荊の魔女
宵闇の森の奥深く、そこに荊に囲まれた小さな家がありました。
誰も立ち寄ることのないその家には、漆黒の長い髪に深紅の瞳を持つ魔女が居たそうです。
魔女の首には荊棘模様の痣がありました。
その痣のせいか、魔女は声を発することが出来なかったそうです。
でも、僕は何故魔女の声が出なくなったのか知っています。
だって僕は魔女に助けられ、そして彼女の側に一番長く居たのですから。
ある日、宵闇の森と呼ばれる森に、迷い込んだ一人の人間の子供がいたのです。
どうしてこんな誰も立ち入ることのない森に、こんな小さな子供がいるのだろうと不思議に思いました。
遠い昔のことを思い、いくら小さな子供と言えども警戒は怠りませんでした。
暫くその子供を僕は観察していました。
その子供は、泣いているはずなのに声が聞こえませんでした。
時たま空気が喉から抜けるような音が聞こえるくらいで声を発しているとは言えない奇妙な子供でした。
僕と一緒に歩いていた魔女は一瞬の間考えを巡らせていましたが、子供に手を差し伸べることにしたようです。
魔女がこんなことをするのを初めて見ました。
何と言っても魔女は人間嫌い。
関わることすら拒絶するような人ですから。
魔女はなるべく怖がらせないように子供に尋ねていました。
子供に名前を聞いても何処から来たのか問うても首を振るばかり、そこで魔女はふと思い立ちました。
この子供は喋れないのではないのかと。
そうならばと、ここで出会ったのも何かひとつの縁、魔女は純粋な瞳で見上げてくるこの子供の喉に指を当て呪を施しました。
すると、魔女の首に荊棘が巻き付いていきます。
やがてそれは、溶けるように荊模様の痣として首に残りました。
その姿は、荊模様の痣のせいか少し痛々しく見えました。
その光景に驚いたのか子供の目はまん丸に開かれていました。
もちろん、僕も少し驚きました。
魔女は気にせず子供に言いました。
ーもう、大丈夫。貴方の声はちゃんと届くようになったわ。
ーさぁ、おかえり。
ーもう二度と此処に来ることはないように、と。
そして僕は気付きました。
魔女が声を失ったということにーーー。
だって魔女の発した筈の声は、頭の中で響くような聞こえ方だったのですから。
子供は魔女に言いました。
ーあなたは魔法使いなの?
初めて発した声だからでしょうか、言葉がたどたどしかったですが、声を交わしていけば大丈夫でしょう。
しかし、魔法使いとは。
言いえてなんと珍妙なことか。
魔法使いなんてものは、今はお伽話の産物でしかない。
もうとうの昔に潰えたのだからーーーー。
僕は魔女を見上げました。
魔女の瞳は、少し悲しそうに揺らめいていました。
魔女は子供に何も語ることなく、背を向けました。
本来人間には関わりたくはない魔女のちょっとした気まぐれーーー。
もう誰も此処に踏み入ることのないように、荊が魔女の意思を汲んで多い繁っていきます。
この森の奥深く先にある魔女まで辿り着くことのないように、まるで森の進入を拒むかのように閉ざされたのです。
もうあの子供も二度とこの森には入ることは出来ないでしょう。
そして、もう一人あの場にいた人間もこの森に足を踏み入れることは許されません。
その人間は、子供に気づかれない範囲に影となって潜んでいました。
きっと子供の護衛か何かでしょう。
魔女もそれに気付き、厳重な呪を施したのだから。
惑わせの呪もかけていましたからね。
あの時、もし魔女に何かしてこようとしたならば、僕はそいつの喉を噛み切ってやる自信がありましたよ。
人は、同じでないものを見つけるとそれを害す傾向があることを知っています。
今起きたことをあの護衛らしき人間は報告するでしょう。
そうなれば、魔女はただですみません。
いくら子供にとっての良いことでも、その力の珍しさに必ず目をつけるでしょう。
欲にまみれた人間は、自分の意に添わぬ力ある者を排除することを厭いません。
人間達は、魔女の恩恵を受けているというのにーーー。
そして、人間はそういったことを都合よく忘れていくんです。
なんて、愚かなことでしょう。
魔女は私欲で力など使ったりしないというのに。
その後、僕は魔女がかけた呪が何なのかを知りました。
魔女だからと万能なわけではありません。
無から有を生み出すことは出来ないのです。
何かひとつを差し出すのなら等しい何かを差し出さなくてはいけません。
魔女の呪は子供に声を与えるものでした。
そして代わりに自分の声を失いました。
その証として首には荊模様の痣があります。
もう消えることはないでしょう。
僕は何とも言えない気持ちになりました。
魔女の声は今、喉を震わすことなく頭に語りかけてきます。
それが決して嫌なわけではないのですが、やはりあの綺麗な声が無くなるのは悲しいです。
いくら魔女の気まぐれであったとしても、少しあの子供に殺意を覚えました。
後に魔女はあの時のことを語ってくれました。
あの子供は私を負の感情なく真っ直ぐ見てくれた。
子供というのは正直だからね。
本当に忌むものなら逃げ出しただろう。
長年生きてきたが、あんなに綺麗な目を見たのは初めてだよ。
本当はあの子供から何かひとつを貰わないといけないのだろうけど、あの子供に対価となるものを差し出せというのも違うだろう?
それにあれは本当に気まぐれだよ。
私には声を失っても他に伝える方法を知っていたからね、別に苦じゃないよ。
私の瞳はね、人間からしたら血の色で気味が悪いんだってさ。
血の色で何が悪い、血っていうのは生きてる証でしょ?
どこが気味悪いのさ!って、私は思うんだけどね。
だから、あの純粋な瞳で見上げられた時、嬉しかったんだ。
きっと、どこかで心の奥すみで思ってたんだろうね。
どうしてこんなに紅い瞳なのかって。
自分が否定していたのかもしれない。
たったひとつの小さな出来事、それが本当に嬉しかったから私は何も後悔していないんだよと、僕の頭を撫でながら教えてくれた魔女はもういません。
僕はたくさんのものを魔女から貰いました。
名前に温かい居場所、言葉、温かい食事、何時でも差し伸べてくれる手。
大切な時間をたくさん貰いました。
けれど僕は、魔女に何か与えることが出来たでしょうか?
僕が魔女と一緒にいたのは打算からではありません。
あの時、魔女に出会っていなければ僕は死んでいたでしょう。
もう体温のない氷のように凍てついた体を魔女は温めてくれました。
怪我も深くもう死を待つのみだった僕に看病を施してくれました。
そんなこともあって、魔女とは長い付き合いでした。
今ではお互いのことを分かり合える仲だと言えます。
本当に優しい心の持ち主で一緒にいるだけで心が温かくなるのです。
安らぐというのはこういうことを言うのでしょう。
だから、ただひたすら願います。
魔女にとっての安らかな眠りを妨げることのないように。
何人もこの森に入ることなかれーーー。
魔女が施した呪いの唄が聞こえてきます。
何だか僕も眠くなってきました。
また次に目覚めても魔女の側に…。
宵闇の森と呼ばれる森の奥深くに、朽ちることのない荊に囲まれた小さな家がありました。
そこでは漆黒の長い髪に深紅の瞳を持つ魔女が居ました。
悠久の時を経て眠りから目覚めたそうです。
魔女の首には荊棘模様の痣があるそうです。
魔女の側には何時かの時のように付かず離れずの黒い猫がおりました。
黒猫の名を呼び体を撫でながら魔女は言いました。
ー待たせたね、ただいま。