第十四話 過去の楔(5)
突然現れた奥さまに、菊花さまとわたくしの動きが止まりました。
「菊花、お座りなさい。玲子、お茶をいれてちょうだい」
「は、はい、ただいま」
わたくしは慌てて湯呑みを用意し、お茶を注ぎました。その間、奥さまも菊花さまも、一言もしゃべりませんでした。
湯気がたちのぼる暖かい湯呑みを両手でくるみ、菊花さまの昂ぶった感情も少し落ち着かれたのでしょう。荷物を下に置き、松葉色のお茶を少しずつお飲みになっていらっしゃいました。
「菊花。おまえ達が本気で想いあっていることも、広瀬さまが誠実な方だということもよく分かっています」
「だったら、あたしを和馬のところにいかせてくださるでしょう? 和馬はあたしのために家を捨てると言ってくれたわ」
「落ちつきなさい、菊花。あなたは好きな方と一緒になれれば、たとえ苦労しても幸せかもしれない。けれど、広瀬さまはどうかしら」
「え……」
「広瀬さまが家を捨てるというのは、今持っているものを全て捨てるということ。領主という地位と広瀬家での未来を捨てるということでしょう」
「でも……!」
「今は討伐隊参加準備のために、広瀬家全体が必死になっている時。そんな時に責任放棄した者をこころよく許してくれるほど、世の中は甘くありませんよ。一瞬の感情の為に行動した広瀬さまを、広瀬家はもう受け入れてくれない可能性だってあります」
「だけど……!」
「よく聞きなさい、菊花。男の方にとって仕事で成功するというのは、それは大きな価値を持つものなの。今ここで全てを捨てたら、広瀬さまは一から全てを始めなくてはいけません。広瀬さまのお祖父さまの代から始まり、広瀬家はここまで大きくなりました。今ここで全てを捨てたら、広瀬さまが今と同じ地位を得る頃には、人生の終盤にかかっているかもしれないのよ。菊花は広瀬さまの側にいれば幸せかもしれないけれど、男の方はそれだけでは足らないものなの。だから、菊花。広瀬さまの将来のために、駆け落ちはいけません。お互いに辛いけれど、広瀬さまのために我慢してちょうだい」
奥さまの話を聞いても、菊花さまは何もおっしゃいませんでした。ただ、黙って涙を流されていました。
その後、お二人の間にどのような話し合いがあったのか、わたくしは存じません。ですが、和馬さまは一人残されてしまうかもしれない菊花さまのため、菊花さまは和馬さまの将来のため……。お互いがお互いを思いやったのでしょう。
和馬さまが菊花さまを召し上げることは、ありませんでした。
そして、細雪が舞い散る冬のある日――菊花さまはご結婚されたのです。
その日は朝から大変冷えこんでいました。灰色の雲がどこまでも空を覆い、昼だというのに、座敷には灯りがともされていました。
式の間中、菊花さまは一言もお話しになりませんでした。涙をこらえるのに精一杯でいらしたのでしょう。祝いに集まった人々の喧騒も、違う世界の出来事のように感じていらっしゃるようでした。
わたくしはだんなさまに言われ、お祝いの品を和馬さまのお館に届けることになりました。和馬さまはその日、本家で大切な御用がおありだということで、前の晩からお館を留守にしていらしたのです。
大層いやな役目でございました。
けれど、ご領主の和馬さまを白峰家の婚礼において、ないがしろにできるわけがありません。
事情を知っているわたくしならば、不用意なことはするまい。
だんなさまは、そう思われたのでしょう。わたくしは祝いの品を持ち、屋敷を出ました。
やはり和馬さまはお留守でいらっしゃいましたが、祝いの品だけを留守居に預け、わたくしは帰路につきました。このように後味の悪いお使いは、初めてでございました。
お屋敷に着く前に、わたくしは裏山にある神社へお参りをいたしました。
菊花さまのお心が、早く安らかになられますように。そしてお壻さまと幸せになられますように。
その願いを込めながら、わたくしは手を合わせたのでございます。
顔を上げたわたくしは、ある人影に気付きました。それは、ご本家に行かれているはずの和馬さまでした。
すでに雪はやみ、美しい夕焼けが山際に広がっておりました。夕空に描かれた緋色の熱情が、和馬さまの苦しみに引き寄せられたのでしょうか。
和馬さまの目は、真っ赤でいらっしゃいました。
そして、いつも携えていらっしゃる刀には、雪がやんだにもかかわらず、柄袋(注1)が被されていたのです。わたくしの怪訝な視線を感じたのか、和馬さまはこうおっしゃいました。
――こうしておけば刀を抜きそうになっても、冷静になれる時間が少しできるだろう?
わたくしは、何も申し上げることができませんでした。
和馬さまの身の内に宿る激しい感情を、改めて思いしらされたのでございます……。
そんな日々の中、菊花さまはすぐにみごもられました。
和馬さまとの噂のせいか、菊花さまのご夫婦仲は、決して良いとは申せませんでした。
ですが、菊花さまは婿殿と仲良くされようと努力はしていらっしゃったのです。しかし、努力だけでは上手くいかないのが、男女の仲でございます。菊花さまの努力が、かえって婿殿のお心を傷付けてしまったのでしょう。お子さまが産まれる頃には、お二人の間にはどうしようもない溝ができていらっしゃいました。
そして原口正造があの事件を起こしたのは、菊花さまのご出産から数ヵ月後のことでした……。
※注1 刀剣の柄を覆う袋。多く鐔までかけ、雨・雪の日や旅行のときなどに用いた。
(大辞泉より)