とある文章書きの主張 蛙鳴蝉噪
蛙鳴蝉噪、という四字熟語がある。読み方は、あめいせんそう、だ。
意味としては、とても騒がしくて喧しい蛙や蝉の鳴き声、というところから、そのように喋りたてる様子や人、さらにはうるさいばかりで意味がない無駄な議論や、長いばかりでなんの内容もない下手な文章を指している。
同じ意味合いに驢鳴犬吠(ろめいけんばい)、というものもある。
短い間だがキーボードやタブレットで、ポチポチパチパチと文章を書いてこうして投稿している身としては、お前の方がうるせぇ、と思ってしまう。
それはさておき、この蛙鳴蝉噪という並びにどこか日本を感じてしまうのが私だけだろうか。
蛙の鳴き声は、田んぼのあぜ道を思い起こすし、セミの鳴き声は、夏休みや渓流、死にそうな思いをして歩く都市の道路を思い出す。
音というのは記憶や感情に深く結びついている。音楽、とはそれを突き揺らすためのアプローチである。逆にいえば音で思い起こすものが、民族性であるといえると思う。
音、といえば、日本の音風景100選なるものがあるのをご存じだろうか。
環境庁(今では環境省)がシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願う音、として全国から公募したものらしい。
渓流のせせらぎや、松原やススキの風音に加え、祭りの喧噪や、教会の鐘の音、SLの汽笛、なども入っている。
まさに日本文化を象徴する環境音、という事だろう。
そのなかに、カエルも蝉も4つずつ選出されている。
昆虫としてはマツムシやスズムシが一件ずつ入っただけ、という点を見ても、いわゆる虫の鳴き声として、蛙や蝉の鳴き声がいかに日本文化に深くかかわっているかわかるというものである。
蛙としては、日本固有種であるカジカガエルが4つのうち2つを占めている。
フィフィフィと鳴き、特に美しいものは河鹿として愛されてきた。カハズとして万葉集にも登場しているが、カジカガエルの季語は曖昧なようだ。鹿、というイメージで秋に出したくなるのも、日本ならではだろう。
江戸時代には河鹿籠なるケースで飼育されていたようだ。
蝉も季語であり、夏を代表する風物詩だ。
100選で取り上げられたのはヒメハルゼミという種類で、なんとこの蝉、声を合わせて合唱するらしい。音頭をとったり、それに追随するといった役割もあるようだ。
この大合唱は他の種では見られないようで、静かだった山が一斉に鳴きだす、というのはおそらく感動的な光景だろう。
世の中は洗練されていないものを駄文、駄作とし、読む価値聞く価値見る価値無しと、十把一絡げにして烙印をおしてくる。
身近な環境音や風景である子供の元気な声や、学校で楽器を練習する音、街路樹の落ち葉。これらが社会問題として取り上げられる世の中である。世間の要求はずいぶんと厳しくなったようだ。もう少し寛容になって、認めて、楽しめない物だろうか。
でも、そんなやつ放っておけばいいじゃないかと思う。
我々がこうして日本語を操って、インターネットに投下する。
今を生きる日本人が、まさに文化を生み出す瞬間にいるのであって、どんな文章も文化の一端なのだ。
6月。イタリアではすでにセミは鳴いている。
香水と化粧の匂いをぷんぷんさせてハイカルチャーなどとのたまう奴の尻を蹴り上げてやりたい、などと思いながら、こうして今日も無意味な考察を続けるのである。
火中の栗を爆ぜるまで見てみるシリーズ第4弾。
南仏では蝉は幸福の象徴であるとか、蟻とキリギリス、のキリギリスはもともとセミだったけど馴染みがなかったという事は有名ですね。
四字熟語は本当に良い文化だと思います。知恵や故事、事象が合わさって重要な意味があったりなかったりで日本文化の集積点の一つだと思います。辞典を読んでるだけで半日潰せますよね。
お読みいただきありがとうございました。他にもいくつか短編を投稿しています。よろしければご覧ください。
それでは失礼します。