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転生前はロマンス小説翻訳者


 セバスチャンがこの世界をはっきりと認識したのは、8歳の時だった。3歳になるお嬢さま、ヴィクトワールと顔を合わせた時だ。年の離れた兄のような存在として遊び相手にと選ばれたのがセバスチャンだった。


 セバスチャンは侯爵家の家令の3男で、将来は侯爵家の家令になるようにと教育が始まっていた。侯爵家の跡取り娘であるヴィクトワールと早いうちから仲良くしてもらうというのが本当の理由だった。


 家令一家は元を辿れば侯爵家の分家で、代々この侯爵家に仕えている。家令の息子としてセバスチャンも何不自由なく育てられてきたが、いつもぼんやりとしていて自主性のない性格であった。


 上に個性を主張しすぎる二人の兄がいたことも原因だろう。年の離れた二人の兄はそれぞれ家令には向いておらず、筋骨隆々で机に向かっているよりも、剣を振り回していた方が生き生きとするタイプだった。要するに機微の分からない脳筋だ。そのため、家令としての役割を3男に押し付け、侯爵家の私設騎士団に属している。


 そんな理由で、ヴィクトワールとの顔合わせが行われることになった。


 いつもよりも上質な洋服、少しうねりのある黒髪は母親の手で丁寧に後ろに撫でつけられた。額が露になり、ぼんやりとした表情も少しはきりっとして見えるだろうと子供なのに大人のような支度をされていた。

 身なりなどどうでもいいと思っていたセバスチャンは異議を唱えることもなく、母親にされるままだ。


「どうしたらもう少し締まって見えるんだ?」


 きちんとした服を隙なく着ているはずなのにあまりのぼんやり加減に、父親が唸った。息子の姿にどうしようかと考え巡らせていた母親が引き出しを漁り、眼鏡を差し出してきた。


「この子に使うとは思わなかったけど、少しはましになるかもしれないわ」


 この眼鏡は兄たちのために用意された物だった。考えるよりも体が動く息子たちを少し賢くみせたいと考えた母親が用意していたものだった。現実は厳しく、見た目では乗り越えられない何かがあると悟って以降、しまい込んでいた。

 父親は眼鏡を受け取ると、セバスチャンにかけてやる。


 反対することなく大人しく眼鏡をかけるが、何かに気がついたのか、すぐに指で眼鏡に触る。


「父上、これ、レンズが入っていません」

「見た目をよくするために掛けるのだからレンズはいらないんだ。いいか、お前が私の跡を継ぎ、この侯爵家を守っていくのだ。わかっているな?」

「多分……?」


 セバスチャンはこてんと首を傾けた。そんな不安でしかない答えをもらって、父親は頭を抱えた。


「とにかく、行ってくる」

「行っていらっしゃいませ。セバスチャン、答えが出そうにない時は曖昧に笑っておきなさい」

「はい、母上」


 セバスチャンは父親に連れられて、本宅へと向かった。


******


 家令である父に連れられてやってきたのは、プライベートなサロンだった。このサロンは家族だけで使用するサロンで、富を誇示するような飾りはない。暖かな居心地の良い空間だ。

 部屋の中央に配されている長椅子にちょこんと小さな女の子が行儀良く座っていた。隣には、彼女の祖母である前侯爵夫人がいる。


 ゆっくりと父の後について行きながら、ヴィクトワールをじっくりと観察した。


 ふわふわのルビーを溶かしたような鮮やかな赤い髪はハーフアップに結われて、黒赤いリボンがつけられていた。子供にどうかと思うような濃い紫色のドレスを身に纏い、じっと近寄るセバスチャンを見つめている。


 ああ。これは間違いない。


 徐々に記憶がはっきりとしていき、セバスチャンは初めてこの世界を鮮明に認識した。薄い膜から見ていた世界がくっきりと浮かび上がる。


 セバスチャンはこの世界を知っていた。


 この世界はロマンス小説の「あなたにただ恋をして」の世界だ。人に踏みつけられ虐げつづけられる「ドアマットヒロイン」に世界の女性たちが共感し、涙し、そして応援した世界。そして、目の前に座るこの少女こそ。


 世の中の女性の憎悪を一身に受けた悪役だ。

 でもまだ、ドアマットヒロインはここにはいない。純粋で何物にも染まっていない少女がいるだけ。あれほどアクの強い女性でも、幼児の年齢では可愛らしいのだと驚いた。やはり取り巻く生活環境が彼女をあれほど救いようのない人物に育て上げてしまったのだろう。


 そんなことを思いながら、彼女の前に立った。彼女はにこりと笑うと、ぴょんと長椅子を降り、とととと、と小走りに近寄ってくる。


「セバスタン、よろしくね。わたし、ヴィーよ」


 キラキラした目、舌足らずな口調、満面の笑顔。


 あまりの破壊力にセバスチャンは膝をついた。鼻血が出ていないか心配になったが、流れた感じがないので大丈夫だろう。


「もちろんです。お嬢さまを幸せにするために尽力いたします」


 彼女のふくふくした小さな両手を包み込むように掬い上げ、ちゅっとキスを落とした。それは忠誠を誓う騎士のような仕草だった。


 あれから13年。


 性格が歪む1番の原因である前侯爵夫人セーラにことごとく反抗し、さらには現侯爵を味方につけた。これだけで、ヴィクトワールは幼い頃の愛らしさをそのままに、素敵なレディに成長した。


 もちろん、ヒロインのフラグもすでに潰してある。ヒロインは現侯爵の後妻の連れ子としてやってくるのだ。ヴィクトワールの母親はセバスチャンが屋敷に来る前に亡くなっているため、どうにもならなかったが、再婚はやめさせることに成功した。


 なんてことはない、ヴィクトワールの情緒不安定が原因で、母が必要だと判断するのだ。侯爵は仕事人間であるため、手っ取り早く子供の面倒を見させるために再婚する。

 情緒不安定の要因であるセーラを遠ざけたことで、彼女はのびのびと健やかに成長した。再婚する条件はそれだけではないが、ヒロイン母が他国の貴族と再婚したため、絶対にこの家に入っては来ない。


 あとは、明日行われる茶会という名のお見合いで親睦を深めた第二王子と婚約するだけだ。王太子ではないが、女性の栄華を極めることは可能なはずだ。

 王子も素晴らしい淑女になったヴィクトワールをすぐに愛するようになる。そして二人は愛を育み、幸せな家庭を築くはずだ。


「……?」


 王子とヴィクトワールが二人幸せそうに微笑み合っているところを想像し、セバスチャンは違和感に首を傾げた。ずっと望んでいたことなのに、何故かあまり幸せを感じない。


 セバスチャンにとってヴィクトワールは翻訳した作品の登場人物であったが、この世界に入って、愛情を持って育ててきたつもりだ。だから彼女に向ける思いは妹――、いや前世の記憶と合わせれば娘のようなもの。


「ああ、そうか」


 二人の幸せの後ろに自分が仕えていないから違和感を感じたのだ。


 お嬢さまの幸せが自分の幸せ。


 そうずっと思ってきたのに、ヴィクトワールの未来に自分がいない。だが、それは小説では当然だった。18歳でヴィクトワールが王子に断罪される前に、セバスチャンは罰せられて屋敷から追い出されていた。手足として動いていたのだから当然だ。


 だが、ここまで改変したのだ。


 ヴィクトワールはこの世界で幸せになり、自分はこの家の家令として仕え、その子供たちとも触れ合うことができるはずだ。


 セバスチャンはぐっと姿勢を正した。


 あと少しだ。気を引き締めていこう。



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