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春隣  作者: 桜木結実
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第十九話 落滴(1)

「渡部さん、七戸が現れました」

 小声で告げる男の視線の先には、短躯で恰幅のいい男がいた。

 七戸の前には、背が高く痩せた男が立っている。川沿いに乱立している荷物小屋のひとつに、二人は入っていった。洋平が小屋の窓下にしゃがみ、中をのぞく。湊は小屋の周りを包囲しているため、薄暗い部屋の中がどうなっているのかよく分からなかったが、洋平は吉住のほうを向くと、小さく頷いた。

 吉住が左手を振り、突撃の合図を出す。

 今まで息をひそめていた男たちに、突然殺気が宿った。皆一言もしゃべらず、それぞれの班長のあとに続いていく。

 心臓が鳴っている……。

 湊の意識が己の体内に向かった。

 そうか。心臓って、こんなに音が出るものだったんだ。

 頭にも腕にも爪先にも、大きな鼓動が伝わってきた。

 体中が震えている……。

 ふと気が付くと、横に泰史がいた。

「黒川さん?」

「冷静になれよ」

 それだけ言うと、泰史は先頭にいる吉住のところへ行く。とてもなめらかで、無駄のない動きだ。

――冷静に……。

 それは無理な話だ。凍てつく大気でさえぬるくしてしまうような熱気の中にいて、どうして落ち着いていられるだろう。渦巻く熱が湊の鼻孔から入り、心をはやらすのだ。

「七戸雅也! 橘まで来てもらおう!」

 扉の開く音。洋平の太い声。

 その声が、湊の体にこもった熱を上昇させる。

「逃げてください!」

 雅也が背の高い男を逃がすため、洋平の前に立ちはだかった。

 雅也は斬りかかる牛島班の男を蹴り、よろめいた隙にその男の胸に刀を刺し、右隣の男が斬りかかっても軽くよけ、背中に短剣を立てる。

 あっというまに、二人が殺された。

「おまえたちは、背の高い男を捕えろ。あいつは殺すなよ」

 吉住が前に出て、雅也を取り囲んでいる男たちに命令する。

「しかし……!」

「いいから、早くしろ!」

「はっ!」

 洋平が奥の扉から逃げようとする男を追った。湊も慌てて後ろにつく。

 走りながら吉住に注意を戻すと、雅也が刀をかまえ直しているところだった。

「大人しく捕まった方が身のためだぞ」

 吉住の言葉など耳に入っていないかのように、雅也は吉住の動きを追っている。

「若松! 気を散らすな! きさまはこっちの男に集中しろ!」

「は、はいっ! すみません!」

 そうだ。僕はこの男を捕まえて、そして……。

 湊の周囲の男が、じりじりと獲物ににじり寄る。

 そう。

 彼は獲物なのだ。

 誰が捕えるのか、競争が始まっていた。

 男たちの殺気と欲が、小屋いっぱいに充満する。

 早くしなくては。

 早く踏み込まなくては、手柄を横取りされてしまう。

 僕が……。

 僕が行くんだ。

 そして、彼女を都に……。

「うわっ!」

 湊の隣にいた男が大声を出し、慌てて右方へ飛びのいた。

 全ての意識を目の前の男に集中していた港は男が倒れてきたことに気がつかず、まともにぶつかってしまった。

 湊の顔になにかが降りかかる。

「いってえ……」

 顔に手をやり掌を見ると、真っ赤に染まっている。床に転がった男、七戸雅也は白目を剥いて、どくどくと血を流していた。

 まだ温かい血。

 雅也の執念を吸い取った赤い液……。 

 生温かくどろりとしたそれは湊の体内に侵入し、頭の中を這いずり回って中をかきまわし、そして神経に付着した。

「う……わああぁぁっ!」

 湊の中で、なにかが千切れて飛んだ。

「ばか、やめろ、若松!」

 どこからか、声が聞こえた気がする。

「――?」

 胸に衝撃を感じた。熱く焼けただれるような、強い衝撃……。

「若松!」

「逃げたぞ、追え!」

 なんだろう……

 周りの声がどんどん遠ざかっていく……。

「馬鹿だな。もう殺られるなんて……」

 殺られた……。

 ちがう、僕はまだ……


――あんたはお調子者だから、本当は都になんて行かせたくないのよ。でも、仕方ないわね……。


 僕も本当は離れたくなんかない。

 だから、早く都へ呼べるようになるから……。誰にも文句を言わせないくらい、立派になるから……。


――しっかりやるのよ。いい?


 そう言って泣いていたっけ……。僕がいなくなったら、きみは……。

「……」

「若松?」

「――……」

 きみ……は……。


 湊の手が、刀から離れた。誰も湊をかえりみることのない喧騒の中で、泰史は湊の両目をそっと閉じてやった。



「もうこんな時間か」

 気が付くと、朝の光が部屋の中に射しこんでいた。 昨夜は雪菜のことや和馬のことが気になってよく眠れなかったせいか、少し頭が重い。

 喧嘩の後、少し反省した直也は雪菜の部屋まで行ったのだが、新しい警護の青竹晴紀と菊花を連れて、外出してしまったという。

 雪菜の怒った顔はよく見るが、泣き出しそうな顔は初めて見た。あの顔が直也の心に棘となってつき刺さる。

――雪菜。

 小さい声でその名を呼んでも、元気な返事はかえってこない……。

「とりあえず、こっちが先だ」

 直也は起き上がって顔を洗い、雪菜の幻影をどうにか振り切った。そして、和馬の部屋に向かう。

 三田玲子から笠原村の話を聞いた直也は、原口の殺人についてひとつの仮説をたてていた。

 どうしてもそのことを確認したくて海神に戻ってきたが、和馬は酔って宿舎に帰ってきて、すぐに眠ってしまったと同僚が教えてくれた。

 まさか上司をたたき起こすわけにもいかず、直也は仕方なく朝まで待つことにしたのだ。 

 今度こそ、確かめなくては……!

「広瀬さん、起きていらっしゃいますか」

「直也か。空いているぞ」

 中へ入ると、和馬が書類をみていた。


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