アンビリーヴアブル・アビリテイ 第一話
作品タイトル:アンビリーヴアブル・アビリテイ 第一話
作者:戦国熱気バサラ
※読み方によっては一部文字化けをする部分があります。ご了承ください。
挿絵有 絵を見たい方は横書き表示でご覧ください。
この世には――いや、この表現は適切ではないか。元ひ、宇宙には、地球に住まふ人間の頭では、到底理解しきれぬ程の神秘が溢れてゐる。
試しに幾つか挙げてみむ。約一三七億年の昔、宇宙が始まる前、そこに何があつたのかは、誰がどう足掻いても分からない。銀河の質量を計算した時等は、観測不可能な物質やエネルギーを規定しなければ、辻褄が合はなくなるといふ。いきなりスケールを下げるのも忍びないが、物質は分子から、分子は原子から、原子は素粒子から構成せらる。では、素粒子は何から出来てゐるのだらうか。それも、現時点ではきちんと解明されてゐない。
身近な所で言へば、重力なんぞが、そのいゝ例だらう。確かにそこに存在してゐる筈なのに、その実態であると考へられる、重力子を観測することは適はない。見方を変へれば、或いは知覚することも可能なのかも分からぬが、多くの者は、その方法を知らぬまゝだ。
話題の対象を、より諸賢らに近づけよう。そも〳〵、今もかうして我々人間が抱いてゐる感情は、意識は、如何なるプロセスによつて生ずるのか。ニウロン同士の電気信号の複雑なやり取りの結果? ではその信号は、何を契機として発生するのか。いや、それ以前に、本当にそこから意識が生まれてゐるかどうかすら、真に明らかにする術はないのだ。
これらの事象に関して、私は、包括的な説明が可能となる理論を持つてはゐる。しかし、それはあくまで仮説に過ぎない。もしかして正しかつたとしても、公衆の面前で宣言したのなら、確実に脳の機能を疑はるゝ、そんな荒唐無稽且つ毒電波的内容なのだ。よつて、こゝでの発表は控へさせて貰ふ。
たゞ、これは言はせて呉れ。世界は、諸賢らが思ふ以上にフアンタジイである可能性を、十二分に秘めてゐる。普段何気なう看過してゐる、莫迦々々(バカバカ)しいと笑ひ飛ばしてゐるその事象の背後に、実は大いなる眞理へ至る為の扉が密かに開かれてゐたとして、何の不思議があらうか。生憎と、私は部屋に篭りがちなので、未だにそれに遭遇したことはないのだが。
代はりにこゝでは、ある場所で起きた出来事を語らせて欲しい。
そこは、諸条件がきちりと整備されたこの世界の、対となる世界。ラヂカルかつダイナミツクな物理法則が支配し、些か異なつた歴史を辿る、ある人にとつては夢のやうな、またある人にとつては地獄のやうな世界。そして、私の最愛の人が暮らす世界だ。
皇紀二六六九年 葉月十五日(土)一四時五二分
日本天皇御國 心皇都 松代区 都立運動公園・野球場
マウンドの天辺、投手板を踏みしめ、歯を食ひ縛る一人の少年の姿があつた。
彼の名は津和吹蓋気。こゝからさう遠くない場所に立地する私立鋭明学院、その小学部第五学年に所属する児童である。斜に帽子を被り、その下には跳ね返つた茶髪。太く形のよい眉に、純真な黒い瞳。こんがり日焼けした肌をこの場に即した白のユニホームで包み、グラウンドに立つ様は、健全なる球児以外の何者でもない。
現在この国は四つの大国と戦争状態にあるも、そんなことは何処吹く風。この日、地球上で最も安全な都市・心皇都では、全国小学校軟式野球競技大会の決勝戦が開催されてゐた。
球審の合図を認むると、蓋気は、今一度手にした白球を握り直す。右に填めたグラブの中にその手を収め、頸をぐる〳〵と回し、余計な力を抜く。肩越しに捕手の掌を見定め、右足を上げ、徐に体を沈め――全身を大きく使ひボールを撃ち出す。
指先を離ると、途端に球は見えなくなり、半秒の後、乾いた音と共に、ミツトの中心にその顔を覗かせた。
「ストラック、バッターアウト!」
審判の宣言が響き渡り、それを、チーム鋭明勢の歓声が塗り潰す。
『只今の試合結果を発表します。鋭明一対若葉台〇。全国小学校軟式野球競技大会、第四九回の優勝校は、私立鋭明学院小学部に決定しました』
アナウンスの下駆け寄つてくる仲間たちの影をぼんやりと眺めながら、彼は、その内から湧き上がる感情の渦に溺る。
津和吹蓋気は、この試合において、完封を果たした。小学生とはいへ、全国大会の決勝戦でだ。更に言ふと、彼は、この大会で登板した全ての試合で、一度たりとも打ち取られてゐないのである。
「よくやったぞ、ガイキ!」
勢ひよく双肩を掴まれたことで、少年ははつと我に返つた。
蓋気を揺すつてゐるのは、先達て捕手を務めてゐた鋭明小野球部の主将、山ヶ岳剣だ。有り余る若い力の殆どを野球とトレーニングに傾けてゐる彼の体躯は、小学生にはとても見えないまでに屈強に生育し、ともすれば高校生かとも見紛ふ程である。
「ありがとうございます、キャプテン」
「なんだよお前、少し暗いな。折角日本一になったんだ、もっと喜べって!」
山ヶ岳は、勝利の立役者たる超投手の体を、先程よりも益して激しく揺さぶり始めた。炎天下で投げ続けたが故の疲労と複雑な想ひとに見舞はれた蓋気には、その刺激はかなり堪へるものであり、彼は、慌てゝ肩に掛けられたる手を振り払ふ。
「少し、疲れただけですよ。それよりも、ほら、早く挨拶に行かないと、相手に失礼でしょう?」
『相手に失礼』その言葉は、発した張本人の心にも、重く鈍く響いた。しかし、然様な内面的事情など、熱に浮かされた子供達には、伝はるべうもない。
「それもそうか。じゃあほら、行くぞ」
さうして主将に率ゐられた人員達は、先方の球団と向かひ合つて整列する。審判のゲームの宣言を受け、双方の長が音頭をとり、二条の列がほゞ同時に礼をした。
その後、ゆくりと面を上げる蓋気――と、そこで彼は、真正面に立つ坊主頭の少年が、己をまじ〳〵見てゐることに気が付く。
「何か、用ですか?」
「うん。君と、少し話がしてみたかったんだ。自分もずっと野球をしてきたけど、消える魔球なんて、生れてこの方初めてだったから」
さう告ぐる男子のそばかすだらけの顔に、蓋気は見覚えがあつた。
彼の前で打席に立つた人間は、悉く空振りをするのだが、その空振りにも質といふものがある。だらしなく途中で失速する者や、奇声を発する者。酷い時には、勢ひを殺し切れずに回転しかける者までゐた始末。そんな中、目前の少年の空振りは、前例達とは一線を画すものであつた。
確かにバツトは、虚しく空を切る。しかし、その動作はいたく完成されてゐて、蓋気の眼球には、見えない筈のボールをしかと捕らへてゐるかのやうに映つたのだ。実際の所、全くそんなことはなく、球は粛々(しゆくしゆく)たる様で山ヶ岳部長のミツトの中に鎮座してゐたのだが。
「そりゃまあ、そうそう使い手がいないからこそ、俺なんかでもここまで来られた訳だ。それで喜んぢまっていいものか……」
「そんな、謙遜だって。消えるだけならまだしも、球速も確実に一三〇キロは出ていたし、確かな重さも感じた。凄い選手だよ、君は」
「たまたま運が良かっただけだ。俺からすれば、そっちの、あのとんでもなく綺麗なフォームのが、余程凄い」
「そう言って貰えるのは、光栄だよ。尤も、当たらなければ、意味はないんだけどね。僕は、五年の十文字五郎太。良かったら、君の名前を聞かせてくれるかな?」
「同じく五年、津和吹蓋気だ。今日は試合、ありがとうな」
蓋気は、さう言つて左手を突きだす。五郎太は右手を出しかけたが、途中で間違ひに気付き、両手で握手をする。
「こちらこそ。この経験を活かして、必ずもっと強くなって見せるよ、ガイキ君」
「ああ。十文字君なら、きっと上手くやれるさ」
「おーい、五郎太! そんな所で怠けてないで、グラウンドの整備を手伝いやがれー!」
そんなことをしてゐると、若葉台の部長が、五郎太を呼ぶ。彼は、しまつたといふ表情を作り、すぐさま大声で返事せり。
「すいません、今行きます! ……じゃあまた、機会があったら!」
駆けてゆく五郎太。その背中を見遣る蓋気の顔には、何とも名状し難き翳が差し込んでゐた。
表彰式が終はり、十文字との携帯端末のアドレス交換なども済ませた蓋気は、その後ホームグラウンドで開かれた祝勝会を、具合が悪いと理由をつけて早抜けせり。そして今は、茜色に染まる千曲川沿ひの道を、一人とぼ〳〵と歩いてゐる。
「やっぱり、可哀想だよな……」
彼の脳裡を飛び交ふのは、今までに負かしてきた、強敵であるはずだつた者達の顔である。昨年の都大会の優勝校に、全国大会の常連校。まともにやり合つたのなら、まづ苦戦を余儀なくせらるゝだらう、まことの強豪揃ひだつた。
鋭明学院小学部の野球チームは、全体的に見て、そこまで高い実力を持つているとは言ひ難い。では、如何にして列島第一位を勝ち取り得たのか。それは、津和吹蓋気の放つ『消える魔球』の功績による所が非常に大きい。
彼の投げたボールは、念ずるがまゝ、光学的に見えなくなるのだ。原理や理屈といつたものは、全く理解できてゐない。たゞ感覚のみで、その制禦は行はるのだが。
元々蓋気は、ごく普通の、真直ぐな野球バカ少年であつた。毎日の練習は欠かさず、その度に、とことんまで突き詰める。特に、部長である山ヶ岳とは、それこそ張り合ふやうにして、切磋琢磨を重ねてきた。その程度たるや、一般部員達が呆れ返るまでだつたのだ。そんな彼が『力』を手にしたのは、至極最近。即ち、先月文月の下旬也。その時期は丁度、第四次世界大戦の開戦と符合する。
二五日未明、米国・英国・ソ連・支那の四国が突如合従を発表し、更には、日本天皇御國に対して、大々的な宣戦布告まで行つた。国家元首天皇陛下は話し合ひによる解決をお求めになつたが、向かふは聞く耳を持たず、代はりに百余発の核ミサイルを発射。全て無効化に成功したりけるも、敵の攻撃はそれのみにあらず、何と連中は、上空バリア域外から莫迦でかい生物兵器を投下するといふ無茶までしでかす。その事態に皇國陸軍は、予てより用意してあつた隠し玉・巨大ロボツトを投入し、辛くもそれらの殲滅に成功した。
とまあ、あまり必要ないデヽイルはこゝまでにして。切欠は、その巨大ロボの出現だつた。体長百mの化け物を相手に、乱舞する男の浪漫。髭面に笠を被つた、太陽光発電パネル塗れの〈アシガル〉はどうでも良かつたが、真白い着物を纏ひ絶対零度の氷を自在に操る〈レイゼイ〉や、怪物以上の巨体を持ち、宝石の如くに輝く〈デユリアゲーゼ〉といつた特機の雄姿は、蓋気の魂に大いに火を着けたのである。
夏季休業に入つた直後であつたことも相まつて、少年の昂奮は、並〻ならぬものとなつてゐた。そんな状態では、当然、寝を寝らることもなし。
その晩彼は、夜通し河原で投球練習を続け、緊急措置として学校での練習が中止になつた翌日も、丸一日さうやつて過ごす。だが、そんなことをすれば、幾ら健康な若人でも、倒れ伏すのが道理といふもの。
冷たく硬い地面の上で軽く半日は眠り続けた後、朝焼けに照らし出され、蓋気は目を醒ました。彼の感情は未だに昂つたまゝであり、脇に転げてゐた白球を掴み取ると、よろめきつゝ立ち上がり、約二〇m先の的を見据う。
その時の彼には、何だつて出来るやうな感覚があつた――さう、仮に実現したならば先づ打たれない、消える魔球を投ぐることすら。
寝起きの神経に電流とノルアドレナリンとを溢れさせ、蓋気は渾身の一球を放つ。そしてそれは、全くの思ひ通りに、目に映らなくなつたのである。しつかりとした覚醒を得てゐなかつた彼は、それを甘んじて良しとし、そのまゝ家へと帰り着く。
部の練習が再開された時点では、半信半疑だつた。疲れが見せた、夢幻の類だつたのではないか。時を経て健常な悟性を取り戻した彼は、そんな考へを抱いたのだ。しかし、実際に投げてみて、その疑念は払拭さる。
そこから、快進撃は始まつた。たゞでさへ球威球速コントロールに優れた蓋気の投球にステルス属性が付いたのだから、最早そこに敵はゐなかつたのである。
普通なら、喜ぶべき所なのだらう。実際、彼の中にも、嬉しいといふ感情はあつた。しかし、それを遥かに上回る罪悪感も、また同時に味はつてゐたのだ。
「あいつらだって、歯を食いしばって、必死に練習してきたんだよな……。でも俺は、絶対に打てないボールなんかを使って、その努力をふいにしちまった……。本当にこれでよかったのか……?」
津和吹蓋気は、練習の辛さといふものをよく〳〵理解してゐる。そんな彼だからこそ、目の前で為す術なく潰されてゆく、名も知らぬ努力家達を見て、心を痛めてしまふのだ。
一応、退つ引きならぬ事情といふものも、あるにはあつた。山ヶ岳部長はあの様な人物であるから、全国優勝に注ぐ情熱には並〻ではないものがあり、そこで、彼が折角ある力を使はないのは、裏切りに繋がるのではないかといふ危惧があつたのである。
どちらを選べど、畢竟、後悔が待つてゐた。
「どうせなら身内を立てよう」さう考へて、出した答へを割り切らむとしてゐたのだが、最後の最後に出会つた十文字といふ少年の純粋無垢な態度を思ひ出すにつけ、どうしても、自分を責めずにはゐられないのだ。
悶々(もんもん)としながら歩き続けた蓋気は、何時の間にやら、自宅のあるアパートのすぐ近くまで来てゐた。
津和吹家に住まふのは、現在、蓋気とその姉麻琉の二人きりである。母は三年前に蜘蛛膜下出血を起こして他界。父は存命だが、今は遠洋漁業に出てゐる為不在なのだ。
「ただいま……」
玄関の扉を開けると、麻琉の靴があつた。しかし、照明などは一切点けてをらず、その他の生活音も全くない。恰も、家の中には誰もゐないかのやうに。
「またか、姉ちゃん……」
蓋気は、脱いだ履物をきれいに揃へると、迷はず居間へと向かふ。
そして辿り着いた先のドアを潜れば、窓を閉め切りカーテンを引いた室内に篭つた、どんよりと重たき空気が彼を出迎へる。
「早かったのね……」
闇の中からぶつけられた女の声は、軽くしはがれ、虚ろ、といふ表現がぴつたりだつた。
慣れた手つきでダイオード灯の電源を入れると、その音の発生地点に、膝を抱へて座る、青白い顔をした少女の容が照らし出さる。
彼女こそは津和吹麻琉。蓋気の姉で、私立鋭明学院高等部第一学年普通科乙組の生徒だ。服装は、皺の寄つた、囚人服が如き縞柄の寝間着。顔面は強張り、フレームのない楕円形の眼鏡の奥の黒い瞳には、ハイライトがない。以前は、水色の髪を海老天のやうな反り返る三つ編みにしてゐたのだが、ある日を境にぱたりとそれを止め、今はボサ〳〵と振り乱すがまゝだ。
「まあな。一応、日本一になったんだぜ、俺。祝勝会もあったけど、気分が悪くて抜けてきた」
「このご時世に、なんともまあ呑気なこと……」
麻琉は、表情を変へず、片方の口角だけを釣り上げて笑ふ。
「そうかもしれない。でも、来るかも分からない人類滅亡の日なんて信じて、毎日毎日家の中でうじうじしてる姉ちゃんよりかは、何百倍もマシだと思う」
「ふふ、言ってなさい……。ガイキが信じようが信じまいが、二六七二年の師走に、世界は終わるの……。何をしたって、全く以て無意味なのよ……。ふふ、ふふふふふ」
ふふ〳〵ふふ〳〵。焦点の定まらない視線で虚空を仰ぎ見ながら、彼女は、壊れたやうに同じ音を繰り返す。
蓋気は、姉が何時からかうなつたのか、詳しい所をよく知らない。それもその筈、彼女の変貌の切つ掛けもまた、第四次世界大戦の開幕戦に由来するからだ。
津和吹麻琉は、よく夢を見る。
夢は時に明るく、時に楽しく、時には苦しく、またある時は悲しく、さる時は痛ましい。内容こそ千差万別なるが、実はそれらには、確固たる共通点がある。
一つは、途轍もない現実感を伴ふこと。感触や臭ひ、熱こそ感ぜぬものゝ、夢で得らるゝビジオンは、超高画素のビデオカメラで撮影した映像を映画館のスクリーンに投影したかのやうに鮮明なのだ。
そしてもう一点。夢は、屡〻(しばしば)現実の出来事となる。俗に言はれる、予知夢なる代物だ。的中確率は正味三割程度。名だゝる預言者達にも、決して引けをとらない数値である。
しかし麻琉は、自らの見る夢が然様なものだといふことを、どうにかして否定せむとしてゐた。オカルト――超自然的な現象の数〻に対して、強い恐怖を抱いてゐたからだ。
さうして見て見ぬ振りを貫いてきたのだが、今回ばかりは、如何ともし難い現実を、肯定し受け入れざるを得なかつた。何せ、テレビを点けると、前日の夢に出てきた機械巨人が、モニターの向かうで大立ち回りを繰り広げてゐたのだ。
そこで、麻琉は吹つ切れる。と同時に、彼女は、幼い頃に見た凄まじき夢を思ひ出す。
大地が裂け、その隙間から紅蓮の炎が立ち上がる。黒雲に覆はれた空が、その光を不気味に照り返し、大気は赤く濁つてゐた。耳を劈く雷が絶え間なく鳴り響き、到る所で烈風が吹き荒ぶ。やがて天を突き破り大きな隕石が飛来し、一切合財を吹き飛ばしてしまふ。そんな、地獄絵図のやうな光景が、脳裏に蘇つたのである。
戦慄。そして、「私の見た夢が現実になるのなら、もしかするとあの時見た夢も、本当にその通りのことが起きる前触れなのかもしれない」といふ考へが、彼女の心を虜にした。
ゐても立つてもゐられず、麻琉はコンピウタに噛り付き、ウヱブを用ゐて終末予言に関する情報を調べ上げる。すると、出るわ出るわ。古代マヤ文明の遺せし暦が示す時間の終焉、物質世界の崩壊、五次元世界への移行。それらは挙つて、二六七二年師走二二日をXデーと定めてゐたのだ。
それまでの彼女なら「冗談にしても、もう少し上手くやりなさい」と一笑に付してゐたことだらう。だが、一線を超えた今、さうしやうとする思考は、既に何処かに消え去つてしまつた。後は、与へられた情報を、ありのまゝに受け取るばかりである。
果てしない規模で語られる人類最後の日の予言内容を前にして、無力な少女に出来ることといへば、たゞ〳〵絶望すること位だつた。
かくして、麻琉は廃人同然にまでなつたのだ。
「俺、もう寝るから。姉ちゃんは、ちゃんと晩飯食っとけよ」
言ひ残すと、そんな事情を知る由もない彼は、寝室へと足を向ける。昼間大量の汗をかいたので、肌に多少の不快感があつた。だが、それよりは、一刻も早くこの難儀な現実から逃げ出したい気持ちのが、随分と強かつたのだ。
床の上に倒れ込み、少年は溜息を吐く。さながら目を閉じれば、まるで電源を落としたかのやうに、彼の意識はそこで途切れてしまつた。
葉月一六日(日) 一一時〇五分
東京都府 新多摩市 府立多摩西高等学校 図書準備室
「すみません、遅れました!」
十文字三郎太は、所属する眞理学部の扉を開くると共に、そんな詫びの台詞を吐く。
「あぁ、十三来たんだぁ。今日は、もぉすっかり休みだとばっかり思ってたわよぉ」
矢鱈に耳につく甘つたるい声で彼を出迎へたのは、同じ一年生部員の故里邦絵である。シヨートカツトの髪と、目の色は、鮮やかなルビーレツド。両袖をもぎ取つた改造制服を着て、頭には焦げ茶色のベレー帽。普段は主に描画などの創作活動に精を出す彼女だが、本日はもう一仕事終えたのか、部室の中央に置かれた長机の上に顔を乗つけてゐる。
「やる気を出した弟の野球の練習に付き合っていたら、存外遅くなってしまったもので」
「なら、わざわざ来ることもなかったんじゃね~の? そんなに厳格に出席を求むる部活動でもね~んだし。つ~か、早く扉閉めやがれ。冷気が逃げて勿体ないだろ~が」
さう言ふのは、眞理学部の顧問なる古典教師、大徳寺=バルザツク=スフイアだ。彼女は、独系日本人と邦人のハーフである。毛先がカールした銀髪に、きりゝとした灰色の眼。着用したクリーム色のスーツの丈は、嘗てのものよりも、若干長い。
「おっと、これは失礼致しました」
十三は、慌てて部屋の中に入り、扉を閉める。本といふものは存外に繊細なもの故、それを取り扱ふこの部屋には、中〻良い空調設備が整つてゐるのだ。
「しかし……」
室内を見回した三郎太は、少々の戸惑ひを混ぜて呟く。
「今日は、見事に女性陣だけなのですね」
現在この場所には、十三を含めて七人の人間が集つてゐるのだが、その中で男は、彼たゞ一人だけなのである。
「男子の皆さんは、ある場所で、智英さんのお仕事を手伝って下さっていますの」
三郎太の分の茉莉花茶を注ぎ終へた倉越麗未唯部長補が、湯呑みを差し出しながら説明を行ふ。ラベンダーの癖つ毛に、軽く開かれた瞼の裏の血の色の瞳。頭髪や虹彩の色が特殊な者が多く見られる日本天皇御國でも、非常に稀有な容姿を持つ女性だ。
「道理で。恵先輩殿がお一人でいるのは、おかしいと思っていたんです」
「確かに、私は、いっつもトム君と一緒だものね。今回は、どうしても読みたい本があったのと、ロボットにはあんまり興味がなかったのとで、お留守番にさせて貰っているの」
答へるのは、身の丈一四〇㎝程度の、黒髪セミロングの小柄な女性。念動力で空中に本やタブレツト型のコンピウタを浮ばせて話す真部恵は、眞理学部に所属してはゐるものの、厳密にはこの学校の生徒ではない。元〻は二年生であつたのだが、中退した形なのだ。現在彼女は、軍のとある部隊に所属してゐるので、少なくとも無職ではないことを、一応ここに示しておく。先程述べられた『トム君』とは、彼女の良人のことである。
「ロボットですか。それなら、何れにせよ、自分の出る幕はありませんでしたね」
「十三さんは、文化系の方ですもんね。私も、理科系の話題にはあまり強くないから、お気持ちはよく分かります」
恵の隣で本の頁を繰つてゐた丸眼鏡の少女、数日前に入部したばかりの君島幸が、彼に同調する。彼女は図書部の所属であるが、長期休暇中で図書館の利用者数も少なく、暇を持て余して、賑々(にぎにぎ)しい隣の部屋に級友を恃んで来てゐるのだ。
その友人、故里朋絵はといふと、幸の隣で必死に課題に挑みかかつては、また玉砕することを反復してゐた。何をか隠さむ、彼女は、邦絵の双子の姉である。顔貌はほゞ同じであるも、目つきと髪型から、見分けるのに大した労苦は必要ない。両お下げで、おつとりした雰囲気を醸し出す方が、朋絵だ。
「そんなこと全然ないからぁ! 手伝ってよぉ、ザ・シューサイ☆幸ちゃぁん! あたし、このままだと、絶対休み中に宿題終わらないからぁ……」
「全く、どうしてこう、お姉ちゃんは勉強が出来ないのよぉ。そこなんか、もう、三回は教えた所じゃないの」
姉の課題を覗き込み、妹は嘆息を漏らす。彼女は、とうの昔にそれらを清算してゐる。
「私が教えたのと、授業で触れたのを加えれば、一〇回は下りませんね」
「一卵性だから、DNAは同じ筈なのにな。実に不可解だぜ。ひょっとすると、どっかの塩基が、寝坊でもしてるんじゃね~の?」
「その可能性はありますね。トム君と違って、頭の中でも分かっていないみたいだから、呪いという線も考え辛いし…」
最早、突つ込んでくれるな。詳しくは、別の機会に語らう。
「邦ちゃぁん、エンキは、どうすれば起きてくれるのぉ?」
「知る訳ないでしょ、そんなことぉ! よしんば脳科学者だって、そうそうは分からんわっ! 部長やトム先輩、理生さん辺りだったら、もしかするかもしれないけど……」
「でも、お三方共、今はいらっしゃいませんですわよね」
レミーの一言で、一同の間に沈黙が走る。
「まあ、その話はおいおい、ということにして、今は出来ることをしましょう。自分も、及ばずながら、可能な限りの力添えはしようと思います」
「じゃあお願いするわぁ、十三。あたしはあたしで、何か改善策を練ってみるからぁ。君島さんは、悪いけど、お姉ちゃんの面倒を見ててくれる?」
「は、はい、分かりました! お安い御用です!」
邦絵の指示を受け、幸は、やけに緊張した様子で返事をした。
「先輩方はどうします? 愚姉のことであまり煩わせてしまいたくはないんで、嫌なら嫌とはっきり断ってくれていいんですよ」
「なら、お言葉に甘えさせてくれるかな。ごめんなさい、こんな機会でもないと、中々本も読めないの…」
恵の任務は主に諜報活動であり、継続性が要求されるものだ。またプライベートにおいても、新婚夫婦には、するべき営みがある。
「私は、手をお貸しすることに、吝かではありませんことよ。大事な智英さんの部員がお困りなんですもの、見捨てておいては、伴侶としての面目が立ちませんわ!」
「わざわざすみません、レミー先輩――あ、恵先輩は、全然気にしなくていいんですよ。どうせ、半ば、暇潰しみたいなイベントなんですから」
苦笑ひする故里妹。社交辞令とは雖も、その言葉の中に少なからず自らの存在を貶むるものを感ぜし姉は、彼女に食つて掛かる。
「邦ちゃん、なんか、ここでのあたしの扱い方がひどくなぁい? 家では、あんなに優しいのにぃ……」
「それは言うなぁ!」
邦絵は、あからさまに動揺した様子で声を張り上げた。そこを、見逃さない人もゐる。
「あらまあ! 具体的には、どんな風にお優しいんですの?」
「先輩も、お願いですから掻き乱さないでぇ!」
「あ~、なんつ~んだっけ、そういうの。最近流行りの、ほら、あれだ、咽喉の辺りまでは出かかってるんだ。Z、うんにゃ、Tで始まる――」
「ひょっとして、ツンデレ、ですか?」
「お~、それよそれ」
「お言葉ですが、それの全盛期は、結構前に過ぎ去ったものかと」
「六〇年代の出来事だろ? だったら、最近でい~んだよ。あたしは古典教師だからな」
「成程。先生は常人とは異なる刻の流れの中を生きているのですね」
スフイアと十三のあまりにずれたやり取りに、邦絵は「何言ってんだか……」と突つ込む気力すら失つた。当の顧問は、突然椅子から立ち上がつたかと思へば、肩を回しつつ朋絵に近づいてゆく。
「兎に角、あたしも、教育者の端くれとして、故里姉の更生に協力するぜ。明雄がいなくて、どうにも暇で仕方がね~んだ」
結局は、単なる気紛れの戯れである所は、指摘してはいけない。
「先生、何する気ですかぁ?」
「まあ見てるがい~ぜ、あたしの氣道修正をな!」
さう言ひ放つと、女教師は、問題の生徒の身体に手を翳し、そのまま空中を擦り始めた。邦絵、十三、幸が不審の目で見守る中、程なくして、変化は生じる。
「あれぇ? なんだか、頭がすっきりしてきたよぉ」
「先生って、そんな隠された力があったんですね。驚きました……」
「ま、そ~いうことよ。あんた達を見てると、あたしにも何か出来るんじゃないかって思えて、試しに二日酔いを治さむとしたら、上手くいっちまったのさね。大きな外傷とかじゃない限り、大抵の病気はこれで治療できるみて~だな」
感心する君島に、スフイアは、それが至極自然なことである風に告げた。
「そいえば、そんなんありましたねぇ。いいなぁ、先生。私の色彩変化って案外使い途ないんで、そぉいう実用的な能力って、結構羨ましいです」
それに対応する邦絵も、実にナチユラルな切り返しだ。
彼女の行使する超能力は、光を操作し、色を自在に操るものである。上手く応用すれば、空中に絵や文字を描くといつたことも可能であり、アーチストとしては、割かし重宝してゐた。だが、他の者の力の発現やうからすると、幾分か見劣りするといふのも、また事実なり。
「ぬかせ、この庶民の敵が! あんたら双子みたいな強運と財力があれば、超能力なんてもんはいらね~よ」
邦絵は嘗て徳川家の埋蔵金を……と、説明にも飽きてきた。
「それを言ったらお終いですってぇ。こう、浪漫みたいなものが、分かりませんかぁ?」
「分からん」
「じゃあ、代わりに、あたしの治療もしてくださいよぉ」
「嫌なこった。つ~か、よく考えなくても、話が繋がってね~よな?」
「治療費として二万円出します。半分は、さっきのお姉ちゃんの分ってことでぇ」
「抱き合わせ商法かよ。……仕方ね~な、乗ってやる」
こんな感じで、眞理学部の日常は流れてゆく。
いゝ加減、この部について説明しておかねばなるまい。もう遅いかもしれないが。
『万物の根底に流れる共通の眞理は、それこそ到る所に片鱗を覗かせているのだ。様々な事象の中からその断片を抽出し、組み合わせることで、最終的に体系としての眞理学を完成させる。それこそが、我が眞理学部の理念なり』
学部長、平塚智英は、ことある毎にさう語つてゐる。
そこは、全ての事実がそのまゝ受け容れらるる、正真正銘の異空間だ。だが、だからこそ、かの世界の何たるかが、最もよく分かる場所なのである。
府立多摩西高等学校眞理学部員達の属する状況は、他の地球人類に対してあまりに先進的が過ぎるだらう。それ故に彼らは、後から来る人々を教へ導くやうな、そんな使命を気付かず負つてゐるのかもしれない。
「あぁーん、やっぱり解けなぁい!」
「落ち着いて下さい、朋絵ちゃん! ゆっくり考えれば、きっと分かりますから!」
幸は、投げ出しさうになる朋絵を、必死に諭さむとする。
「そ、そこぉ、もっと左の所をお願いしますぅ……」
「注文が多いぜ。追加料金を徴収してやろ~か?」
邦絵は、スフイアの氣功に身を任せて、最早従来の目的など、てんで頭にない様子。
「あらっ、これなんか、智英さんに良さそうですわね♪」
「トム君、早く帰って来ないかな…」
上級生二人は、周りの状況に流されず、自らの配偶者へと思ひを馳せてゐた。
最早この混沌たる空間を収拾する気も起きない十三は、奥の窓から外を眺め、ぼう、と思索に耽る道を選択する。
そんな彼の中に、丁度蘇る一片の記憶。今朝、五つ下の弟と野球の練習をした時に聞いた、不思議な球を投げる少年の話だ。
(もしや件の人物も、超能力者なのかもしれん。今後の眞理学の発展の為にも、部長殿達が戻ってきたら、報告しておくか)
さう心に決め、雲一つない蒼穹を見上げた三郎太は、その先に広がるだらう星の海の情景を心の中に投影し、深い変性意識状態へと上りつめてゆくのだつた。
同日 正午
心皇都 上田区 津和吹家
津和吹蓋気は、何処からか聞こえてくる、耳障りな音によつて起床を余儀なくされたり。
ぼんやりする頭に鞭打ち、不快なサウンドをばら撒くその正体を探る――と、果たしてそれは、懐の携行コンピュータであつた。
「なんだよ、こんな朝も端から……」
さう呟きつゝ、壁掛け時計で時刻を確認すると、丁度、一二時を回つた辺り。何と彼は、優に一七時間以上も眠り続けてゐたらしい。
のそり、と端末に手を伸ばし、掴み取る。着信画面には、『静代=リチャードソン』の文字が躍つてゐた。この表示だと、どうやら先方は、音声通信を要求してゐるやうだ。
「もしもし。こちら、こども電話相談室です」
『あー、やっと出たネ! 八時から一時間おきにデンワしてたのに、全然出ないから、心配しチャッてたんだゾ! このネボスケ大魔王キングガイキがー!!』
起き抜けにクラスの女子の捲し立てる様な大声を耳にして、蓋気は、あからさまに疲れた顔をする。静代は、彼が野球部以外でよくつるんでゐる、貴重な人物の一人だ。だが如何せん、彼女は時に、いたくうるさい。
「それで、肝心要のご相談のご内容は何でいらっしゃいますか。お友達が、躁鬱病にでもなられました?」
『ソーウツビョー? なんなのサ、ソレ?』
「ご存知、ないのですか? 昨日はやんややんやとドッ弾けていたのに、今日は死ぬほどド落ち込んでいたりする、心の病気ですよ。例えば、私の姉なんか、時々バカみたいに笑い始めたと思いきや、何を話しかけても聞かなくなって……」
『うっそ、マリュー姉チャンが!?』
蓋気は、しまつたと額を歪ます。余計な奴を巻き込んで、話を拗らせたうなかりけり。
「あー、冗談に決まってるだろ。バーカ」
『もー、ビックリさせないでヨ!』
「それより、早く用件を言ってくれ。通信料が勿体ない」
『話をおかしくしたのは、そっちだよネ? まあいいや、一緒に勉強しヨ、ガイキ!』
「リチャードさんが、そんな真面目な用事で電話を寄越すなんて、ひょっとして、俺はまだ、昨日の夢の中なのか」
『失礼ネ、あたしはリチャードソンだヨ! どうせガイキ、練習や試合バッカで、宿題なんて手もつけてないんでショ? だから、力を合わせて、トットト片づけよーってワケ!』
確かに、学力完成ドリルの名前欄にすら、彼は何も書き込んでゐない。その点では、図星である。今日は部活も休みであり、提案自体を見れば、魅力的なものがあるのだが。
「リチャードソンさんって、勉強できたっけ?」
『……テヘ☆』
性能の点で、論外だつた。
「切っていいか?」
『待っテ! ドーしてもコーしても分かんないノ! お願い、教えテ、写させテー!!』
耳元でがなり立てられ、蓋気は、思はずスピーカから距離を取る。それでゐて、なほ声は確と聴細胞まで到達するのだから困りもの。
彼としては、こんな風に哀願する友人を放つておくことに、どこか忍びないものを感じてゐた。而して、ガイキブレーンとて、然程大したものではない故、荷が重いやうな気も拭ひきれぬ。
頭を捻つて考へる蓋気。と、そこに、ある人の顔が思ひ浮かぶ。
「分かった、一緒に宿題を片付けよう」
『マジ!? ラッキー☆』
「場所は、追って伝えるから」
さういつて彼は通信を断ち、他の場所へと回線を繋いだ。
「やあ、よく来たね。取り敢えず、上がって呉れ」
津和吹とリチアドソンを出迎へたのは、彼らと同じ学校同じ教室に通ふIQ一四〇の秀才、右近素士である。着てゐる甚兵衛で多少分かりづらいが、体格は、かなりの痩せ型。黄緑色の髪をそれなりに決め、切れ長の眉に青い瞳、小ぶりな鼻を備へた端整な顔立ちは、いかにも知的な感じを放つてゐる。
「悪い、いきなり押し掛けちまって」
「いや、いいのさ。某もついつい、自分の研究に打ち込んでしまってね、課題には一切触れていなかったんだ。丁度いい機会を授けてくれて、こちらとしても僥倖だよ」
「じゃ、おジャマしまース!」
ついでに、静代に関しての描写も加へておかむ。この国では大して珍しくもない金髪の彼女は、それを肩に乗る位まで伸ばしてゐる。頭の上の方に左右一房ずつ、丸い玉飾りのついた髪紐で縛つた部分が、アピールポイントだ。ひら〳〵したシヤツとスカートを着用した、何の変哲もない、いとも普通の小学生である。いや、三十年来の鎖国下では、外国姓は結構希少だと言へば、さうなのであるが。
二人が通された先の素士の自室では、そこらこゝらに、書籍やその他の研究資料が積み重ねてあつた。そこを興味深げに眺められ、部屋の主は、自嘲気味な笑みを浮かぶ。
「これでも、整頓しようと試みはしたんだ。しかし、体調の兼ね合いなどもあって、途中で断念するより他なかった。すまないね、見苦しい所で」
右近は、中〻どうして、身体が非常に弱い。加へて、本人の言ふには『止め処なく溢れいづる痛みの奔流が、常に全身を苛んでいる』との話だが、あたらしくも、彼の感覚を理解できる大人は、彼の近辺にはゐなかつた。
幾ら釈明しようが、検査結果は異常なしの一点張り。また、どんな痛み止めも効き目がない。そんな有様では誰の信頼も受けられず、果ては悪質な嘘吐き呼ばゝりまでされる始末。
だが、少年は絶望しなかつた。何故なら、幸ひといふべきか否か、同年代の少年少女達の中には、同じ症状を訴へる者が、意外に多く存在することを知つてゐたからである。彼は、可能な限りさういつた人〻と接触し、互に意見を交はし合つた。そして、幾つかの有力な情報を手に入れる。
それは、一部で〈暗黒病〉と呼ばれる奇病の類であること。生後三カ月を過ぎた辺りに、発症の兆候が出始めること。罹患者は、多種多様な苦痛を味はふやうだといふこと。然様な症例は、嘗ては報告されず、ここ一五年位に急に現れてきたものであるといふこと。それ自体の信憑性の薄さから、研究する者は少なく、よつて、現段階では明確な治療法も存在しないといふこと。等〻。知れば知る程、素士は、恰も袋小路に惑つて行くかのやうに錯覚した。
しかし、その中にも光明はありけり。それは、朝、乃至昼の太陽光を浴びるか、また本を読んだりして学びを得るか、或いは誰かに対して強い愛情を抱いた場合に症状は一時的に緩和されるといふことである。
彼は、その中でも学びを選択し、症状を和らげつゝも暗黒病の真相を究明せむとしてゐるのだ。
「代わりに、俺達が整理しようか? 宿題はお前に頼りっ放しになるだろうから、その詫びにでもさ」
「その気遣いは嬉しい。けど、遠慮しておくよ。下手に動かされると、何処に何があるのかが分からなくなる虞がある」
「なら、早いトコ、これ終わらせよーゼヨ!」
リチアドソンが、手にした数冊のワークブツクを、紙束に覆はれた机に叩きつける。
「ああ、そうだね。懸念事項は、早めに潰してしまうとしよう」
さう告げたる素士は、自らの冊子を引つ張り出し、手にしたボールペンの先端を軽快に走らせ始めた。
約五時間後。やうやく全ての答案を写し終へた静代は、低い唸り声と共にくづほれけり。
「お、おっ、おっ、おっ、終わっタアー……」
「いやしかし。モトジが問題を解くスピードに、リチャードソンさんの写す速さが追いつかないってのは、一体どういうからくりだ。途中から、優に一冊分は離してたぜ?」
「……意見は、控えさせて貰うよ。それよりもだ、蓋気君。例の野球の試合の結果の方は、どうだったんだい?」
呆れる津和吹に対し、右近は、微妙な気を遣つて話題を転換した。
野球、といふ単語が出た瞬間、蓋気の顔が俄かに曇る。だが彼は、直ぐにその素振りを仕舞ひ込み、質問にいらふ。
「ああ、優勝したぜ。一応な」
「へえ、やったジャン、ガイキ!」
リチアドソンは、純粋に事実のみを受け取り、歓声を上げた。しかし右近は、彼の不審な仕草を目敏く捉へ、新たな問ひを投ぐ。
「一応、とは、どこか引っ掛かるね。それに、何だか表情も優れぬようだ。その件で、何か、気に沿わないことでもあったのかい?」
「敵わないな、モトジには。――けど、こんなことを、話してしまっていいものなのかどうか……」
「まあ、言いにくいことなら、無理に催促はしないが。誰にでも、人に言えない秘密の一つや二つはある。だが、これだけは言っておく。某は、例え、どんなに突拍子もない話であっても、頭から疑ってかかるようなことはしない心算だ」
聞いて、蓋気は数秒目を瞑つた。その後、瞼を上ぐると、頷いて素士を見据う。
「そんな風に言われたら、話さない訳にはいかないな。……実は、全国を押さえた俺の消える魔球、あれは超能力でやってるんだ」
水を打つたやうに、静まり返る二人。暫し目を瞬かせた後、先づ、静代が口を開く。
「で、チョーノーリョクって、一体何なのサ?」
「これは驚いたな。まさか、実例に出くわすとは。それで、具体的には、どういった力なんだい? 空間転移とか、そんな類のものなのだろうか」
お呼びでない、とばかりに、素士は彼女の質問を塗り潰した。
「いや、別にワープする訳じゃない。俺の意識できる範囲にあるものを、誰の目にも見えなく出来るだけなんだ」
さう言つて、手にした鉛筆を不可視化した蓋気は、それを右近の掌の上へと転がす。すると、確かに素士は、目に映らない細長い物体が落下してきたのを感じた。そして、ペンシルは不意に色を取り戻し、彼の手の内で再び存在感を放ち始める。
「光を捻じ曲げる訳でもなく、そのまま透明になるのだな。成程、手品の可能性もなさそうだ。こんな魔術的代物を投げられたのなら、並の人間では対処できまい」
「フーン。いいジャン、ソレ。ガイキは何がフマンだってのヨ?」
リチアドソンは、無邪気にさう言ひ放つ。
「俺、これって、すごいズルなんじゃないかって思うんだ」
「まあ、その通りだろう。超能力を行使してはならないという規則自体はないにせよ、誰にも未知の超常的領域を持ち込んで競技するのは、倫理にもとる、些か卑怯なやり口だ」
素士は肯定し、そのことが、許されるのではないかとみそかに期待してゐた蓋気の心に、針が如く突き刺さつた。そこを重々承知し、それでも秀才は、更なる言葉を紡ぐ。
「その事実に気付いていながらも、君はそれらを自らの中に包み隠し、結局は勝利を手にしてしまった。全うに努力を重ねてきた、英才達を踏み躙って。体裁はどうあれ、そうして手に入れた栄冠には、本来あるべき誉れなどは、感ぜられないだろうね」
「ああ……」
委細内面を言ひ当てられたる津和吹は、たゞ、さうして諾ふことしか出来なかりけり。
「別にいいんじゃないノ? 勝ったんだしサ!」
「リチャードソン君は、もう少し、自省と共感というものを覚えるべきではないかな」
しやうもない、といふ顔で、右近は静代を戒めた。
ここで、言ひ訳がましいとは知りつゝも、再び蓋気は顎を開く。
「だけど、引くに引けない事情もあったんだ。ヤマガタケ部長は、大会での優勝に凄く燃えていたから、なのに持ってる力を使わないのは、あの人を裏切っていることになるんじゃないかってさ……」
「それは、あくまでも蓋気君の主観的判断に過ぎない。本当の所を伝えれば、山ヶ岳氏とて、理解してくれるという可能性も、否めなかったのではないか?」
「た、確かにそうだけど、下手に言ったら、興を殺いじまうんじゃないかと考えて……」
「どうであっても、放置したのは君の罪だ。君はまだ五年生、すぐに引退してさようなら、ということもない筈だ。その咎を背負って、今後どうするのか。身の振り方を、今一度よく考えてみるといい」
強い言葉を吐いた素士は、ふらりと立ち上がると、パソコン机の前の椅子に腰を下ろせり。そこから、膝に肘をついた前屈みの格好で、二人に細めた視線を送る。
「さて。少し、集中して調べたいことが出来た。悪いが、君達は、今日はもう帰ってくれるかい? それと、向こう三日位は、某のことはいないものと考えてくれると助かる」
「あ、ああ。了解だ……」
蓋気とリチアドソンは、半ば追ひ立てらるゝやうにして、部屋の外に転び出る。と、そこで丁度、素士の母親と行き合つた。
「あら、もうお帰り? お夕飯は食べて行かないの?」
「ええ、まあ」
辞してきた少年の浮かない顔を見て、右近母は顔をしかむ。
「ひょっとして、素士が何か変なことを言って、怒ったとか気を悪くしたとかかしら?」
「怒らせたのは、ガイキの方だヨ!」
「いや、リチャードソンさんも、軽薄さを呆れられてたから」
「そうなの? あの子、時々変なこと口走るから、お友達に迷惑を掛けていないか、心配なのよね……」
「モトジ君は、どこもおかしくありませんよ。些細なことではキレないし、かといって頭は切れるし、何時だって公明正大で――」
蓋気の顔が、ほんのりと後悔に歪む。だが、TPO(時と所と場合)を鑑み、即ち彼は平生を取り戻す。
「と、すいません、長居してしまって。すぐはけますので」
「いいのよ、いつでもいらっしゃい。素士と、仲良くしてあげてね」
「はい、勿論です。では、失礼しますね」
「ありがとうございましマシター!」
彼女に頭を下げると、津和吹とリチアドソンは、同級生の家を後にした。
還りついたベツドの上、食後のぼんやりとした脳味噌で、蓋気は脈々と考へを巡らせる。
姉の方は相変はらず。彼女のゐるリビングで採つた食事も、味なんて絶えて感じなかつた。
今後の進退にしても、さう易々(やすやす)と想像が及ぶやうなものではない。
それにつけても、素士のあの最後の態度は、怒らせてしまつたからなのだらうか。
様々な事柄が頭の中を駆け回つてゐた、そんな時。彼の携帯コンピウタが、メール着信音を奏で始める。画面には、『十文字五郎太』の文字が光つてゐた。
(続く)
【次回予告】
「こんにちは。作者のメインヒロイン☆理生=テスラよ!」
〈守護天使の理世だ〉
「如何がだったかしら? 彼の語る、こっちの世界のお話は」
〈いや、設定が急すぎて、ついて来れねえ人ばかりだと思うぜ?〉
「そういうことは、仮令分かっていても言わないものよ」
〈知るか、んなもん〉
「もう、理世ったら。分からないかしら? 謎に満ちた世界を探検し理解してゆくことの面白さが! ほら、RPGのエクシードダンジョンとか、ここぞとばかりに制覇してみたくなるものでしょ? これもそういった物なのよ、きっと」
〈その感覚は、天使のあたしにゃ分からんよ。ゲームなんざしねえし。それより、予告なり解説なり、早めにしちまった方がいいんじゃねえか?〉
「まだいいじゃない。理世の可愛さを、もっと沢山の人に知って欲しいわ」
〈いやいや。字面を見ただけじゃ、男にだってとられかねねえぞ。今回はあたしらの絵もないんだから、そこら辺も考えやがれ!〉
「えー。じゃあ、代わりに、理世の可愛い声を聴いて貰いましょう♪」
〈ひゃぅんっ! ……ば、バカ、こんな所で、何処触ってんだ!〉
「見えなければ、描写がなければセーフよ!」
〈ったく、今度やったら、あいつの方に逃げるぜ?〉
「あ、ずるいっ! 私も彼の所に連れて行きなさい、理世!」
〈自分でもよく分かってんだろ? 生きてる内は無理だっての〉
「何よ、少し位夢を見てもいいじゃない……。って、彼の為にも、予告をしないとね。 果たして、十五くんのメールの内容とは? 眞理学部の男子部員は、何処に消えたの? 次回第二話に、乞うご期待あれ!」
〈足早に締めやがった。地球の未来が心配だぜ……〉
この物語はフイクシヨンであり、実在する人物や団体等とは、関係がない場合が殆どです。
尚、本作は、http://ncode.syosetu.com/n8256q/のスピンオフ作品となつてをりますので、宜しければそちらもご覧下さい。