第十三話 過去の楔(4)
笠原村は長い間、都の貴族が支配する領地でした。けれどその貴族が没落し、新興勢力の広瀬家が新たな支配者となったのです。
「ねえ、玲子。新しいご領主さまのところに挨拶に伺うんですって。着物はあたしのを貸してあげるから、一緒に来てね」
「菊花の着物では柄が若すぎますよ。いらっしゃい、玲子。わたしが昔着ていたものを、一枚あげましょう」
わたくしは奥さまと菊花さまの外出時にお供を命じられることが多く、偉い方のお屋敷へ伺う時などは、奥さまが着物をくださることも珍しくありませんでした。
奥さまがくださったのは、美しい菖蒲色の着物でした。わたくしはそれを着て、挨拶に同行いたしました。
一方菊花さまは、桜色の地色に珊瑚色やたんぽぽ色など、少女らしい色を多用した百花模様の着物をお召しになり、女のわたくしですら眩しくて目を細めるほど、それは華やかで愛らしくていらっしゃいました。
そして、どこもかしこも爽やかな風が通り抜け、村中が生き生きとした青葉で飾られている中、和馬さまが笠原村においでになったのです。そのお姿は大層若々しく、この方は輝いた道を歩むにちがいない――そう思わずにはいられないほど、凛々しくていらっしゃいました。
馬の背から、館の前に立っていらっしゃる白峰家の方がお見えになったのでしょう。和馬さまは馬から降りられ、会釈をくださいました。
この出来事に旦那さまが感心され、この後、和馬さまは白峰家のご協力を得ることがお出来になったのでございます。
白峰家の協力を得たことは、和馬さまにとって大きな力となりました。
といいますのも、笠原村における事実上の支配者は白峰家であり、以前のご領主も、領地内のことは全て白峰家に一任されていらっしゃいました。それでずっと上手くいっていたのです。ですので、和馬さまが新しいご領主とはいえ、村人達は侵入者を迎えいれるような気分でございました。
しかし、実力者である白峰家当主の力により、和馬さまは新たな支配者と認められることができたのです。
「ねえ、和馬さまって全然威張っていなくて、感じのいい方ね。よかった」
菊花さまも、和馬さまの親しみやすさを無邪気に喜んでいらっしゃいました。そして村に溶け込めるよう、なにかと心を砕き、一生懸命にお世話をされていらっしゃいました。
だんなさまはもともと大人しいご性質のお方でしたので、和馬さまとの間に権力争いのようなものも特には起こらず、大変和やかにその夏は過ぎていきました。
けれども、わたくしは不安でした。菊花さまを初めてご覧になった時の、眩しそうな和馬さまのお顔。
あのように美しくて可愛らしい方が、笑顔でお世話をされるのです。
和馬さまが菊花さまに惹かれてしまうのではないか。そう思っておりました。
奥さまも同じことを感じていらしたのでしょう。肌寒くなる頃から、菊花さまが和馬さまのもとを訪れることに、いい顔はなさらなくなりました。なぜならば、菊花さまには決められた許婚がいらしたのです。
けれど、足下が紅葉で染まる頃――とうとう和馬さまが、菊花さまと結婚したいとだんなさまに話されました。
「ありがたいお話ですが、菊花には許婚がおります」
菊花さまは一人娘のため、今度の冬には婿殿を迎えることになっていらっしゃいました。
「その男とは会ったこともないと聞いている。なんでもしよう。どうにかその縁談を断ってくれないか」
「和馬さまのお立場ならば、菊花を側室として召し上げることもおできになりますのに、このようにお心を尽していただきますことを、まずは御礼申し上げます」
「では……!」
「申し訳ございません。娘のことはお諦め願えませんでしょうか」
「お父さま!」
「広瀬さまは、誠実で優しいお方でいらっしゃいます。本来ならばこちらが頭を下げて娘を頼みますのが筋かもしれません。広瀬さまが通常のご領主でいらっしゃるのなら、そのようにいたしました」
「何が気に入らないのだ」
「広瀬さまは、これから幾度も戦に赴くお方。命の危険にさらされる度合いは、我ら村の者とは比較になりません。菊花は情の深い娘でございます。いつも広瀬さまの御身を案じ、不安な毎日を過ごすことになりましょう。まして広瀬さまに万が一のことでもありましたら、どれほど打ちひしがれることか。わたくしどもは、そのような娘の姿を見ることがなによりも辛うございます」
「……」
「どうぞ、愚かな親心をお察しください」
広瀬家は橘家の家臣として、討伐隊に加わることが既に決定していたそうです。頭を下げるだんなさまを前に、和馬さまは何もおっしゃいませんでした。ただ拳を握り、唇をかみしめていらっしゃいました。
「菊花さま。そのお荷物は?」
和馬さまが帰られたあと、菊花さまをお慰めするために部屋へ伺いますと、大きな荷物がありました。
「なんでもないわ」
「……和馬さまのところに行かれるおつもりですか」
「あたし、和馬を待っていられるわ。和馬のためなら、なんでも我慢できるわ!」
「いけません、菊花さま!」
「どいて、玲子!」
「玲子、手を離しなさい」
わたくしと菊花さまがもみあっていると、静かな声がいたしました。
奥さまのお声でした。