第二十三話 落滴(5)
「これは、若松湊を刺した剣だ。私が湊の敵をとってやらねばならぬ」
「英樹……」
激しい感情を隠さない将一と違い、英樹はいつもなだめ役に回っている。その英樹がこう言うのだ。できれば、英樹の意志を汲んでやりたい。
だが……。
「神原への報復は、先へ見送る」
「惣領殿!」
洋平と文彦が同時に叫んだ。
「惣領殿らしくないご決断でいらっしゃいます。神原が橘をなめてかかっても黙っておられると?」
「渡部、言葉が過ぎるぞ」
敏郎が吉住を睨む。だが、吉住の表情は全く変わらない。
「よい、小早川。皆の不満はもっともだ。だが、よいか。英樹の妹、白華姫は大貴族との縁組がすすみつつある。中級貴族とはいえ古い家柄の神原を討てば、貴族どもの反感を必要以上に買う恐れがある。そこをごり押しできるほど、今の橘に力はない。以上の理由から、神原への報復は先へ見送ることとする」
「しかし……!」
「誤解をするな。神原に何もしないと言っているわけではない。時期をみると言っているのだ。渡部、よくやった。この刀は有効に使わせてもらうぞ。英樹、その時がきたら、思う存分やれ。それまでは耐えてくれ。よいな」
将一のその言葉が、終了を示していた。
「英樹、何か不満があるならば言ってみろ」
無言のままの英樹に、将一が言う。
「惣領の決定に異議を唱えるつもりはない」
英樹は、それだけ言った。
「分かっているならいい」
将一が席を立つ。敏郎も立ち上がり、部屋を出ていった。
「おまえ達も朝早くからご苦労だったな。今日は昼寝くらいなら許可しよう」
「はは。ありがとうございます」
不満そうな顔につくり笑いをはりつけながら、洋平と文彦も、自分の持ち場へと引き上げていった。
「貴船殿。このままでよろしいのですか」
誰もいなくなった部屋の中で、吉住の声だけが空気を揺らす。
「またその話か。いい加減にせぬか」
「何度でも申し上げます。今回の決定は、貴船殿をないがしろにしているとしか思えません」
「渡部、口を慎め」
「惣領殿は貴族を恐れていらっしゃいます。それはこの国で最も尊い御方の御意思が、御自分にないことをご存知だからでしょう。けれども貴船殿は違います。冷静で事の道理をわきまえていらっしゃる貴船殿に、期待を寄せる者も多いのです」
「渡部……」
「今こそ長年の物思いに決着をつけられる時ではありませんか。このままでは、若松とて浮かばれません。そう思われませんか」
「……」
「それに神原の歌姫――織音という女性の件をこのままになさるおつもりですか」
その名前を耳にし、英樹の表情が変わる。
「どこでその話を知った」
「ごく限られた者しか存じません。ご安心を。ですが、いつ惣領殿の耳に入るか、分かりませんぞ」
「その時は仕方あるまい」
「よろしいのですか。惣領殿が怒りのあまり強硬手段に出られたら、どうなさるおつもりですか」
「将一は嫌がる女に無理強いするような男ではない」
「激情に駆られた男はどうなるか分かりませんぞ。それに、貴船殿を脅しの種に使えば、女も承知するでしょう」
「渡部……!」
「愛しい女が他の男に抱かれてもよいのですか。若松を失っただけでなく、女までも失うかもしれません。貴船殿は、それでも耐えるのですか」
「――……」
「ご決断を、貴船殿」
自分の心が揺らいでいるからか、それとも思考を止める囁きのせいなのか。
吉住の顔が歪んで見える。そして、織音の泣き顔がそれに重なった。
泰史が吉住を訪ねると、使いの男が部屋にいた。
「魚沼さまは大変喜んでいらっしゃいまして、渡部さまによろしく伝えてくれと、自分にまで声をかけてくださいました」
「そうか。あの玉は以前からお望みでいらしたからな。ご苦労だった」
男は泰史にも挨拶をして、部屋を出ていった。
「もう贈られたんですか?」
「ああ。今が好機だろう」
「俺もいい報告があります」
「なんだ」
「雪菜さまを山荘にお連れすることになりました」
吉住の動きが、一瞬止まった。
「そうか。よくやった」
「渡部さんが嬉しそうなところなんて、初めて見ましたよ」
「そんなことはどうでもいい。こんなに上手くいくとはな。やはり、おまえを誘ったのは、正解だった」
「ありがとうござます」
「山荘へは、他に誰が行く?」
「青竹さんと藤枝さんです」
「青竹か。大した邪魔にはならんな」
「渡部さん」
「なんだ」
「出動前、若松に婚約者のことを言ったのは、わざとですね」
「そんなことを聞いて、どうする」
「どうもしません。ただ、知りたいだけです」
「あいつは 無防備すぎて自滅した。それだけのことだ。大事の前だぞ。余計なことに気を取られるな。若松の二の舞になりたいのか」
「いいえ」
「俺はまだ用事があるからここに残るが、片付き次第山荘へ向かう。準備は任せたぞ。いいな」
「はい」
泰史の真横を吉住が通り過ぎる。
泰史の背後で、引き戸を閉める音がした。そして、吉住の足音が遠ざかっていく。
「油断するなよ、か――」
泰史は周囲の気配をうかがった。
耳に入ってくるのは、冬の寒さに枝がきしむ音。皮膚に感じるのは、刺すように冷たい冬の息吹だけ――。
誰もいないことを確認すると、棚の上から埃のかぶった箱を取り、机に置いた。埃に指の痕をつけないように、蓋の縁をそっと持ち上げて、中を見る。
「ない……!」
ここにあるはずのものが、見当たらない。
誰が移したんだ。
渡部さんか?
その時、泰史の全身が空気の震えを感じ取った。
「誰だ!」
戸口に駆け寄って外に飛び出す。
気配は残っていたが、人の姿は消えていた。
「まずいな」
刀にかけた手を下ろしながら肩に力を入れ、泰史は呟いた。
あけましておめでとうございます。
みなさまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
さて、突然ですが、しばらくの間「春隣」の更新を停止させていただきます。
色々と思うこともあり、このまま話を続けていってもいいものかどうか悩みまして、一旦この話から離れることにいたしました。
プロットは最後までつくってありますし、愛着もある作品なので、また書きたいとは思っているのですが……。
読者の方にはご迷惑をおかけして、申し訳ありません。なにとぞご了承いただけますよう、お願い申し上げます。