you are not alone
素人の映画のレビューを見ると、やたらと映画批評家のように「この映画はこの監督で、この監督はこういう映画も撮ってて…」みたいな映画と直接関係ない情報をたくさん付与して、「さてこの映画のどこがおもしろいというと」という感想に入るレビューを見るときは大体辟易するわけで、まず最初に「この映画、俺は好きだぜ…!」みたいなスタンスから入ってくれるほうがいいなあ、というのは個人の好みかもしれない。それは学術論文でも同じで、「てめーは結局何がいいてえんだ?それは前に調べたやつのただのまとめだろう?」となることも多々感じることがリンクしている。優れた記述は主張を軸に余計なものを省く、ような気がする。言わないことが主張になるっていうか、やりたいことのためにはやらないことを増やすことが実は逆説的に大事、みたいな話に近いと思う。頭の痛い話だが、時間と同様に読み手のリソースは有限だ。
とりあえずインヒアレントヴァイスは本当にハマってて、もう3日も続けてみていて、今日は購入したブルーレイも到着するだろう。同じ作品が日中もぐるぐると頭を支配して離れない久しぶりで、本当に面白いと思う。この「面白い」という感想は非常に雑で好きな言葉で、映画に限らず色々な「面白い」があるわけで、他人の研究に対する感想でもよく使う。でも人によっては「面白いって雑すぎんだろ、てめーは結局何がいいてえんだ?具体的に!」となるわけで少し考えてみたんだが、個人的にはちょうど龍馬伝で福山が色んな「たけちさん」を披露したのと似てる。地元の幼馴染への親しみを示す「たけちさぁん」、尊敬の呼びかけ「たけちさん!」、それはよくないぞ土佐勤皇党やりすぎだぞという怒りの「たけちさん!!!」、無事を思案する「たけちさぁん…」、今生の別れ涙の「た・け・ち・さぁーん!」。これはカツセンセイ!でも言い換え可能だ。一言で面白いといっても、やっぱりそこにはいろんな感情が去来するけれど、面白いっていうのは親しみを感じた作品に対する友人としてのファジーな呼びかけに近い。面白くなかったというのは、自分との間の距離というか。
かつては打ち切り漫画を愛したこともあって、人と比べ何を見せられても大抵は面白いと感じるので、あまり良い批評家ではないということは後輩たちから何度も指摘されていて「どんな研究もポジティブに解釈してしまう」という理由であまり学振などの書類を見せてこない後輩もいたし、とりあえず書いてみて研究がどこが一番推しポイントなのかを自分に見せること確認しようという後輩もいた。この行為には文脈が違うとものは変わらずとも肯定されうるということが含まれていて、ちょうどそれは引きこもりが否定的な行為だったがコロナの時代では強く肯定されることになったのと似ている。持ってるものはそのままに、世界的に文脈が変わって肯定されていくというのはあまりに劇的なので耐えられない人が出てくるだろうし、X-MENのようにこれまでのやり方を維持したい人たちには新しい時代は否定の対象になるだろう。それも人それぞれで、それでいいと思う。
ただし、書類は書類としての文脈もあるわけで、見せる人たちはかなりの確率で学振をとれていて、これは添削した自分が優れているわけではなくて、やはりそのような応募書類が通過していくには文脈を無視した「主観的な面白さ」より、文脈を共有するうえで見える「客観的な面白さ」を重視して作成しないといけないということだ。やはりそれも共感性の問題だ、親しみがない書類(自己の肥大化、アスペ的)は本人の何かしらが相当に魅力的か、それとも心の広い査読者に出会わない限り、独り身であることを覚悟する必要があるだろう。
何度もインヒアレントヴァイスを見てしまうのは、自分の良き友人であること、面白いと感じる文脈が何かを確かめたいのかもしれない。