砂つぶはまだ落ちる
旧校舎三階の進路資料室は、学校のなかでいちばん時間が遅い場所だった。
壁際には十年前の大学案内が斜めに積まれ、棚の上には色あせた赤本が年度順を失って並んでいる。窓のアルミサッシは開けるたびに情けない音を立て、午後五時前の西日は、掃除の行き届かない床の埃を金色に見せた。
「ここ、落ち着くよな」
佐野悠希がそう言うと、窓際でスケッチブックを広げていた白石美緒は、鉛筆を動かす手を止めずに答えた。
「落ち着くっていうか、誰にも急かされないだけでしょ」
「それを落ち着くって言うんじゃないの」
「逃げ場とも言う」
返事が正確すぎて、悠希は笑えなかった。
鞄の底には、三回目の進路希望調査票が入っている。第一志望の欄は白紙のままだ。地元の工務店を継ぐなら建築系、外に出るなら都市工学。どちらも本当で、どちらも嘘のように思えた。
美緒の机にも、芸術系大学のパンフレットと、地元短大の資料が重なっていた。彼女は絵を描く。体育祭のポスターも、文化祭の立て看板も、誰かに頼まれる前から描いてしまうくらいには描く。けれど家では「趣味は趣味」と言われているらしい。本人はその話になると、いつも鉛筆を削り始める。
だから二人は、放課後になると資料室に来た。決めるためではなく、決めないまま時間を薄くのばすために。
異変に気づいたのは、美緒が窓辺の砂時計を指で弾いたときだった。
資料室の古い備品で、誰が置いたのかもわからない。普段なら三分で落ちる砂が、今日は一粒も落ちていなかった。いや、よく見ると落ちている。けれど一粒が上のくびれを通り抜けるまでに、息を三回吸っても足りない。
「佐野くん」
「見てる」
二人は同時に窓の外を見た。校庭では野球部の打球が一塁線の上で止まりかけていた。完全に止まってはいない。ボールも、走者も、夕方の雲も、全部が蜂蜜のなかを進むみたいに遅い。
ただ、資料室の中にいる二人だけが普通に動けた。
「時空異常、ってやつ?」
美緒が言った。怖がっている声ではなかった。むしろ少しだけ、望んでいたものが本当に来てしまった人の声だった。
「なんでここだけ」
「ここが、いちばん止まりたがってるからじゃない」
彼女の言葉に合わせるように、窓から差す光の中で埃がぴたりと静止した。細かな粒が空中に吊られ、見えない星座みたいに資料室を満たしていく。悠希が指先で触れると、埃は逃げずに、小さな波紋だけを残した。
波紋は棚へ、机へ、二人の鞄へ広がった。悠希の白紙の調査票が淡く光る。美緒のパンフレットも同じ色で光る。
「未提出物が犯人みたいになってる」
「笑えない」
「うん。笑えないね」
美緒はスケッチブックを閉じた。表紙には、彼女が何度も描いた跡で黒ずんだ手のあとが残っている。
「私、本当は東京の美大を受けたい」
その一言で、砂時計の砂が少しだけ動いた。
悠希は息を止めた。美緒は窓の外を見たまま続ける。
「でも、言えない。お金のこともあるし、母さんは地元にいてほしそうだし。落ちたら、才能ないって証明されるみたいで怖い。だからここで描いてた。誰にも見せなければ、下手だって言われないから」
止まっていた埃が、彼女の周りでわずかに震えた。資料室の時計の秒針が、こつん、と半目盛りだけ進む。
「佐野くんは?」
聞かれるとわかっていたのに、悠希は調査票を取り出すまで時間がかかった。紙は鞄の中で折れて、角が丸くなっていた。
「俺は、地元に残るのが嫌なんじゃない。親父の仕事も、この街も嫌いじゃない。でも、それだけで決まっていくのが怖い。自分で選んだんじゃなくて、最初から敷かれてた線路を歩いただけになる気がして」
「じゃあ、外に出たいの?」
「見たい。外からこの街を見たい。戻るかどうかも含めて、自分で決めたい」
言い終えた瞬間、資料室全体が低く鳴った。棚の古いパンフレットが一斉に震え、背表紙から細い光が漏れる。無数の大学名、専門学校名、職業名が、空中に浮かび上がった。それらは未来の候補というより、二人が見ないふりをしてきた出口の表示だった。
美緒が小さく笑った。
「すごいね。進路資料室、本気出してきた」
「学校でいちばん地味なSFだ」
笑うと、少し息ができた。
けれど外の時間は、さらに遅くなっていた。校庭のボールはもうほとんど止まり、廊下を歩く生徒の足音も、遠くで引き伸ばされたテープみたいに歪んでいる。このままなら、資料室だけが現在から剥がれていくのかもしれない。
「止め方、わかる気がする」
美緒は机に置かれた進路希望調査票を見た。
「決めること?」
「違う。たぶん、逃げてたって認めること。それから、今日できる一個をやること」
美緒は新しい紙を取り出し、第一志望の欄に大学名を書いた。手が震えていた。けれど字は最後まで途切れなかった。
「私は受ける。落ちるかもしれないし、親と喧嘩になるかもしれない。でも、描きたいって言う。ちゃんと言う」
悠希もペンを握った。都市工学、と書いてから、備考欄に小さく「将来、地元のまちづくりに関わりたい」と足した。書いてみると、それは言い訳ではなく、まだ形になっていない願いだった。
「俺は外に出る。戻るためか、戻らないためかは、まだわからない。でも、わからないままでも選ぶ」
二人の紙が同時に光った。
砂時計の砂が、ざあっと音を立てて落ち始めた。止まっていた埃が対流に乗り、野球部の打球が一塁線を越え、廊下の足音が普通の速さで近づいては遠ざかった。世界が咳払いをするみたいに、放課後のざわめきを取り戻していく。
美緒は目元を指でぬぐい、少し照れたように笑った。
「私たち、付き合ってるわけでもないのに、別れ話みたいなことしてる」
「まだどこにも行ってないのにな」
「でも、ここに残る約束はしない」
「俺も、待っててとは言わない」
それは冷たい言葉ではなかった。むしろ初めて、互いをちゃんと別の人間として見た言葉だった。
資料室を出ると、廊下はもうただの古い廊下だった。薄緑のタイルには傷があり、掲示板の画鋲は二つ足りない。窓の外では、夕焼けが校舎の端を赤く染めている。
二人は職員室まで歩き、担任に調査票を出した。先生は「やっとか」とだけ言って、二枚の紙をクリップで留めた。その小さな音が、なぜかとても確かなものに聞こえた。
校門で、美緒は駅の方へ、悠希はバス停の方へ向かった。
「明日、資料室行く?」
美緒が振り返らずに聞いた。
「行く。でも逃げにじゃなくて、資料を探しに」
「じゃあ私も。デッサンじゃなくて、募集要項を見に」
二人は笑った。それから今度こそ、別々の方向へ歩き出した。
世界はもう止まっていない。砂粒は落ち、秒針は進み、締め切りは近づいてくる。
それでも悠希は、胸の奥が軽くなっているのを感じていた。未来が優しくなったわけではない。怖いものは怖いままだ。ただ、自分の足音が聞こえる速さで進めばいいのだと、ようやくわかった。
背中の向こうで、美緒のローファーが一度だけタイルを鳴らした。
その音は、止まっていた放課後が未来へ流れ出す、最初の一滴みたいだった。




