ドアマットヒロイン……?
アンナと共にセバスチャンは用意された控室へと向かった。お茶で汚れたドレスのままでは過ごせないだろうと、この茶会の主催者である王妃が特別に控室を用意したのだ。
予想外の出来事に対応した王妃は穏やかな口ぶりであったが、隣国の躾のなっていない王女の行動に怒っていた。王妃の冷えた視線に、怖いもの知らずのセバスチャンですら体が震えた程だ。
「今日はこのままお暇でしょうか」
アンナは予備に用意してあったドレスを広げ、ぽつりと呟く。セバスチャンはやることがないので、彼女の仕事を見ながら頷いた。
「そうだろうな。王妃殿下がこのような部屋を貸してくださっているのだ。これ以上はおかしなことにはならないだろう」
「それならいいのですけど。初対面のお嬢さまにあんな態度をとるなんて……。なんだか嫌な予感がして仕方がありません」
アンナの不安も分からなくもない。いくら貴族社会がどろどろした腹の探り合いだとしても、あれほど直情的な行動を起こすことはない。もっと気がつかれないように陰で行うとか、会場全員がグルで陥れるとかならまだわかる。
本当にあのドアマットヒロインなのだろうか。
セバスチャンは内心首を傾げた。
ロマンス小説は悪役にはどこまでも厳しい世界だが、ドアマットヒロインにとってもひどい世界なのがセオリーだ。なんせ、世界中の女性たちの同情と涙を手に入れないと頂点に立てないキツイ職業でもある。
ドアマットヒロインとは常に踏みにじられる不遇な姿を見せ、ヒロインを幸せにしてあげて! と世の中の女性たちの涙の大合唱を引き起こさなくてはならない。
だからドアマットヒロインは気が強いけれども、健気で、誰にでも優しくて、正義感に溢れていて、自爆トラブルを引き起こす。
おおよそ普通の人間ならそこで心折れて死ぬだろうという状態でも、超前向き思考と根性で必ずその苦境を乗り越えるのだ。たとえ、自身の行動が苦境を作り出しているとしても。
ロマンス小説のヴィクトワールはとことん屑女だったため、ドアマットヒロインの引き起こす自業自得なトラブルはほっこり話として微笑ましく思えるほどだ。
今生きている現実のヴィクトワールは賢くて優しくて、淑女中の淑女になった。決して小説のような屑女ではない。誰が見ても素晴らしい女性だと称賛するだろう。
いくら考えても、ヴィクトワール救済計画に穴などない。ヴィクトワールの性格が愛され淑女になった時点で彼女の破滅は起こりえない。
「考えられるとしたら物語の強制力というやつか」
セバスチャンは眉を寄せたまま、ぽつりと呟いた。恐れていなかったわけではない。ここは物語の世界だ。世界には与えられたストーリーの通りに進めようとする力があっても不思議はない。強制力というものが納得できないのなら、それこそ『運命』と言ってもいい。
何をしても逃れることができない運命。
セバスチャンが運命を捻じ曲げ、ヴィクトワールは義妹を持つことはなかった。前提が崩れていたから安心していたが、物語の時間が断罪というエンディングを迎えたわけではない。
そんなことをつらつら考えていれば、廊下を歩く足音が聞こえてきた。アンナと共に姿勢を正し、扉が開くのを待つ。
「遅くなった。ヴィクトワール嬢を連れてきた」
ヴィクトワールの姿を隠すようにして現れた男にセバスチャンは心の中で舌打ちをした。セバスチャンは今世で会うのは初めてであるが、前世のロマンス小説の知識はある。自分の遺伝子上の父親に心の内を悟られないように、頭を下げた。
「頭を上げてくれ。とにかく彼女の着替えを」
促されるまま顔を上げ、ヴィクトワールの姿をはっきりと見た。彼女を見た瞬間、アンナもセバスチャンも声にならない悲鳴を上げた。
ヴィクトワールのドレスが紅茶のシミだけではなく、踏まれたような跡や緑色のシミなどがついてズタボロになっており、髪も綺麗に結われていたはずが見るのも無残なほどに崩れている。二人が見た時にはお茶を引っかけられただけであったが、あれから何があったのか。
「お、お嬢さま、おいたわしい……!」
アンナが今にも泣きそうな顔をしている。ヴィクトワールはばつが悪そうに表情を歪め、視線を逸らした。
「心配かけてごめんなさい。怪我はしていないのよ。反撃を我慢したのに、かえってひどいことになってしまったわ」
セバスチャンは衝撃的な彼女の姿に思わずどんな仕打ちを受けたのかと怒りがこみあげた。
「いますぐ、抗議を!」
感情の入りすぎた言葉にヴィクトワールはにこりと笑った。
「今、お父様が対応して下さっているわ」
「さあ、ヴィクトワール嬢。侍女に支度をしてもらいなさい。君には事情を説明しよう」
そう促されて奥の部屋へとヴィクトワールとアンナの二人は移動した。残されたセバスチャンは残った男に頭を下げる。
「お嬢様を連れて来ていただいて、ありがとうございます。王弟殿下」
「……知っていたのか」
王弟は何かを含んでいるような言葉を呟いたが、セバスチャンは全力で無視した。淡々と、従者らしく立場をわきまえ言葉を待つ。
「見ていたと思うが、隣国の王女がヴィクトワール嬢にお茶を掛けた。その後、王妃に呼ばれた彼女の足を引っかけて転ばせた」
「え……と、その王女殿下がお嬢さまに嫉妬して嫌がらせをしたという事でいいのでしょうか?」
「公にはできないが、概ね正しい」
重々しく頷く王弟にセバスチャンは頭を抱えた。何故、侯爵ではなく王弟がヴィクトワールを連れてきたのか、わかってしまった。侯爵も流石に王女相手であっても引くつもりがないのだ。
「それで旦那様は……」
「事態の収拾にあたっている。相手は王女だ。色々と落としどころが難しいだろうな」
「王弟殿下、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
「なんだ」
セバスチャンは少しためらったが、意を決して口を開いた。王弟はセバスチャンの目を逸らすことなくじっと見続ける。セバスチャンはその目の意味に気がつきながらも、知らないふりを続けた。淡々とした表情で従者の態度を貫いた。
「その王女殿下は本物でしょうか? 王女殿下のことを私は存じ上げていなかったのです」
「知らなくても仕方がない。王女と言っても現国王の姪で最近養女となったばかりだ。勉強もあまり得意ではないらしい」
「左様ですか」
「生まれ育った我が国に戻りたいため、第二王子と結婚したいと押しかけてきた」
押しかけてきた、と嫌そうに言う。
「……それはわがままでは?」
「あちらにしたら我が国との縁ができるかもしれないと考えたのだろう。どちらにしろ親善大使という肩書を持つ。あまり無碍にもできん」
「王妃殿下の茶会であれはないと思いますが」
つい、本音をこぼせば、彼は肩を竦めた。
「今ごろ侯爵が容赦なく追い詰めているはずだ」
「そうですか」
セバスチャンは気持ちが顔に出ないように気持ちをコントロールしながら、あれこれと考え巡らせた。
嫌だと思っていても世界の強制力が働く限り、断罪イベントが完了するまであの王女はヴィクトワールに突撃してくるのかもしれない。
すでにドアマットヒロインという定義もおかしい気もするが、突撃して、苦言を呈されて、さらに暴走して、周囲に理解されないと嘆く。
これを繰り返せば、最終的には周囲から煙たがれ、白い目を向けられるようになり、必然的に嫌味を言われる。かなり自家発電であるが、ドアマットヒロインとしては十分……なのだろう。
なんというのか……。
セバスチャンがストーリを捻じ曲げたせいだと言えばその通りなのだが。
世界の強制力、雑過ぎる。
もっとスマートに補正ができなかったのだろうか。
セバスチャンにはどうにもならないことだが、騒ぎをこれ以上起こさず帰ってほしいと密かに願った。