第二十話 落滴(2)
「もう仕事をしているんですか?」
「ああ。夜中に目が覚めちまったから、仕事をしていたんだ。もう屋敷へ帰れるぞ」
「広瀬さん、話があるんです」
「ん〜? 深刻そうだなぁ。お姫さんとの喧嘩の仲裁か?」
「屋敷で三田玲子という人に会いました。藤枝さんの家で働いていた人です」
和馬から、余裕の笑みが消えた。
「……それで?」
「三田さんから笠原村であったことを全部聞きました。藤枝さんは、白峰という名前だったんですね。」
「昔のことだ。それが、どうかしたのか」
「単刀直入に言います。広瀬さんは、藤枝さんが原口を殺したと思っていますね」
書類をつかんでいた和馬の指が、机の上に置かれた。
「なにを言ってんだ、いきなり。どうかしているぞ、直也」
「広瀬さんは藤枝さんをかばっているんです」
「面白いこと言うなぁ。続き、聞かせてもらおうか」
やわらかい口調とは裏腹に、和馬の目付きが剣呑さを増していく。
未だかつて直也には向けられたことのない、青い怒り。だが、直也はまっすぐに和馬を見て、その怒りから逃げようとはしなかった。
「原口の死体が発見された日から、広瀬さんが犯人かもしれない、と思っていました。雪菜の部屋で原口への嫌悪をみせていたし、あんな顔であんなことを言うから、もしかしたら、と思っていたんです」
「あんなこと?」
「“仕方ないでしょうな。天罰というやつですよ”」
「あれは別にわざとじゃないけどな。思ったことを言っただけだし」
「そうかもしれません。でも、広瀬さんが原口を嫌う理由も知らなかったし、それが殺害に結びつくほど激しい嫌悪なのかどうかも分からなかった。なにがあったのか尋ねても教えてくれないことは、雰囲気で分かっていました。三田さんの話を聞いたおかげで、やっと答えが出てきたんです」
「それが、さっきの質問か。直也。世の中には、言っていいことと悪いことがあるって知らんのかい?」
「言わなければ、この話は先に進みません」
和馬が腕を組む。その目には、敵に向ける鋭さが浮かんでいた。
「まあ、いい。それで?」
和馬の声に、緊張感が宿っている。追い詰められた時のものではない。攻撃する態勢をとる時の、張り詰めた空気と一緒のものだ……。
「広瀬さんはあの夜、藤枝さんをかばわなくてはいけないと思う、なにかを見たんです」
「ちょっと待て。なんでそこに菊――藤枝さんがでてくるんだ? 昔のことがあったからといって、俺が彼女をかばっているというのは、飛躍しすぎじゃないか?」
「じゃあ、例えば広瀬さんが原口を殺ったとしましょう。だったら、なぜ自分が疑われるようなことを言うんです? 広瀬さんが犯人なら、注意が自分に向かないようにするものじゃありませんか? 雪菜の部屋でみせた嫌悪感を失敗したと思って、とりつくろうとするのが普通です。それをしないで、わざわざ自分に注意を向けるようなことを言うとなれば、誰かをかばっていると思うのが自然でしょう。原口が関係し、広瀬さんがそこまでしようとする人間となれば、藤枝さんしかいないじゃありませんか」
「――……」
「最初は、広瀬さんが藤枝さんと共謀して原口を殺したのかと思いました。だけど、それでは俺達の目を広瀬さんに向けさせた意味がなくなる。ということは、二人は共犯じゃない。広瀬さんは、藤枝さんをかばわなくてはいけないと思うなにかを見たから、俺と雪菜の注意をわざと自分に向けたんです」
「なにかって?」
「藤枝さんが原口と一緒にいる現場とか……」
「直也!」
和馬の大声に、直也は言葉を止めた。けれど、その声に含まれた愁嘆の響きが、それが真実に近いことを直也に確信させた。
「いい加減にしろ! 今なら何も聞かなかったことにしてやる。いいか? この話は、ここまでだ!」
「広瀬さん。原口を殺したのは、藤枝さんじゃありませんよ」
「――なんだって……?」
和馬の目が、大きく見開かれた。