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プロソディー・ガール

作者: イプシロン

 ぼくの彼女はかわっている。

 もしかすると、彼女の気持ちを読みとれるぼくも変わっているのかもしれない。ときどき、そんなふうに思うこともある。

 偶然、歩く方向と歩くはやさが同じになった人が、ぼくたちの会話を耳にしたなら、奇異に思うのかもしれない。だけど、それはぼくたちにとってはふつうで日常のことなのだ。

 ある日の情景を描きだしてみるなら、こうなる。

「ソフィー、雲行きがあやしいね。雨降るかもよ」

「だいじょぶ、だいじょぶ」

 彼女は黒目がちな瞳を輝かせながら、小脇に抱えたバッグの中から、小さく折りたたまれた傘をとりだして、嬉しそうに振ってみせた。それはまるで、どんより漂う雲をカンバスにして、ピンクのチョークで絵を描いているようだった。

「わ、冷たい。やっぱり降ってきたよ。思ったよりもたなかったな」

「うん、うん。これも、これも」

「いつのまに! 用意周到なんだから。出かけるときは、そんなそぶり一つ見えなかったのに」

 ピンクのチョークを持つ手と反対の手には、半透明の、これもまた几帳面に小さく小さくに折りたたまれたレインコートが隠されていた。

「あめ、あめ、ふれ、ふれ」

「それ、懐かしいね。でも実は名詩だって知ってた?」

「ピッチピッチ、チャップチャップ、ランランラン」

 ソフィーはスイング・ドールのように首をふりながら、朗らかな声で歌っていた。

 あとを引き継ぐようにぼくは歌った。

「ぼくなら、いいんだ、ソフィちゃんの、ちいさな、じゃのめに、はいってく」

「ピッチピッチ、チャップチャップ、ランランラン」

 彼女は不思議そうに、しばらくぼくを見つめてからいった。

「歌詞かえた、可笑しい。変えた、可笑しい」

 でも言葉とは裏腹に彼女の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

「だれが作った詩だが知ってる?」

「それ? だれ? にほんじん? いこくじん?」

「北原白秋だよ」

「はくしゅう、拍手! はくしゅ、白秋!」

 彼女の唇から零れでる声は、残念ながら正確に文字にすることはできない。

 手を叩く音がしたかと思うと、傘とレインコートが宙に飛んでいった。

 ぼくたちは顔を見あわせて笑いあった。

 雨は本降りになり、ぼくたちを容赦なく打っていた。

「ソフィー、濡れると風邪ひく。いつもそうなんだから」

「しとしと、べとべと、くっしゅん、くしゅん。くすり、苦いー、嫌いー、いーだ」

 ぼくはレインコートを拾ってひろげると、彼女を半透明の羽衣で覆った。

 傘に手を伸ばそうとしたとき、通りすがりの車に乗る男女が視野に飛び込んできた。

「あの子、頭おかしいんじゃないの。ズブ濡れじゃん。しかも大声で歌うたってるし」

 女の声がした。

「あれだろ、自閉症とか、発達障害とかいう奴だよ。キモイよな」

 男の答える声が聞こえた。

 火のついた煙草が、車窓から投げ捨てられた。

 吸い殻は濡れた路面に落ちて、不愉快な音をたてた。ぼくの全身に火が燃え移り、肌を焼かれる痛みを感じた。髪が焦げる厭なにおいを嗅いだ気がした。

 そのとき、ソフィーの歌声が耳朶をうった。

「ターンタタン、タン、タン……タン……タンタタン」

 耳を澄ましたぼくに聞こえてきたのは、ショパンの『雨だれ』だった。

 彼女が好んでよく聴く曲だった。

 その歌声は、ぼくの全身で燃えさかる憤怒を優しく消し去っていくようだった。どこかやるせない悲しみと哀れみを含んでいるようでもあった。

 傘を拾い上げてさしたあと、もうすっかり濡れてそぼっているソフィーの肩をぼくは黙って抱きよせ、彼女の声にあわせて歌いながら家路についた。

 ショパンとマリアのように、ぼくたちが離れ離れにならないようにと祈りながら。

 その夜、ソフィーが熱を出さないことを祈りながら。


          <了>

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