第二十一話 落滴(3)
「昨日、港を案内した若松から聞いたんです。原口の背中側の肋骨には、ひびがはいっていたそうです。原口は脂肪の多い、中年の男です。華奢な藤枝さんの力では、内臓を通過させて背中側の肋骨にひびをいれるのは困難でしょう。第一、原口が橘の屋敷に来ることを、藤枝さんは知っていたでしょうか」
「――……」
「原口が来ることを知っていたとしたら、あらかじめ刃物を用意したという可能性も否定できません。でも今の彼女に、辺境の倉庫長である原口のことを知る機会はないと思います。広瀬さんだって、雪菜の部屋で初めて知ったくらいですから。橘の屋敷で、突然原口を見かけたとしたら、藤枝さんはどんな行動をとると思いますか?」
「……意外と気が強いからな。あとをつけるかもしれんな」
「俺もそう思います。でも藤枝さんは、短刀すら持ち歩く習慣はありません。もし自分の部屋に一本くらい置いてあったとしても、すぐに取り出せる場所にはしまっていないでしょう。それに男の足に追いつくためには、自分の部屋まで凶器を取りにいく時間はなかったと思います。おそらく、藤枝さんはなにも持たないまま原口を追った。原口はなぜか竹林に向かっていく。そこで藤枝さんと原口は対峙した……。なにが起きたのかは藤枝さんに確認するしかありませんが、そこで刃物を持った第三の人間が、原口を殺したのではないでしょうか」
「原口だって、脇差くらい持ち歩くだろう。菊花がとっさにそれを使った可能性が残っている」
「三田さんの話を聞いた時に、原口の脇差を確認しました。一度も使った跡はありませんでした」
「……」
「広瀬さん。広瀬さんはあの夜、何を見たんですか?」
「……」
「広瀬さん!」
「……菊花じゃないかもしれない……。そうか……」
和馬の手は震えていた。そして、声も上擦っていた
「やっぱり広瀬さんは、藤枝さんをかばっていたんですね」
しばらく机の上を見ていた和馬は、やがて低い声で話し始めた。ぽつりぽつりと語る和馬の顔には、安堵感しか浮かんでいない。
いつもどこかに含まれている醒めた笑いは、感じられなかった。
――藤枝さんと出会った頃の広瀬さんは、こんな顔だったのかもしれない。
直也は和馬を見て、そう思った。
「あの夜、名波に乗っている時に、竹林へ向かう原口を見かけた」
直也はなにひとつ聞き逃すまいと、全神経を話に集中させた。
「あいつが橘の屋敷にいることに驚いて、名波を馬小屋につないでから急いで原口のあとを追った。すると原口が向かった竹林から、菊花が慌てた様子で走って出てきた。俺はとっさに隠れたが、菊花がいなくなってからそこを覗くと、原口が胸を刺されて死んでいた。俺はてっきり菊花がやったのかと思って、裏の門を開けたんだ」
「裏の門を?」
「そうだ。血の臭いをかぎつけて野犬がやってくる。そうすれば、原口の死体を食い散らかして、傷口も分からなくなるだろう」
「そして、不審の目を自分に向けさせた……」
「ああ。惣領殿に呼ばれたときも、菊花の話はいっさい出さなかった。ただ神社の一家としか言っていない。原口の話をしている時の俺が不自然なほど淡々としていることについて、誰か指摘をするかと……」
「広瀬さん?」
「いや……。なんでもない。菊花は俺に見られたとは、知らないはずだ。大分慌てていたし、竹林の中は暗かったからな」
――竹林の中は暗かった……?
「ちょっと待ってください。それなら、別の人間が竹林に隠れていることに広瀬さんが気付かなくても、不思議じゃありませんよね」
「なんだって?」
「広瀬さんは、藤枝さんのことでかなり動揺していたはずです。普段なら闇夜でも人の気配に気付いたでしょうが、あの夜はそうはいかなかった」
「おまえ、けっこう言うな」
「茶化さないでください。結局、疑問は残ったままなんです。原口を殺したのは誰なのか。竹林の中でいったいなにが起きたのか。原口は、橘の広い屋敷に初めて来たにもかかわらず、何故夜になってから竹林へ向かったのか――」
和馬の表情が、それを聞いて引き締まる。
「菊花に訊いてみよう。それが一番てっとり早い。すぐに屋敷へ戻るぞ」
「はい!」
やはり、犯人は広瀬さんじゃなかった。
本当によかった――。
その気持ちが、和馬にも通じたのだろう。
「直也」
「はい」
和馬の手が、直也の背中を軽くたたく。
そして……。
――ありがとう。
和馬の小さな声が、直也の耳に届いた。
部屋の中で、雪菜は横になっていた。
だるい……。
体が重いなんて、生まれて初めてだ。
「先生」
「大丈夫。たいしたことはありませんよ」
菊花の問いかけに、医者はのんびりと答えた。
「でも、雪菜さまの具合が悪くなるなんて、初めてのことなんです」
「顔色は悪くないですよ。疲れが出たんでしょう。まさか、怪我以外でこちらのお屋敷へ伺うことがあるとは、思ってもみませんでしたよ」
そう言うと、医者は声を出して笑った。
「のんきなことを、おっしゃっていないでください!」
「すみません……」
いつも穏やかな菊花に怒られて、医者が驚いている。
「雪菜さま。青竹さんと黒川さんが心配して、廊下で待っているんです。大丈夫ですと伝えて来ますね」
「黒川さんもいるの?」
「ええ。昨日、雪菜さまが落ち込んでいらっしゃったので、様子をみにきてくれたんですよ。そうしたら、雪菜さまがぐったりなさっていて。青竹さんが先生のところに使いの者を出そうとしていたら、黒川さんがお医者さまを連れて来てくれたんです。あとでお礼を言ってくださいね」
「いま言うよ。中に入ってもらって」
「いけません。夜着じゃありませんか」
「大丈夫、大丈夫」
「聞こえましたよ。心配いらないみたいですね」
泰史の声が聞こえた。
「あ〜、ありがとう、黒川さん。わざわざ寄ってくれたんだね」
「昨日、ちょっと冷たかったかと反省しまして」
「雪菜さまの警護を離れるわけにもいかないから、黒川が来てくれてボクも助かったよ。使いの者を呼ぶよりも、黒川が行ってくれたほうが早いもんな。あとで改めて……うわっ!」
「どうしたの……って、この足音は……」
「雪菜の具合が悪いとは、まことか!」
屋敷じゅうに響き渡るような足音をさせて現れたのは、橘家惣領の将一だった。
「惣領殿、病人のいる部屋では、もっとお静かに」
「び……、病人……」
医者の言葉を聞き、将一は蒼白になる。
「雪菜、いったいどうしたというのだ。風邪もひかないおまえなのに、食欲がないほど具合が悪くなるとは」
「わかんない……。ごめんなさい、お兄さま。心配をかけてしまって」
「雪菜……。おまえがこんなにしおらしくなるとは。なにか欲しいものはないのか? なんでも手にいれてやるぞ」
「ありがとう、お兄さま。でも、大丈夫。大したことはないって、お医者さまが言ってたし」
それを聞き、将一は医者を見た。その眼光の鋭さに、医者の顔色が変わる。
「それは確かであろうな」
「は、はい。御婦人によくあります、体調不良ではないかと」
「万が一誤診などあったら、許しはせんぞ」
「は、はい」
「お兄さま、落ち着いて。あたし、すぐに良くなるから。ね?」
「いや、無理してはいかん。普段、腹痛すらおこさぬ頑丈な雪菜が、伏せるほど具合が悪いのだ。もしや、都の空気がおまえにあわぬのだろうか」
「うーん、今更って気もするけど」
「惣領殿。それでしたらご静養を兼ねて、雪菜さまに山荘へお越しいただいてはいかがでしょう」
泰史の突然の発言に、雪菜は驚いた。