過ぎで、もう薫はゲームに参加する事が出来ない。
「最初からやるか?」
「いいの?」
「なんだ。一人でやらせる気か?」
薫の嬉しさを隠し切れない表情を、しかし龍之介は直視する気になれなかった。
「ねぇねぇ、ご飯の後で一緒にテレビ見ようよ。映画のビデオを借りたの」
薫の言う映画とは十中八九アニメーション物を指す。
「またドラえもんか?」
「ポケモンだよ」
「勘弁してくれ。俺はいいよ」
薫はあからさまに不満そうな顔をした。屈託のない子供が鬱陶しがられるとすれば、こういう時だと龍之介は思った。
「まえは見てくれたのに」
「前だってしんどかったよ。お前も高校生になれば分かるさ」
「静音さんは見てくれたよ」
当てこするように言ってしまって、薫ははっと息をのんだ。
「そっか。良かったな」
「兄ちゃん……」
「ん?」
「まだ気にしてるの? 静音さんのこと」
「薫」
「え?」
「疲れた。すこし横になるから出て行きな」
薫はしばし言葉を探していたが、やがてしょぼくれた様子でゲーム機の電源を落とし、部屋を出て行った。妹の機嫌を取ろうと部屋に招きいれたのに、結局機嫌を損ねる結果となった。罪悪感は当然あったが、むしろ最初からこうしておくべきだったのだと龍之介には思えた。
薫を追い出したあと、龍之介は帰ってきたばかりのときのようにベッドの上に倒れこんだ。疲れた、と薫に言った事は決して嘘ではない。薫は本当に、母に似てきていた。
◇
瞑目しながらしばしの時間を過ごすうちに、階段を昇る足音が龍之介の耳に届いてきた。薫とは違う静かな足音は、恐らく静音のものだ。続いてノック音。
「はい」
「あ、わたし。ご飯できたから、下りてきて」
いらないと言ってしまいたかったが、今日ばかりは龍之介も断るわけにはいかない。静音の頼みで今日は帰ってきたのである。
「行きます。ちょっと待っててください」
「じゃぁ、先に行ってるね」
足音が去っていく。寝癖を整え、龍之介が部屋を出ると、ちょうど向かいの部屋から出てきた薫とかち合った。
「ほれほれ」
俯き加減になった彼女の頭に手を乗せて、ふざけるように上下にくわんくわんと揺らしてやった。「やーん」と薫も笑う。
「なんか、久しぶりだね。兄ちゃんがお家でご飯食べるの」
「朝、毎日食べてるだろ」
一応、という言葉を龍之介は飲み込んでいた。とりわけ父とは朝食のタイミングが重ならないようにしているし、あれこれと理由をつけては朝食を摂らずに家を出てしまうことも少なくはなかった。
兄妹が階段を下りると、いつの間に帰ってきたのか、父親である天野翔一がリビングで麦酒を飲んでいた。翔一は規模は小さいものの老舗の映画製作会社で助監督を勤めており、これまで幾つもの邦画製作に携わってきた人物だった。世間の話題作に関わっていることも少なくなく、龍之介自身、友人と評判の映画を見に行ったらエンドロールに父の名前を見つけてせっかくの感動が削がれてしまったことが何度かある。業界の中で父の地位がどれほどのものなのかは龍之介の知るところではないが、とりあえず裕福とまでは言えないものの、子供二人抱えながら不自由ない生活できるくらいの給料は貰っているようだ。ストイックだが、優しい人……とは静音がいつぞやかに漏らした評価であり、それを聞いたときの龍之介は、万能な女性に一つの欠点を見つけて奇妙な安堵感を覚えた。
龍之介とて父親をまったくの悪人と見なしているわけではない。確かに仕事には熱心すぎるほど打ち込んでいるようだし、家族に暴力を振るったりもしない。煙草は吸わず、酒は嗜む程度。薬物依存症でも無ければ女癖も……さて、これはどうだろうかと龍之介は判断を保留にしている。また過去に一度、翔一の部下が家に来たことがあるが、相応以上の敬意を父に払っていたように思えた。
そのことを踏まえた上で、龍之介は父を快く思っていなかった。ろくに家に帰らず、ひたすら実母を家の飾りにし続けていた男だ。そして母が死んでからさほど時を置かずして静音という見知らぬ女を家に連れ込み、挙句その途端に早く家に帰るようになった男だ。その面の皮の厚さ、恥を知らない態度は龍之介にとって軽蔑すべきものだった。
ふいに、父親から声が掛かった。
「帰ってたのか。今日は早いんだな」
普通であれば息子が父に言いそうなことが、この家では逆になっている。そのことを面白く思いつつ、龍之介は薫がキッチンに入っていくまで返答に間を置いた。
「今日はバイトが休みでな」
「そうか」
「そっちこそ早いじゃないか、最近いつも」
皮肉というには直接的すぎるものだった。
「そうだったか?」
「そうさ。仕事が減ったのかい?」
「ああ、そうかもしれないな」
「そりゃ大変だ」
龍之介は努めて平静を装った。再出発を果たし、ようやく軌道に乗ってきた天野家を無闇に乱すことは、龍之介の望むところではない。唯一選択できた報復手段は、無関心に無関心で返す事だけだった。
「みんなご飯よ」
タイミングよく静音が台所から現われた。翔一と龍之介を同時に視界に収めて、静音は一瞬気後れしたような表情を見せたが、すぐさま穏やかな笑顔が取って代わった。
「ほら、二人も台所に」
その声が、やや焦ったものに聞こえたのは龍之介の邪推だろうか。静音に応え、翔一は夕刊を机に置いて、ゆっくりとソファから立ち上がった。彼の四肢は、高校生の龍之介よりもさらに細長く、力強くはないが不摂生さとはまるで無縁であった。扱うものは映画といたって世俗的なものだが、時折龍之介は、本来翔一は山奥に篭もる陶芸家のような暮らしをしたいのではないかと考えるときがある。それくらい翔一という男は根っからの創作者であり、浮世離れしているというか、心をここではない何処かに置きっぱなしにしているように感じるのだ。
現に今、翔一と静音が並んで立っているところを眺めても、夫婦というよりは主と家政婦といった印象の方が強い。思えばそれは、実母と並んだときも同じであったかもしれない。
早く食べようよーと、薫の呑気な声が台所からあがり、静音と翔一は苦笑し合いながら歩いていった。一人残った龍之介は、そんな二人の後姿から顔を背け、機械の排熱口のように深く大きく息を吐いた。それだけで自分は何もかもを自己から追い出せると、龍之介は信じたかった。
◇
夕食の献立はコロッケだった。各自の皿に二つずつ乗せられており、一つはジャガイモのコロッケ、もう一つはクリームコロッケ。龍之介と薫の皿だけにもう一つ乗せられており、どうやらそれはメンチカツのようだった。他にはサラダに汁物など、オーソドックスな組み合わせ。
具体的な味や食感は龍之介には品評できないが、静音謹製の品々は何時ものことながら旨かった。料理にしろ、裁縫にしろ、静音は世事抜きになんでも上手だった。恐らくは実母よりも。
「今日ね、クラスが凄かったの。お昼休みに美奈子ちゃんが達也くんに好きって大声で言ったんだよ」
「本当に? それでそれで? どうなったの」
薫は本来の快活さをようやく思い出したように食事の間中たて続けに喋り続け、薫の息継ぎを助けるように静音が所々で合いの手を入れた。当初はやや一方的ながら最も険悪であった二人が、今やこの家で最も息の合う組み合わせになっていた。
「達也くんも好きって答えたの」
「わぁ、素敵じゃない」
「最近の子はやはり早いんだな」
表情の動きこそやや乏しいものの、翔一も感銘を受けているようだ。
「でもクラスの男子たちがみんなしてずっと二人をからかって、可哀想だったな。ああいうのあたしは良くないって思うの」
「そうね。見守ってあげるのが一番よね。ねぇ、龍之介くんのところはそういうのある?」
「ええ、ありますよ。クラス内カップルが、確か二組くらい」
「へー、いいないいな」
「兄ちゃんは? 好きって言われたことある?」
「いいや。達也くんが羨ましいよ」
「きっとそのうち来るわよー。龍之介くん、凛々しいもの。そう、そういえばこの間ね……」
一体どれだけ話題のストックがあるのか、女性陣らは次々と話に花を咲かせ、その度に花開くような笑顔を見せた。そんな二人の胞子に当てられてか、寡黙な翔一も幾分口が軽くなっている。龍之介ですら影響はゼロではない。
龍之介もまた、感銘を受けずにはいられなかった。ああ、普通の会話だ。家族の会話だ。取り留めも他愛もない、ごく普通の食卓の会話。
母が死んだ頃には考えられなかった光景、生きていた頃ですら遠かった光景がいま、眼前で、まったくなんでもないことのように繰り広げられている。いったいいつの間に、静音はここまで天野家を立ち直らせたのか。龍之介と今はいないもう一人を除いて、着実に天野家は「仲良し家族」の像を完成させつつあった。かつて実母が心から追い求めていた景色が九割がた出来上がっていて、龍之介という最後のパズルのピースがはめ込まれるのを今か今かと口を開けて待っている。
(こんなのない。こんなのないだろ)
翔一の意向により、この家に実母の仏壇は置かれていない。写真の類も仕舞われている。龍之介も賛成したことだからとやかく言うつもりはないし、むしろまさに今、その判断は間違っていなかったと強く断言できた。
こんなところを母に見られたら。
こんな俺たちを、あの人が見てしまったら。
血の気が失せたかのように、顔中が冷たくなっていくのを龍之介は感じた。料理以外の何かのせいで、口の中が苦味と酸味で一杯になり、ネクタイもしていないのに息苦しさを覚えた。努めて平静を装いながら、龍之介はコップに手を伸ばした。
「どうかした? 龍之介くん」
静音に尋ねられても、龍之介には答えようがない。しかし内心でならいくらでも龍之介は言い募ることができた。
いいえ、どうもしません。貴女は善い人です。本当にすごい人です。だってみんながこんなにも笑顔になっている申し訳ありませんが、明日からまた俺の帰りは遅くなります。俺にはとても耐えられない。よく平気な顔ができますね。今が貴女が座っている席は、二年前まで母の席だったのに……。
◇
食後、テレビのロードショーを皆で見ようと静音から誘われたが龍之介は考える前に断った。
「早いけどもう寝ます」
「疲れてるの? 今日、体育でもあった?」
「いえ、ありません。けど、とにかく寝ます。今日は」
龍之介は立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
静音に軽い会釈。これ以上尋ねないでくださいと言葉なしに乞うものだった。それを知ってか知らずか、静音微笑むだけで済ませた。
この綿のように柔らかい人柄を父は気にいったのだろうか。龍之介とて、女性的な魅力という面で静音と……例えば母などを比較すると、そうそう身内びいきばかりはできない。もし他人として出会っていればなどと、ふと夢想してしまうほどに静音は確かに綺麗で優しかった。
一人食卓を後にして廊下を歩いていると、次第に龍之介は落ち着きを取り戻した。こうして一人で居るときだけ、彼はこの家に居心地の良さを覚える。
しかし心残りが無いでもなかった。昨晩、静音に言われたのだ。「たまには家でゆっくりしよ?」と。きっとそれは半ば懇願ですらあっただろう。新参者の立場からじっくりと時間をかけて自分という存在をこの家に馴染ませてきた静音である。努力を怠らない彼女のこと、バイトを言い訳に全く家に寄り付こうとせず、あいも変わらず態度もそっけない龍之介を気にしないわけがない。日頃さんざん義母不孝を繰り返しているなか、せめて一日くらいは彼女の気持ちを汲むかと腹をくくり、龍之介は今日帰ってきたはずだった。しかしその覚悟も、結局のところ食事一回分しか続かなかなかったとあれば、少年としても少しは恥じ入るところもある。
もう少し我慢も効いただろうか。いやしかし揃っての映画鑑賞など想像するだに恐ろしい。一軒家のリビングに家族が集う。父とおしゃまな娘は大き目のソファーにゆったりと座り、年頃の息子は一人離れてアームチェアに座る。台所から母親がお茶を運んできて、四人揃ってそれを飲みながら、同じ映画を見る。何かの雑誌の一面を飾れそうなほど出来すぎた団欒の光景。
龍之介は、自分たちにそんな資格があるのかと叫びたくなった。静音以外の全員が、あるいは静音も含めて、それぞれがそれぞれの形で一人の人間を死に追いやった罪人であるのに。
自室に入り、龍之介はまたもや真っ先にベッドに横たわった。不貞腐れるように枕に顔を埋めていると、うとうとと意識が薄れていくが、不意のノック音に眠気は掻き消された。
「はい?」
「わたし」
静音だったので、龍之介は起き上がらないわけにはいかなかった。
「どうぞ」
躊躇いがちに入ってきた静音は、ティーカップの乗った盆を両手に持っていた。ベッドに下半身を預ける龍之介を見て、「寝てた?」と申し訳無さそうに訊く。
「いえ。まだ着替えてませんから」
「そう。あ、これ龍之介くんにも」
「すみません」
龍之介は盆を受け取り、机の上に置いた。暖かい紅茶の香りがした。
「それで、その……」
他に用があるのか、静音は言いよどんだ。そのまま沈黙されるのも困るので、龍之介は促してみた。
「どうしました」
「ええと、龍之介くんは……」
静音は意を決したように、
「龍之介くんは、私と一緒には、居たくないかな」
今度は龍之介が言いよどむ番であった。そう受け取られても仕方ないことを龍之介はしており、かつそれは事実だった。
「静音さんは、嫌いじゃありませんよ」
全くの嘘ではない。口にはしないものの龍之介は、一面でこの義理の母親に対し強い敬意を抱いていた。龍之介の一抹の本心に対し、静音は何も答えない。「だが、しかし」と続く言葉を待っていることは明白であり、当然ながら龍之介もその先の言葉を持ち合わせていたが、それを面と向かって当人に言うのは憚られた。龍之介と静音の間柄という点にのみ絞れば、あるいは打ち明けた方が事態は好転するかもしれない。しかしことは二人だけの問題ではなく、ましてや故人の名誉に関わることとあっては、みだりに心の底をひっくり返すわけにもいかない。そのようにして龍之介はこの二年間、あるいはそれよりもずっと長く口をつぐみ続けてきた。
「すみません。帰りが遅いことですよね。バイトもありますが、正直夜遊びもしています。危ないことはしていないつもりですが」
「そうなんだけど、そうじゃなくて、私はね」
静音は一拍息をおいた。
「不安なの。龍之介くんに、私は新しい家族として認められていないんじゃないかって。私のせいで辛い思いをしているんじゃないかって」
している。しているとも。しかし先と同じく逆の気持ちも龍之介にはまたあった。愛した男に二人も子供が居たものだから、彼女は本来背負わなくていい苦労を背負う羽目になり、そしてその一人が聞き分けの無い性分なものだから、こうして夜中に二階まで足を運ばなくてはならない。せめて静音が童話で見るような捻くれた継母であったなら、あるいは龍之介の心も今ほど捩れはしなかったかもしれない。
「余所余所しい、ですよね。俺」
「それは、それはいいの。無理に親子らしくすることなんてない。ただ、それじゃ収まらないで、嫌な思いにまで行っているんじゃないかって」
「静音さんに対して、そんなこと思ってないですよ」
「……そう。ごめんね、変な事訊いて」
「いえ」
双方、上っ面だけで会話をしていたが、龍之介は滑稽には思わなかった。他人同士であるのなら、それが当り前のことであるはずだ。
せっかくの紅茶であったから、静音が出ていったあとに龍之介はゆっくりと自分のペースで味わった。味の良し悪しは分からないものの、程よい熱さと香りが龍之介の胃腸をよく温めてくれた。
静音は優しい女性だ。龍之介は本当にそう思うのだ。しかし時折龍之介にとって我慢ならない言葉を言う。初めて会ったときも、そして先ほども言っていた。
「新しい家族として」
家族として見たらどうなるのだと、龍之介は突っ返したかった。愛し合うことを義務付けるのか。共に生きることを強いるのか。家族とて所詮は他人同士に過ぎないことを龍之介は他でもない両親から学んだのだ。
実母が生きていて、龍之介がまだ幼かったころ、翔一は平日も休日も碌に家にいなかった。たまに帰って来ても、ほんの一言二言を母に告げてすぐさま仕事に取って返すばかり。家族旅行どころか、皆で食事に出かけたことすら無い。そしてそんな異様な家庭の有様を、当時四歳だか五歳だかの龍之介はそういうものだとして疑問にすら思わなかった。
そして龍之介が母に付きまとう暗い影に気付いたのは、九歳の頃である。今思えばそんな火を見るよりも明らかなことに気づくのに九年もの歳月を必要としたことを、龍之介は今でも悔やんでいるが、しかし十に満たない頃の子供にとっては、やはり夫婦は常に愛し合うのが当然であった。絵本でも、漫画でも、アニメでもそのように謳われていた。しかしとうとう両親の仲を疑い始め、龍之介は一度母の孤独な酒盛りを待ち伏せることに決めた。週に一度か二度、深夜に一人リビングで酒びたりになるのがその頃の母の習慣だったのだ。
七年前の夜。
リビングにて酒を飲む母の仕草は静かなものだったが、ソファーの横に転がっている酒瓶や空き缶の量から見て、浴びるようにと表現していい。廊下から密かに母を観察していた龍之介が姿を見せたとき、母は実に驚いた様子だった。
「父さんと、仲悪くなったの?」
母の隣に座り、そう尋ねたとき、声が掠れていることを龍之介は自覚していた。母の答えは酔いもあってか肯定とも否定ともつかない、要領を得ないものだったが、龍之介の頑なな様子にやがては根負けして、ぽそりと夫婦間の真相を告げた。
「喧嘩したなら仲直りすればいい」
まだ九つだった龍之介は単純にそう考え、そのまま母に言った。実のあるアドバイスのつもりだったが、母は疲れたように笑うだけだった。
家族に血縁や配偶関係は付き物であるが愛情はその限りではないと子が納得するには、相応の悲しみを伴わなくてはならなかったが、しかしその悲しみこそがその子を幼児から少年に変えたのだ。
その後の七年間は色々あった。思い起こせば様々な情景が泡となって龍之介の胸中を舞い踊った。押し黙る父の背中、薫の泣き声、俯く母。本当に色々あった中で、結果として母は失意のまま交通事故で死んだ。何も得られない人生であったはずだ。
それを差し置いて、新しい家族など龍之介は認められない。認めて良いはずがない。父と妹が認めてしまうというのなら業腹だがまだ看過できる。しかし自分までもが加わるわけには断じていかない。
(抜け出してやる。こんなところ、必ず)
静音の紅茶で腹が暖まるのを弾みに、龍之介は決意を新たにした。こんにち高校生の若造が親元を離れるなど全く珍しいことでもない。進学に就職、切っ掛けはいくらでもある。先立つものさえあれば家出でもいい。
龍之介は部屋の戸棚を開き、ジャンパーやコート類をかき分けて、さらに奥からひと抱えくらいの桐箱を引っ張りだした。幾つもの引き出しが付いていて大小の小物を整理できるようになっているそれは、遺品整理の際に失敬した実母の化粧箱だった。その一番下の引き出しには、これもまた静音が来る際の片付けの時に持ち出した母の位牌が仕舞われている。どうせ父も薫も気付きもしてないだろう。信心豊かでない龍之介とて毎日律儀に拝んでいるわけではないが、しかしこうしてかろうじてこの家にも実母の居場所を残すことで、母の眠りに多少なりとも安らぎを加えられているのではという気がしていた。
(これだけは持っていく。絶対に、何が無くても、これだけは)
古い桐の香りを鼻に覚えながら、龍之介は心内で独りごちた。いや、独り言、と本当に言えるのだろうか。
(大丈夫、一人にはさせやしない)
龍之介はふと自分の首筋をさすった。時折に見せる彼の癖である。さしてきつくもない首元が無性に息苦しく、生地を無理やり伸ばすようにぐいと襟口を広げた。
桐箱を再び戸棚の奥深くへと仕舞い、部屋の反対側にあるカーテンをさっと閉め、龍之介は着替えを始めた。もう寝よう。寝てしまおう。
母が亡くなって、まだ二年。もう二年。
一人の人間を忘れるにあたり、それが長いのか短いのかも龍之介には分からない。だが天野家の住人は、たった一人を除いて、着実に彼女の存在を忘れつつあることだけは確かだった。