本日のお客様、青年
「いらっしゃいませ」というと、軽くペコッと会釈をして、カウンター席へと座った。
「…あの、表の看板見てきたんですけど…」
「メニューが日替わりで一日一品って本当ですか?」
青年は、そう尋ねた。
「ええ、本当ですよ。一日一品だけスイーツを作ってそれに合わせた珈琲を淹れるようにしています。珈琲だけならメニューでお選びいただけますけど…」
「じゃあそれでお願いします。珈琲はマスターのおすすめで」
青年の顔は空模様如く曇りだった。
「かしこまりました。」
雨音がこの静けさを語る。
「ところで」
じっと僕が珈琲豆を挽く作業を見ていた青年が顔を上げる。
「どうして今日は此処に?」
「え…」
「あ、いえ、この言葉に特に意味はないです。ただ、こんな雨の日にわざわざ珈琲を飲みに行かないだろうし、なんでかなって思って…」
青年は少し戸惑った様子だった。
「あ、すいません。何かの用事があってたまたま立ち寄っただけですよね、変なこと聞いてすいません。」
こんな日に来てくれるお客様が珍しくてついつい変なこと尋ねてしまった。
「いや、別にいいです。ただ、毎日家の中にいるのはちょっと辛くて、たまには外に出たいなと思って…」
少し切なそうな顔をした。
「そうですか…」
沸騰したヤカンが切り裂くように叫ぶ。
マメコはまだ外を見ていた。
「なにか、」
珈琲を淹れる。
「辛いことがあったならお聞きしましょうか?言いたくなければ構わないですけど。余計なお節介ですかね?」
ちょっとお節介すぎたかなと思い思わず苦笑する。
青年は少し驚いたような顔をしてまた俯いた。
珈琲の酸味のある香りが漂う。
マメコが奥の部屋へと消えた。
青年は何か言いたそうな顔をしてるのが見て取れる。珈琲カップを取り出した。
「例えば、友達とか両親とか、大事な人には言えないことがあるならば、言ってくれても構わないですよ。」
「私でよかったら聞きますし、聞いて欲しくないならば独り言として聞かなかったことにします。」
そう言うと青年は、突然顔をあげ、僕を見つめた。
「知り合いじゃないからこそ解決できることもありますし、ね?」
僕は珈琲を差し出した。
そっと差し出されはコーヒーカップはふわっといい香りがした。
まるで僕の心の底まで見透かされたような気分で少し腹立った。でも、そんなことで腹が立つほど、今の自分が追い込まれ焦っているのも自覚していた。僕は今年の春高校を卒業したばかりだ。特に夢もなく、将来就きたい仕事もやりたい事も目標にしてることもない。ただ、今の社会は高学歴というものをとても可愛がっていて、友達もハイレベルな学校への進学を目指し、親にも「いい大学へ行きなさい。」と催促されたり、教師にも「この成績ならこの大学を目指しなさい。」と、
そして、僕もやりたい事もないし、仕方がない。という風に、まるで、テレビの番組表だけで話を合わせるみたいに大学受験戦争へと足を踏み入れた。
でも次第にそれは自分へのプレッシャーとなった。友達との雰囲気も今までとはどこか違く、いつも同じような事ばかり喋り、親の期待に応えなければと努力をするも、所詮固い意志も覚悟もなければ、見事に打ち砕かれ行先の検討もつかないままダラダラと同じ毎日を引きずっている。
まあ、結果は結果だし、過去はいくら望んでも変わらない。そんな当然の事は分かっている。でも、やはりどこか(後悔と呼べるものかどうかわからないが)悔しいものもあって、周りや両親がかける言葉や慰めが、自分自身に対する苛立ちが、ひどく僕を卑屈にした。
「どうぞ」
目の前に出された、チーズケーキ。僕はこの人も信用してはいなかった。
「…いただきます。」
ふわふわとしたチーズケーキ。これがスフレと呼ばれるものだろうか。僕はこういうのには少し疎い。
「美味しい。」
それは、正直な感想だった。なぜだろう、美味しいものというのはこんなにも人の心を癒すのか。マスターは笑っていた。それは、嬉しいとかの喜びの感情ではなくて、安心したような、ホッとして笑みが思わず漏れたような、そんな笑顔だった。
コーヒーを一口飲んだ。
甘かった口の中に、一気に苦味が広がった。やはりまだこの苦味には慣れない。けど、癖になるような、そんな味だった。いい香りがする。それを思いっきり吸い込んで、はあーと吐き出す。コーヒーに浸る。じわじわと温かくなるのがわかる。それが心地いいものだとその時初めて知った。
コーヒーを飲んでるとなんだか心が落ち着いてきて、今まで何に悩んでいたのか、なぜあんなに焦っていたのか、わからなくなった。
マスターを見た。彼は特にどうということはなかった。ただ、美味しいコーヒーを客に提供している。ただそれだけ。それなのに、僕はどうしても不安や不満をこぼしたくなってしまった。僕は人に悩み相談などする性ではない。
「…コーヒー、美味しいですね。」
「そうですね、珈琲は美味しいです。」
「あ、ブラックで大丈夫でしたか?ミルクや砂糖も用意していますが…」
「僕、ブラックコーヒーがこんなに美味しい飲み物だとは知りませんでした。」
「そう、言って頂けると僕も嬉しいです。ありがとうございます。」
コーヒーは苦い。
「僕、本当は自分でもわかってるんです。本当は自分が悪い事は」
突然、口が滑ったかのように言葉がポロリと出てきてしまった。
「わかってるけど、知らないふりをしてた。」
開いた口は閉まらない。
「僕は何かと人並み程度かそれより上だったから、」
自分は考えなくてもやれる、人の言うことをちゃんとこなせる。そんなふうに考えてた。でも、もっとちゃんと、やってれば、
「もっと、もっと!真剣に取り組めば、…よかっ、た。」
店の中は静かだった。まだ雨音は響く。
「僕、考える事を放棄してたんです。悩む事が苦しくて嫌でかっこ悪いって思って悩むのをやめたんです。」
全部、ぜんぶ言われた通りに、何もかも受け入れてしまえば、とても楽だ。僕は人に従ってれば上手くいくと思っていた。
「そして、上手くいかなかったら全部人のせいにしてた。」僕は悪くないと勘違いをしていた。いや、そう思いたかった。
コーヒーカップは空だった。
青年の声は震えていた。
空になった珈琲カップをきつく握りしめる手も震えていた。
「僕もね、そんな時代がありました。」
僕がそう話し始めると、青年はゆっくりと顔を上げた。
「誰だって、先のことはわからない。だから悩み苦しむんです。」
空になった珈琲カップにもう一度コーヒーを注ぐ。
「僕だって、君ぐらいの年齢の頃には、自分が将来こういう仕事をしてるなんて夢にも思わなかったよ。」
「マスターってまだ若いですよね」
「そうですね、まだ28」
もう、というべきだったかな?と言うと青年はフッと少しだけ笑った。
「考えるのをやめてしまうと、もうなんでもなくなっちゃうんじゃないかとおもいます。」青年は首を傾げた。
「嬉しいことも、悲しいことも、苦しいことも、全部味わえるから生きていると実感できると思うんです。」
青年はまだ理解してないようだ。
「生きていれば、なんて言葉は言わないけど、歳を重ねると考え方も変わってくる。だから安心して歳を重ねるといいですよ。」
「僕はね、カウンセラーでも何でもないからちゃんとした根拠とかないけど、苦しくなったらとにかく進めばいいよ。前でも後ろでも横でもね。そうすると何か思いつくはずだから。」
「前でも、後ろでも…」
珈琲カップの中はもうぬるくなっていた。
「そうだ、君も珈琲になればいいんじゃないですか?」
青年はまた不思議そうな顔をした。
「…コーヒーに?」
「そう、君は珈琲がどうやってここまでに至るか知ってる?」
「…どこか、遠い外国で収穫されたコーヒー豆が運ばれて、、、」
「そう、それから豆はそれぞれの場所、つまりスーパーとかこういうカフェとか、様々な場所に運ばれて行くんだ。」
「でもそれってさ、」
一見、人の手によって選ばれ運ばれてきた珈琲豆は人が選び運んでいる。だから珈琲豆はただ人に従っているように思われる。だけど珈琲豆は自分がどこに行くかはわからないし、人もわからない。
「結局、人も珈琲豆もわからないんです。先のことも、後のことも。例えば、この一粒の珈琲豆がどの木で収穫されどのルートで運ばれどの人の手に渡りどの人に美味しく飲んでもらうかは、誰もわからない。」
まだ青年はそれが飲み込めてないようだ。
「でも、珈琲豆にとってそんなことはどうでもいいでしょう?」
青年は少しずつ理解してきたようだ。
「つまりね、大事なことは先のことばかり考えるのではないんです。もちろん将来を考えるのはとても大事なことだけど、君が誰から生まれ誰に学び誰とともに果てるかなんて、わからないし、どうでもいいでしょう?」
だから、
「だから、僕はコーヒーみたいになればいいんですね」
僕は頷くように笑った。
そして、僕はこの言葉とともに彼を見送った。
「ご来店、ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」そうマスターに見送られながら店を出た。
お礼を言いたいのはこっちの方だ。
雨は相変わらず降り注いでいる。でも心なしか軽い爽やかなものになった気がした。
また来よう。そう思った。今度はどんなコーヒーが出るのか。僕もコーヒーみたいになろうと思った。誰かにいいところまで運んでもらうのではなく、コーヒーみたいに自分の歩む道で色んなことを感じながら行こう。最後にはみんな同じ道を歩むなら、人より多く違う道へ進んでみてもいいかもしれない。
「結局はみんな珈琲カップの中に注がれてしまうのだから、今の自分を受け入れながら行けばいいよ。」
そうか、僕らは珈琲カップのなかにいるんだ。