第十話 過去の楔(1)
織音が外に出てみると、英樹が小さな池を眺めていた。
「ねえ、何してんの? 寒いでしょ。中に入ったら?」
背中に抱きつき、腕を英樹の胸に回す。いつも顔をしかめている英樹だが、この家で二人きりの時には緊張感が消えている。突然抱きついても、体が強張ることはまずない。
「そうだな」
織音の言葉に、英樹の雰囲気が和らぐ。
「お風呂を沸かしたからさ、一緒に入ろうよ。こんなところにいたから、体が冷えちゃってるよ」
英樹がゆっくりと振り向いた。そして、織音の体に英樹の腕が回される。厚い肩に頭をのせると、大きな手が織音の頭をそっと包んだ。
「織音」
「二人でいる時はその名前で呼ばないって、約束したじゃない。今は神原の歌い女じゃないんだから」
「美乃里、将一はまだお前のことを諦めてはおらんのか」
「うん……」
織音の心の揺らぎに呼応したかのように、湯船いっぱいのお湯が波打った。
「まだ色々と言ってくるね」
「そうか」
「気にすることないわよ。あの人、他に四人も口説いている女がいるんだから。あたしのことがばれたって、じゃあ次にいくか、で済むわよ」
「そう簡単にはいかぬ。将一の面子というものがある。仕方ない。お前のことはもうしばらく隠しておこう」
「ふーん。あたし、まだ隠される存在でなきゃいけないんだ」
「美乃里」
「仕方ないけどさ」
「もうしばらく辛抱してくれぬか。それよりも、この家に住むという話は考えたか?」
「うん……」
「ここに住めば、いつでも会えるではないか。そうすれば、お前も寂しくあるまい」
「逆だよ」
「なにがだ」
「ここに独りで住んであんたを待つほうが、よっぽど寂しいよ」
「理由がわからん」
「いつ来るか分かんないあんたを、ずっと待つんだよ。ちょっとした物音でもあんたが来たんじゃないかって、神経をとがらせちゃうよ。そんなの、いやだな」
「そうか……」
英樹は黙った。その表情は、庭に佇んでいた時と同じものだ。織音は英樹の頭を胸に抱き寄せて、髪を梳く。
「ねえ。さっき、何を考えていたの?」
「たいした事ではない」
「だけどあんた、哀しそうだったよ」
「そんなことはあるまい」
「ううん、哀しそうだった。こうやって抱き締めたくなっちゃうくらい」
「……昔の事を思い出していただけだ」
「昔の事って?」
「正月には毎年祖父の家へ挨拶をしに行く習慣だったが、一番に着いたのに、本家の将一が先だと言われ、一時間ほど待たされたことがある」
「なに、それ。感じ悪いわね」
「あの時が、己の立場を自覚した最初だと思ってな」
織音は英樹を強く抱きしめた。
「美乃里?」
「あたしが側にいれば、こうやって慰めてあげられたのに」
英樹は笑い、織音の胸に顔を埋める。
「おまえとこうやって、二人だけで生きていければよいのにな」
「本当にそんなことを思うの? 歌い女のあたしと?」
「当たり前ではないか」
「そっかあ……。そうなんだ」
織音はもう一度、英樹をぎゅっと抱きしめた。
「どうした?」
「嬉しい。あたし、嬉しいの……」
織音の瞳からこぼれる涙。白い肌を伝わって、湯の中で溶けていく。
英樹の唇が、頬の涙をすくった。柔らかいその感触に、織音の心は安らいだ。
「おまえのためにも、俺は己の心に負けはせん。どんな甘言をささやかれようと、俺は……」
英樹の腕が、織音の肩に回される。そして、きつく抱きしめられた。
「英……」
織音は言葉を続けることができなかった。英樹の唇が重なって、織音の疑問を封じ込んでしまう。いつになく激しい愛撫が、心の内にしまいこんだ英樹の葛藤を物語っていた。
「英樹……」
織音は全身で、それに応える。
もっと強くあたしを抱きしめて。
あんたの心が、あたしの肌であたためられるように。
あんたの苦しみが、あたしの汗で流されてしまうように。
浴室にこもる湯気が薄い雲となり、外に流れていく。けれど汗をかいた身体には、冷えていく空気が気持ちいい。
やがて、心地よい疲労が織音に訪れる。
英樹の胸に頭を預け、織音は気だるい陶酔に身を委ねた……。