第二十二話 落滴(4)
泰史の発言に、将一も意外そうな顔をしている。惣領と妹姫の話に割ってはいる者など、この橘にそうはいない。
「山荘? もしや……」
「はい。伊部という商人から借りております、山麓の山荘でございます」
「確かにあの山荘なら女が好きそうな造りだし、静かだからゆっくりできるが」
「お兄さま、行かれたことがあるの?」
「あ? ああ。真砂の帰りにな」
「これから戻る予定になっておりますので、差し支えなければ自分も警護に加わらせていただきます」
「どうする、雪菜」
「だけど、お兄さまがお忙しいのに、あたしだけ山荘でのんびりするのは、ちょっと……」
「そんなことは気にせんでもよい。行ってきなさい」
「いいの?」
「今は山荘に寄る者も少ないでしょうから、雪菜さまもごゆっくりできるかと思います。それに女性が必要な物もあらかた揃っているようですので、最小限のお荷物でお越しいただけるでしょう」
「女性が必要な物が揃っている……。ふーん……」
雪菜は、将一をじっと見た。
「な、なんだ? 俺だけではないぞ」
「だけではない。ってことは、お兄さまも……」
「おまえは、つまらんことを気にせんでいい。それよりも、早く体を直すことに専念しろ」
「は〜い」
「惣領殿、お邪魔いたします。貴船殿が、小広間までお越しいただきたいとのことです」
若い男の声が、障子越しに聞こえた。
「なんだ。急用か?」
「はい」
「わかった、すぐに行く。それでは雪菜、気を付けて行ってこい」
「ありがとう、お兄さま。良くなったらすぐに戻るね」
「ああ、待っているぞ。藤枝もゆっくりしてきなさい」
「ありがとうございます」
菊花は礼を言うと、廊下に出て将一を見送った。
「雪菜さま。山荘に行くことを、水越さまに伝えましょうか。使いの者を呼びますね」
用事を済ますと、菊花は雪菜の枕元に戻ってきた。
「呼ばなくていいよ」
「え……?」
「昨夜ずっと考えていて、気が付いたの。直也には気になることが沢山あって、あたしのことは後回しになることが多いんだなって。考えてみれば、あたしが直也を追いかけているだけだもんね。あたし、嫌われないうちに少し距離をおこうかなあ、と思っているの。だから、直也には何も言わないでいいよ」
「そんなことありません。水越さまは、雪菜さまのことをちゃんと考えていらっしゃると思います」
「ありがとう。でもね、直也はあたしと向き合うことを避けている気がするの。直也のことを諦めたわけじゃないけど、しょうがないもんね」
「雪菜さま……」
「菊花、支度に取りかかってくれる? あまり時間がないんでしょ?」
「はい……」
「悪いけどあたし、ちょっと寝るね」
「はい。今はお体を治すことだけを、考えてください」
「そうだね。早く治さなきゃ」
そう言って、雪菜は目をつぶった。
だが目を閉じると、どうしても直也の姿を思い浮かべてしまう。
――直也……。
あふれ出ようとする涙を必死にこらえていると、いつのまにか、柔らかい手が額におかれていた。
その手は優しくすべるように、何度も雪菜の頭を撫でる。
子供をあやすように、そっとそっと……。
――菊花の優しさが、あたしの中に流れこんでくる……。
雪菜の心が穏やかな喜びでいっぱいになり、身体中が満たされていく。
たかぶりかけた感情が落ち着き、眠りの淵に導かれていく、雪菜の意識。
ふわふわとしたその淵の底で、なにかが暖かい光を放っていた。
あれ、なに……? なんだか、とても懐かしい……。
雪菜はその光に向かい、底へ底へと沈んでいく。
身体に触れる淵の水が、雪菜を守りながら光に導いているようで、とても心地いい。
雪菜は底にたどりつくと、光に両手をのばした。
ふにゃりとした軟らかいものが、指先に触れる。
これ、なんだろう……。
雪菜は両腕でそれを抱きしめた。
ふにゃふにゃしていて、とても気持ちがいい……。
「きゃっ!」
雪菜が目をつむって身を委ねていると、突然、それが強い輝きを放ち始めた。
雪菜は慌てて、後ろに下がる。
光のきらめきは少しずつ弱くなり、やがて女の幻影を映し出した。
「え?」
思いがけない幻に、雪菜はそこから動けなくなる。
それは幼い雪菜を膝にのせ、笑いながら髪を結ぶ母の姿だった。
部屋の中には英樹と吉住、それと見覚えのある男が二人いる。
将一と敏郎が部屋に入ると、吉住の後ろに控えていた二人の男が、少し震えた。将一と言葉を交すことなど年に一度あるかないかなので、緊張しているらしい。
「その者たちは確か、牛島洋平と池野文彦と申したな」
惣領に名前を覚えられているとは思ってもみなかったのだろう。洋平と文彦は平伏した。
「ところで英樹、一体なにごとだ」
「本日未明に、原口の横領の仲間と目していた七戸雅也を、我々が急襲いたしました」
英樹の代わりに、吉住が落ち着いた声で報告をする。
「それで?」
「味方に死者三名の損害を出し、七戸雅也も死亡いたしました」
「なに? 七戸を殺しては意味がないではないか! 七戸の親玉を探っていたのであろうが!」
声を荒げる将一に、洋平と文彦は身をすくませた。
「殺した理由を申してみよ」
「七戸の抵抗が激しかったため、捕縛が難しいと判断いたしました」
「俺は五体満足で捕縛しろとは言っていないぞ。それは理解しているだろうな」
大事な証人を殺したというのに、吉住の落ちつき払ったその態度が、将一の癇に障る。
「惣領殿、こちらをご覧下さい」
吉住が洋平に合図を送ると、脇に置いてあった風呂敷が差し出された。洋平が広げると、中には木箱が入っている。
「それがどうした」
「どうぞ、中をご確認ください」
箱を開けると、刀身が出てきた。
『大森住人 生野巽』と銘が彫られている。
「この銘は……!」
「ご存知のとおり、これは神原が抱えている刀匠の名前でございます」
長い間宮中の警護を預かっていた神原には、刀を鍛える専属の村があった。そこには腕のいい刀匠が何名もおり、人材を欲している橘は、常にその村に注目していたのだ。
この生野巽という人物も、橘が目を付けている刀匠の一人である。
「刀の持ち主は、神原忍。神原の中枢にはおりませんが、一族の者であることには間違いございません。これがあれば、橘が神原を攻める大きな理由になります」
「これならば、神原が横流しに関わっているという十分な証拠になりますぞ」
敏郎の声もはずんでいた。
「……」
吉住と敏郎の言葉に、将一は考えこむ。
「いかがでございましょう、惣領殿。今こそ憎き神原を討つ機会ではございませんか」
「兵を送るのなら、わたしが将になろう」
それまでの沈黙を破り、英樹が言った。