人形は異国の空を夢に見る
作品タイトル:人形は異国の空を夢に見る
作者名:野獣先輩
穏やかな昼下がりだった。天辺からのんびりと下ってゆく太陽。ラジオニュースの天気予報が明日の猛暑を告げる。緑の芝生の上にはまだまだ続く、長い夏の予感。お天気キャスターの声を辿ると一台の車にたどり着く。コンクリートの上に蹲る(うずくまる)車のフロントガラスには穴が開いていた。穴を中心に無数のヒビが走っている。声はそこから流れているのだった。目の眩むような日差しを浴びても中の男は瞬き一つしない。燃えるような暑さだというのに汗を拭うことすらしない。ラジオのキャスターがいくらゴキゲンな冗談を言っても男は蝋燭の様に白い顔を日差しの中に向けるだけだ。男のシャツには幾つか穴が開いていた。シャツの破れた所が微かに血に染まっている。男は死んでいた。三発の弾丸をその胸に撃ち込まれて。
お屋敷の窓が一つ開いている。開いた窓で風を受けたカーテンが風を孕み揺れる。リビングの中では女が死んでいた。繻子の様に綺麗な黒い髪をした女、しかし後頭部に負った傷のために美しい髪は血糊でガチガチに固まっている。鬢からのぞくうなじは雪のように白い。死人と言うことを差し引いても色の白い女性だった。俯せに倒れているために全体は見えないが非常に整った顔立ちをしていた。艶紅の光る唇も、見る物を魅了せずには置かない黒い瞳も、扇の様な睫だって半分しか見えない。女は左の頬を床に押しつけるようにして死んでいた。
長い回廊を風が渡って行く。空気の固まりが縦横無尽に走り回るその先には老人、老爺が死んでいた。経年ですっかり黄色くなった肌。頬には袋があった。青い瞳が鮮やかだったのも今は昔のことだ。老人だけがただ一つの外傷も無く死んでいた。老人の傍らには甲虫の肌みたいに黒光りするピストルが一丁落ちている。老人は両の手で人形を抱いていた。今や温もりを失った手が玲瓏とした陶器の肌と噛み合うようにして触れている。人形は美しかった。この世の物とは思えぬほどに。
グレゴーリイが長い年月を経てとある展覧会で彼女と再び出会ったとき、彼はこちりと時計が鳴るのを確かに聞いた。カウントダウンの音だ。それはひどく陰惨な予言だった。確かにあの瞬間にグレゴーリイは破滅に向かって歩き出したのだ。欲望の声に従うままグレゴーリイは展覧会の主催者に掛け合い、彼一流の恫喝と懐柔を上手に織り合わせた交渉術まで持ち出す始末。しかし、持ち主は頑として譲らない。しまいには成金式のやり方で無理矢理に彼女を手に入れた。彼が彼女を肉の厚い手の平に抱いた時、ガラスの瞳に魂を奪われる心地がした。虚ろな黒目に自分の姿を映しながらグレゴーリイは妻が帰ってきたと思った。彼を捨てて若い男と消えた若い妻が。その数日後からこの話を始めよう。
宵の風にマロニエの街路樹が風に揺れていた。車の窓越しに見るサニーサイドヒルの様子は新鮮だ。グレゴーリイ・マンソンはそんな事を考えた。太陽の明かりが山の向こうに消えればどんな町もその顔をがらりと変える。そんな当然の事を夜のサニーサイドヒルは彼に教えたのだ。風防を躍り超えて流れ込む風に顔を晒しても今日は酷く暑い。背中がじめじめと蒸れるのを感じて彼はクリーム色のソファーから背を起こした。シャツを着た背中に手をやる、指に汗の感触があった。着いたら着替えねばなるまい。彼はそう思いながら襟をくつろげた。何度かシャツの胸を揉むようにして空気を送るが効果は芳しくない。酷く暑い夜というのに月はしんと冷えて夜空の底に沈んでいた。死者の笑み、筋肉の硬直が作る歪な笑顔。安心を湛えた不吉な微笑。今日の月はそれを思わせる。グレゴーリイは体の芯が重みを失うのを感じた。手先が強張る。関節が軋む。私は恐れているのだ。「彼女」と会うのを。だがそれと同じくらい楽しみにしている。私の少年時代に温もりを添え、今もこうして私を恋に駆り立てる。この老いたる身を恋に駆り立てる! 早く! 早く我が家へ! あの女の待つ家へ私は帰りたいのだ! グレゴーリイが年老いた、汗ばむ背中を期待と焦りに焼く中、運転手があくびをした。それは噛み殺した、小さなあくびだったが、グレゴーリイが癇癪を爆発させるきっかけとしては十分だった。夜の町に金切り声が響く。
良い過ごし方、悪い過ごし方、いずれにしても同じ事、時間は過ぎて行く。奇妙な興奮を乗せて黒塗りのフォードがマンソン邸の庭に入り込んだ。蔓バラの生け垣に埋まる格子の門を抜けて道を進むとその両脇には見事に手入れの行き届いた芝生が広がっている。夜の闇に白く浮かんでいるのは噴水だろうか。大理石の天使が掲げる大きな瓶からは豊富な水が音たてて流れ落ちている。そんな見事な庭園も今、グレゴーリイを待ち受ける事に比べれば何の面白い事があるだろう?
玄関の前にフォードが止まりグレゴーリイは自分の屋敷を見上げた。星影を背負い除けて立つマンソン邸は一九二〇年代ネオ・バロック建築の怪物だ。張り出したファサードには過剰とも言える装飾が施され無数の尖塔に飾られた屋根はまるでノコギリのよう。今日も窓から明かりが漏れる。無数の窓が燦然と輝く、けれども「彼女」の居場所はすぐに解る。「彼女」の部屋に明かりは灯らない。彼が灯してやるまでは。
両開きのドアは彼が手を触れることなく開いた。中には無数の召使、女中が私の帰りを待っている。グレゴーリイは着替えを用意するように命じた。鏡の前に立つと彼は思う、老いたな。彼の頬は皮膚が弛んで出来た袋がある。髪はもう白くなってしまった。腹回りもきつい、絹のシャツがピチピチと張って餅のようになる程度には。シャツを脱げばもっと酷いが、あまり詳しく描写すべき物とも思われぬから先を急ごう。
伊達男に近づく儚い努力をひとしきりし尽くすと彼は意気揚々の足取りで「彼女」の待つ部屋へと向かった。鍵を開けるとあまり音を立てぬようそっと扉を開く。暗闇の中にローファーのつま先をそっと差し入れる。慣れぬ手つきでマッチを擦って部屋の明かりを灯した。この部屋には電気が通ってない。彼以外のいかなる者も、この部屋に手を加えることはおろか入ることさえも許されていない。この部屋は彼の秘密と希望でいっぱいだ。
一つ、また一つ、丁寧に明かりを灯す。白い、ほっそりとした蝋の上に炎の花が咲く。次第に明度を増していく闇の中でまず目につくのは内装の異様な赤さ。壁紙も床に敷かれた絨毯も赤いのだ。炎の色が赤絨毯に溶け落ちて目を灼く鮮紅色になると、次に部屋の脇に置かれた巨大な衣装箱が姿を現す。それの中身は全て「彼女」の物なのだ。そしてとうとう部屋の中が盛り場みたいに明るくなると紫檀のテーブルに置かれた、これまた紫檀の箱が闇の中から浮き上がる。それは寄せ木細工で凝った装飾の施された美しい小箱だ。「彼女」を匿して小箱は磨き上げられた木目に闇を映す。グレゴーリイは懐に手をやって真鍮の鍵を取り出した。震える手で鍵を差し入れゆっくりと捻る。錠の開く音がするとこの精妙に作られたからくり箱は独りでに開いた。そしてこの部屋の主が姿を現す。丈の長い、肩を出したビロードのドレス。頭に載せた婦人帽には紫のダリアが咲いている。
彼は震える手のひらで丁寧に「彼女」を抱いた。冷たい陶器の肌に、滑らかな白い陶器の肌に彼は口付ける。空気が微かに動くのか灯の花が目を伏せるようにして小さく揺れた。老人と人形の口付けする秘めやかな音。音は火影に染みこむと闇を伝い、夜を蝕んでいった。緋色の絨毯。老人の愛撫。仄暗い部屋で狂気が燃える。
おまえは出会った日から同じだ。おまえだけが私を愛してくれる。人形の白い首筋に溺れるような格好でグレゴーリイは囁いた。
私がまだ市場でつるつる滑る魚のはらわたに苦戦する魚屋の見習いだった頃。あの頃の私はおまえを母と慕っていた。そして今、おまえは私の恋人としてここにいる。私の最後の恋人として。
老人の世界から時間が姿を消した。
透明な朝日が床に落ちて砕け散り、輝く。ダマスク織りの赤いカーテンが太陽を細切りにしていた。カーテンの隙間をすり抜けた陽光はグレゴーリイのすぐ先に降り落ちている。目の前で燃え上がる太陽の欠片を掴むようにしてグレゴーリイは絨毯に寝そべったまま体を伸ばし、呻いた。なんて様だ。床で眠るとは! いつの間に眠ってしまったのかさえグレゴーリイには見当がつかなかった。昨日の夜灯した蝋はとっくに溶けている。今は微かに好い香りのする脂肪の堆積があるだけだ。グレゴーリイは懐から懐中時計を取り出した。手を伸ばして金色に輝くそれを日にすかしてみる。もう昼過ぎだった。もう一度大きく呻いてグレゴーリイは立ち上がる。背骨が軋んで嫌な音を立てた。
人形を抱き上げてガラスの瞳をのぞき込む。今日はおまえと過ごそうか? グレゴーリイは決めた。もとより思い切りの良さ冷酷さで出世した男だ。この程度の事は考えることさえしない。グレゴーリイは人形の寝床から柔らかい絹でできたハンカチを取り出した。さて、ここからが良いところだ……グレゴーリイの口角が我知らずにやりと歪む。
人形の腕が優美に掲げられる。細い体からダークブルーのドレスが音もなく取り去られる。グレゴーリイは他の衣類も器用に脱がせた。人形をすっかり裸にしてしまうとグレゴーリイは白い、まっさらなハンカチで彼女の体を拭く。つま先、ふくらはぎ、太腿……窓から入る微かな光に白く照り輝く彼女の肢体をグレゴーリイは丹念に拭いた。
どうだ、気持ちいいか? 楽しげに語りかけてグレゴーリイはあらぬ所を拭いたりもする。彼はとてもご機嫌だった。部屋にノックの音が響くまでは。
「なんだ」
不機嫌な声でグレゴーリイが言った。
「オズボーン様がお越しです」
「やれやれ! 少しお待ちしてもらえ」
グレゴーリイは人形に顔を寄せると口付けし囁く。続きはまた今度だ。世の中という奴は本当にやっかいだよ。
棚から人形の洋服を取り出し彼女に着せる。今日は深紅のスーツだ。服を着せ終えると箱の底にもとあったのと同じように絹のハンカチを敷いてその上に「彼女」を横たえた。箱を閉じる段になってグレゴーリイは悲しげに眉を顰める。
私だって本当はこんな事、したくないのだ。でもこうしないとおまえはいなくなってしまうかも知れないからな。箱が閉じるとグレゴーリイはまた悲しげな顔をした。許してくれ。でも次またおまえがいなくなってしまったら。私はもう若くない。もうあのような悲しみには耐えられないのだ。
グレゴーリイは名残惜しそうにして箱に背を向ける。シェードラインのはっきり刻まれた部屋。白昼の闇に小箱は沈められた。グレゴーリイは自らの生い立ちに思いを巡らせる。
彼は自分がどこで生まれたか知らない。コネチカットと言う人もあればフィラデルフィアの辺りという人も居る。まあ北部の生まれというのは間違いないだろう。それにしてもグレゴーリイほど人の愛を受けずに育った人間がいるだろうか? 彼の両親は彼が二歳の頃に死んだ。だから顔も覚えていない。写真もその当時は無かったから彼は自分の両親がいかなる人物か全く知らないのだ。親が死んで親戚に引き取られたグレゴーリイはずいぶん苦労をしたものだ。おじさんは酷く女癖の悪い人でしょっちゅう彼に秘密のラブレターを運ばせたりしたものだ。そうした経験は後々、何が行われたか理解できる年になってからずいぶんグレゴーリイの心を苦しめた。それにずいぶん打たれもした……彼の少年時代の唯一の楽しみはウィンズバロ玩具店のショーケースを見ることだった。彼が後に人を殺め、自身も命を落とすのは彼が少年だった日の奇妙な空想に由来している。当時、ウィンズバロ玩具店のショーケースには女の人形が飾られていた。どんな人形かと聞くならば美しい人形だ、とだけ言っておこう。幼いグレゴーリイはその人形に夢中になった。あまつさえ彼女を自分の母だと思いこむほどに。これを聞けば誰もが馬鹿な、と笑うだろう。しかし、親無し子のグレゴーリイにとっては大まじめだったのである。彼はそういう塩梅で少年時代を過ごした。彼女と出会って一年した頃だったか。グレゴーリイがガラスのショーケースをいつもの様に覗き込むと彼女がいない。おもちゃの店長に聞くと彼女は売れてしまったという。ショックだった。親に見捨てられた気分、ひどく悲惨な気持ちをグレゴーリイは二度味わったのだ。一度目は緩慢に彼を傷つけ、二度目は突然に彼から希望を奪い去った。
白いレースのカーテンが午後二時過ぎの日差しを漉し取っている。柔らかな光の中でオズボーン氏の出で立ちがシルエットとして浮き上がる。オズボーン氏は弁護士だ。しかし、グレゴーリイの味方かと言うとそうではない。オズボーン氏のクライアントはグレゴーリイが去年別れた妻なのである。彼の膝の上にある分厚い油紙の封筒に何が書かれてあるのか、その事を考えてグレゴーリイは苦笑した。オズボーン氏はグレゴーリイの姿を認めると立ち上がり、どこか儀式的な笑顔を見せながら両手を肩の高さに掲げた。
「良かった、お元気そうですね」
「おかげさまで」
「なかなかいらっしゃならいので」
「少し立て込みましてな」
オズボーン氏は懐疑の目でグレゴーリイを見つめたがすぐに視線を外し「ほお、まあ結構」と言って笑った。
「妻は元気ですか」
「まあ概ね」
「それは残念」
くぐもった笑いが交わされる。
「奥様のご要望なんですが」
「その事につきましては心配ご無用」
オズボーン氏が封筒に手をやるのをグレゴーリイが遮るとオズボーン氏は少し目を丸くした。
「私の方でこれといった要望がありませんからな」
オズボーン氏はうつむき、舌を唇に巡らせる。唇が十分湿った頃。オズボーン氏は口を開いた。
「それは、それはつまり奥さんの要求を全面的に受け入れるという事ですか?」
「そうとも言えます」
「ちょっと待ってください、グレゴーリイさん」
オズボーン氏はここまで言ってまた俯いてしまった。また舌で唇を湿らせている、どうやらオズボーン氏は予想外の状況に直面した時、舌で唇を舐める癖があるようだ。
「これは私の立場上、あまり言うべきではないんですけどね、奥様の要求を全面的に受け入れるというのは…」
「いや、解ってるんですよ。ここも人の手に渡ることになるでしょうね」
グレゴーリイは穏やかな気持ちだった。参ってしまったのはオズボーン氏の方だ。
「解りました。奥様にはそうお伝えします」
結局、出番のなかった封筒を手にオズボーン氏が立ち上がる。
「申し訳ないがお見送りは出来ません。最近めっきり足が悪くなりまして」
「あ、いや、結構」
最後に一度オズボーン氏は振り返った。
「本当に良いんですね?」
「結構」
リビングから召使に案内され見事な庭園に出る。午後三時。太陽と人々が一番近い距離で向かい合う時間。一面に張られた芝は青々と日の光に輝いている。遠く聞こえる音は園丁がホースで水を撒く音だろう。自動車で花の回廊を渡って行く。赤い、扇情的なサルビアの花。天人花が匂っている。秋になって実がついたら召使達がその実をジャムにするのだろう。暗紫色の果実がはち切れんばかりに熟れる……砂糖と果肉の重たい香りの中でたくさんの人々が忙しく立ち働く。当の本人はブランデーでも舐めながらその光景を見てれば良いのだ。そんな生活を何故あんなにも簡単に、無抵抗で捨てるつもりになるのだろう? オズボーン氏は頭を傾げずにいられない。
一方、自動車で去ってゆくオズボーン氏を見送るグレゴーリイは妻の事を考えていた。先程、笑顔を作る自分の頬が痙攣し、ピクリと動いたのを思い出し沈鬱な気持ちになっていたのだ。理性では妻と彼女の若い恋人を祝福しようとした。何しろ私は老人だし、老い先短い。こういった具合に自分を納得させる努力はしたのだ。が、やはり、感情はそれを許さなかった。不可視の悪魔は音も無く現れ、彼の頬、笑窪の辺りの赤い筋繊維を軽く抓る。そうされたらグレゴーリイは実感せざるおえないのだ。私の心では嫉妬と怒りが逆巻いているのだと。無償の愛などあり得ない。私にも受け取る権利があったはずだ! グレゴーリイは確かに細君を深く愛していた。では何故彼らの結婚生活は破綻したのか? 簡単な事だ。細君の方がグレゴーリイの事を愛していなかったのだ。彼の妻は若い男に肩を抱かれながら彼の元を去った。日盛りの道で晴れやかに笑いながら。道理ではあっても些か堪える現実。
日が暮れて今夜もグレゴーリイは人形と向かい合う。人形をその手に抱いてグレゴーリイはかつて自分の妻だった女の事を考える。黒い髪をした美しい女だった。ちょうどこの人形のように。青く静脈の沈んだ白い肌、瞳は夜の海の様に暗い色をしている。唇はよく熟れた葡萄のように赤い。私は妻の姿をこの人形に重ねているのだろうか? そんな思いが氷の棘のように彼の心を苛む。この人形だって妻と同じ、私のもとを一度離れれば他人の愛情を受けるがまま……そんな事、あってたまるか! 怒りに燃えたグレゴーリイは人形を突き放す。おまえは所詮、人形だ。私の囁きに応えることも私の愛情に報いようとすることもない人形だ。お前は乞食も帝も同じようにガラスの瞳で見つめるのだろう。振り返れば私は常にお前の愛情を求めていた。幼き日にはまだ見ぬ母の面影を重ね今日は去った妻の愛情、かつて私に注がれていた愛情をお前に求めている。けれども、それは気狂い男の妄執以上の物ではなかったのだ。なんと愚かなことか!
しかし、あの女が私の愛情を受け入れることは決してない。私が手を伸ばせばきっとあの女はそれを払いのけるだろう。私が震える唇で誠実な、この上なく誠実な愛の言葉を紡いだらあの女は嫌悪に顔を顰めるに違いない。私はお前で我慢するしかない。
そう、お前は、お前は私が何をしようと何を言おうと文句一つ言いはしない。愛情のまま唇を寄せても、仮に力任せに地面に叩き付け、壊してしまってもお前は何一つ言いはするまい。私を受け入れてくれるのはお前だけだ。もはや愛してくれとは言わない。ただそこにいて何も言わずにいてくれるだけで私には何の不足もありはしないのだから。私はお前をお前として愛するためにもお前の中からあの女の影を消し去らなければならぬ。
月がすっかり消えてしまった後。人形の寝床から抜け出してグレゴーリイは電話を掛けた。黒い電話。ところどころ真鍮の装飾の入った黒い電話。なにしろこの電話、覗き込むグレゴーリイの顔が映ってしまうくらいに黒いのだ。深夜のリビングにダイヤルの乾いた音が響く、規則正しい足音のように。陰翳の満ちる部屋。豪奢なペルシャ絨毯の上には影のグラデーション。電話の上には男の顔が歪んで映る。錫の皿を連打するようなコール音。やがて女が姿を現した。体も影も奪われた声だけの姿でかつてミセス・マンソンだった女はグレゴーリイの前に姿を現す。
「ああ、あなたなの」
「オズボーン氏には会ったかな」
「ええ、あなたがそんなに素直だったなんて知らなかったわ」
「そうだろうとも。私はいつだってお前を愛していたのだ」
愛していたのだ。その通り。愛しているのではない、愛していたのだ。グレゴーリイはほくそ笑む。お前を愛していたのは過去の話だ。
「最後に一度、私と会ってくれないか」
「会ってどうなさろうというのかしら」
「私は」
グレゴーリイは一度言葉を切った。
「私は一切合切お前の要求を呑んだのだ。お前に良心という奴があるのなら私の願いを一つ聞く位何のことはないだろう」
少しばかりの間が開いた後に夫人の声が受話器から流れる。
「良いでしょう。あなたは何をなさりたいの?」
「おまえと庭が見たい。出会ったばかりの日みたいにな。この庭をのんびりと眺めるのもおまえと語らうのもきっとそれで最後だろう」
「明日のお昼、二時に伺うわ」
「解った」
グレゴーリイは受話器を置く。老人の顔に邪悪な笑みがいくつもの皺を刻んでいた。鼻歌交じり、軽い足取りでグレゴーリイは彼女の元に向かう。
秘密の部屋でグレゴーリイは人形を手に抱き、彼女の唇、毒蛇の瞳にそっくりの色をした紅い唇に口付けした。
終わったらどこか遠い国へ行こう。誰にも邪魔されないような遠い遠い国……
グレゴーリイは誰にも聞こえぬような小さな声で呟いて口角を歪め笑った。老いたる男の哄笑が窓の外をみっしりと埋める夜の中に響き渡る。
朝、人気のない屋敷の庭で青々とした芝生は夜露にしっとりと濡れている。グレゴーリイが使用人に暇をやったのだ。ときに霧のある朝だった。この分だと外で庭を見ることはかなうまい。雨が来るだろう、グレゴーリイは考えた。雲の色は微かに暗黒色を帯びてたっぷり水分を含んで重たそうだ。グレゴーリイは思い立ち、庭に降りると薔薇の茂みに足を向けた。手には小振りな、金の装飾を施されたハサミが細かな水滴に鋼の肌を濡らしてミルク色に輝いている。グレゴーリイは花の面を軽く掴んだ。朝露にしっとりと濡れた紅い花、乾いた老人の手。あらゆる色彩を朧にする朝霧の中でちょきんと侘びしい音がする。切り口も瑞々しく一輪の花が枝から落ちた。火色の花びらがふっくらと重なる薔薇の花があまりに鮮やかでふと目眩を覚えた。たちまちグレゴーリイは枝から落ちる花を受け損ね、落としてしまう。すると、どうだろうか。静寂に眠る緑の芝生を紅の薔薇が飾る。空をたゆう細かな水滴にぼかされ、滲み、乱反射したスペクトルのクラクラする様などぎつさ!
憑かれるようにしてグレゴーリイはハサミを動かす。ミルク色の閃きとともに花が一輪、一輪、また一輪と落ちてゆく。私はどうして狂ってしまったのだろう? 滴る血液の様な紅い花が次々落ちる。音もなく落ちる。緑に燃える芝生は声も立てずに棘のある、紅い花をその懐に抱き留めてゆく。
芝生の上に横たえらえた無数の紅い花の中からグレゴーリイはたった一本だけ持ち帰った。今夜、恐ろしい出来事の証人とするために。事を終えたら仄暗い秘密を吸ってより鮮やかに彩う花を彼女に贈ろう、マダム・マンソンになった彼女に。リビングで薔薇の花を一輪生ける。ほっそりとした銀の花瓶。些か不似合いな薔薇の頭をすげられて花瓶は乏しい日差しを不満げに跳ね返した。
グレゴーリイはまんじりともせず元夫人の訪れを待っている。次第に雨が降り始める。雨音が世界を満たす。
花瓶の肌の上を鈍色に輝く陽光が消え入り始めた頃、マダム・マンソンは現れた。玄関ポーチで出迎えるグレゴーリイの顔を稲光が照らし出す。
「元気そうだな」
夫人は答えなかった。リビングに腰を下ろし向かい合う夫人の姿をグレゴーリイはじっと見つめた。グレゴーリイよりも遙かに若く、美しい妻だった。象牙を思わせる白く滑らかな肌、髪は闇を流れる大河のように質量と秘密に満ちている。憂いを感じさせる伏せられた睫、霞色のアイシャドーはどこか謎めいた雰囲気を彼女に与えた。
グレゴーリイがお茶の用意をする。その様子を見て夫人は笑った。
「おかしいだろう」
「ええ、とてもね」
湯気に絡まる様な忍び笑い。やがて向かい合う二人の前にはカップが一つずつ置かれた。二人は黙りこくって茶を飲んでいる。
「これをいただいたらお暇するわ」
「そうかね」
夫人が不意にカップを置いた。
「ねえ、お金が大事で仕方のないあなたがみすみす私の要求を呑むなんてどういう心境の変化?」
「知りたいかね」
「ええ」
「私にも恋人が出来た」
「そう」
「そうとも」
「それがどう関係あるの?」
「さあな」
「変な人ね」
まあ、いいわと夫人。しかし、グレゴーリイは茶で口を湿らせると再び口を開いた。
「どこか遠い国に行こうと思う。この屋敷を引き払ったらな」
「いいじゃない、素敵ね」
「一緒に来るかね」
「遠慮するわ」
夫人のカップが空になった。
「それじゃ、私帰るわ」
「ああ、車は来てるのか?」
「外で待ってるはずよ」
夫人が背を向けながら言うとグレゴーリイはかねてからズボンに隠してあったピストルを抜き出し、夫人の頭に狙いをつけた。引き金を絞ると銃口から火花が飛び出す。鉛の弾が骨を砕く音がして夫人は前のめりに勢いよく倒れた。グレゴーリイは夫人の後頭部からすっかり命が流れ出てしまうのを確認すると外に向かった。雨が降ってたのは幸いだったな。グレゴーリイは考えた。この屋敷はかなりどっしり作ってあるしその上外は雨、運転手は今頃何も知らずにラジオでも聞きながら夫人を待ってるのだろう。重たい扉を開けて玄関ポーチに出ると運転手はラジオを慌てて消し怪訝な顔をした。グレゴーリイは拳銃を後ろ手に隠して車に歩み寄る。
「奥様は?」
「今日は帰らないそうだ」
グレゴーリイの撃った弾はガラスをすり抜ける様にして運転手の胸に殺到した。つごう四発。一発は狙いから外れて夫人の乗るはずだったシートに小さな穴を開けている。車の上を雨が降る。赤い絵の具をもらったフロントガラスもそう立たぬうちに雨が洗うのだろう。グレゴーリイは去り際に足を止め、車から流れ出すメロディを肩越しに聴いた。土砂降りの雨に打たれるまま。
えー、今日もラストナンバーのお時間となりました。それではお楽しみください。マッド・アバウト・ザ・ボーイ。
ジャズの音色が雨の中をゆっくりと流れて行った。
グレゴーリイは濡れた体で彼女と抱き合った。すっかり体は冷えている。骨の芯まで染みこんだ冷気が彼にはうれしかった。自分もまた彼女と同じ一個の人形になった気がした。陶器の肌を持ち、血も涙も流さない一個の人形に。背筋を走る悪寒にかちかちと歯を鳴らしながらグレゴーリイは人形を愛撫する。不器用に口づけする。頭が熱を持っていた。雨に当たったグレゴーリイは肺炎になりかけていたのだ。それでも彼は人形の傍を離れない。
これでお前だけになった。お前が私の全てだ。
思い出したようにグレゴーリイはポケットに手をやった。再び抜き出された手には一輪の薔薇が握られている。朝、枝から切り離され、殺人を目撃した一輪だ。きつく握りしめたばかりに棘が手のひらを傷つけ茎までも血に染まり赤い。それをグレゴーリイは人形に差し出した。
どうだ、素敵だろう?
グレゴーリイは喉を鳴らしてクツクツと笑った。