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春隣  作者: 桜木結実
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第十八話 からまる鎖(3)

「先ほどは申し訳ありませんでした。あたしったら、失礼なことを」

「ねえ。菊花と広瀬さんって……」

 菊花は動かしていた手を止める。

「玲子からお聞きになりました?」

「うん……」

 菊花の指が茶器から離れた。

「どうしてお互いに関係ないふりをしているのか、気になりますか?」

 雪菜は頷く。

「でも、言いたくないなら――」

「……笠原村を出てから、一度だけ広瀬さまと結ばれたことがあります」

「え……」

「幸せでした。ずっと求めていた人の腕の中にいられて、こんな幸福があるのだと、あの時に初めて知りました。何もかも忘れて、この人といたい。本当にそう思ったんです」

「菊花……」

「だけど明け方に、赤ちゃんの泣き声が……」

「赤ちゃん?」

「もしかしたら、仔猫の声だったのかもしれません。でも、その泣き声を聞いているうちに、あの子が死んだ時のことが、あたしの中でよみがえってきたんです。家族はあの子を守ろうとして、みんな死んでしまいました。それなのに、あたしはあの子を守れませんでした。そんなあたしが、自分だけ幸せになろうとしていいのでしょうか。そんなことが許されるのでしょうか」

「だって、菊花は悪くないじゃない……!」

「たとえそうだとしても、あの子を独りで死なせてしまったことまで忘れようとした自分が許せないんです。こんな気持ちのまま、あの人の側にはいられません。私の苦しみをあの人にまで伝染うつすわけにはいきませんから……」

 菊花はそう言ってうつむいた。

「だけど、広瀬さんの気持ちは?」

「――……」

「広瀬さんは菊花の気持ちを最優先しただけじゃないの? 広瀬さんは、今でも菊花のことを忘れていないんじゃないの? だから誰とも結婚しないんじゃないの?」

「あたしは、あの人に辛い思いばかりさせてしまいました。もう、あたしとは関わらないほうがいいんです。それがあの人のためだと……そう思います」

「でも、それは……!」

 雪菜は菊花の哀しそうな顔を見て、それ以上言うのは止めた。

 だけど、菊花、辛そうだよ。

 そんな顔をしてそんなことを言っても、納得できないよ。

 広瀬さんにも、菊花の無理が伝わっていると思う。

――本当に男女の仲は難しいこと。

 あの人の言ったことは、本当だ。菊花も広瀬さんも、お互いのことを想い過ぎて、その想いが鎖となり、互いに身動きがとれなくなっている。

 どうしたらいいんだろう。

 どうしたら、体から想いの鎖がはずれるんだろう。

 雪菜は菊花を見た。

 菊花は視線に気付くと小首をかしげ、いつものように微笑いかけた。

 それが哀しくて悲しくて、雪菜は唇を震わせた……。


 真冬の夜明け前は、全身が悲鳴をあげるほど空気が凍てついている。湊は焚き火の近く立っていたが、それでも耳が痛くなってきた。

 薄闇の中を、幾つもの影がうごめいている。吉住が率いる、牛島洋平班と池野文彦班の男達だ。

「渡部さま。牛島班が揃いました」

「よし。牛島班が追っていた七戸は、荒っぽい男だ。油断をするなよ」

「はい」

 吉住と洋平は小さい声で話していたが、冴え凍った氷の刃が余分な音を削ぎ落とし、かえって声の通りをよくしていた。

 先ほど七戸が仲間に会う、との密告があった。吉住は彼等を急襲することに決め、牛島班と池野班に招集がかかったのだ。

 洋平と話していた吉住の視線が、湊で止まる。緊張しか与えないその目付きに、湊は体を固くした。

「若松もいるのか。こういった現場には慣れていないだろう。大丈夫か?」

「意外と体力がありますので、連れてきたのですが。まるで姫君に対するようなお気の使いようでいらっしゃいますな」

「なにしろ、貴船殿のお気に入りだからな」

「大丈夫です。僕、やれます!」

 吉住の言い方に少しムッとして、湊は強く言い返した。

「そうだな。これで手柄をたてたら婚約者も見直して、新婚生活は都で送ることになるかもしれんな。頑張れよ、若松」

「そ……そうですね」

 僕が手柄を……。

 そうしたら、彼女は喜んでくれるだろうか。すごい、と言って誉めてくれるだろうか……。

「僕、頑張ります!」

「はは、その勢いだ」

「渡部さん、もう出ませんと」

「ああ、わかった」

 洋平が男たちを招集し、吉住の前に立たせる。湊は最後尾に立ち、吉住の言葉を待った。

 吉住がゆっくりと男たちの前を歩き出す。男たちの間で、緊張と興奮がとぐろを巻く。吉住が足を止めたのは、それらが全員に絡まった時だった。

「諸君。我々の目的は、この橘に不利益をもたらす者を捕らえ、厳罰を与えることにある。敵に情けをかけてはならんぞ。よいな!」

「はっ!」

「出撃!」

「おおっ!」

 男たちの声が、残夜に響く。まだ明け方にもならないこの時間は、闇の名残が色濃く漂う。

 それにあてられてしまったのだろうか。

 湊は、未だ感じたことのない異様な炎が身の内にくすぶり始めていることに、戸惑いを感じていた。

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