重力調整バイト ── 想定外は想定されていない
重力調整バイトは禁止されている。
これは宇宙工学系の学生なら誰でも知っている常識で、試験にも出るし、オリエンテーションでも三回くらい念を押される。
重力制御施設への無許可立ち入りは、国家インフラ破壊行為に準ずる──そんな物騒な文言が、配布資料の三ページ目に太字で書いてあった。
にもかかわらず、僕はその日、重力をいじっていた。
「で、これが重力コアな」
先輩はそう言って、壁に埋め込まれた円筒形の装置を軽く叩いた。
コン、と鈍い音がする。なんというか、叩いていい類のものには思えなかった。
「叩いたら危ないんじゃないですか」
「大丈夫だよ。叩いて壊れるなら、とっくに宇宙終わってる」
終わってないから大丈夫、という理屈らしい。
相変わらず雑だな、と思った。
ここは小惑星帯観光用リングステーション、通称〈リム〉。
人工重力で一周五キロのリングを回し、地球とほぼ同じ一Gを再現している。観光客はここで走ったり、転んだり、宇宙であることを忘れたりする。
その重力を、今から僕たちが「ちょっとだけ」調整する。
理由は単純だ。
設備が古い。
予算がない。
だから夜間の微調整は、学生バイトに回ってくる。
「数値いじるだけだろ?」
と、このバイトを紹介してくれたのも、この先輩だった。
「危なくないんですか」
「危ないけど、死んだやつは見たことない」
その「見たことない」は、たぶん重要な免責事項だ。
バイトは三人だった。
先輩と、僕と、もう一人──同級生の坂上。
「重力とか正直よくわかんないんすけど」
坂上はヘルメットの内側で笑っていた。
「床に足ついてればOKっすよね」
彼はいつもそんな調子だった。
宇宙に来ても、重力がなくなっても、人生観が変わらないタイプの人間。
「まあ、観光客もそんなもんだ」
先輩が言った。
「数字が狂わなきゃ誰も気づかない」
その「数字」を見るのが僕の役目だった。
僕は計測専攻で、重力値をグラフとして見るのが得意だった。
人が酔うとか、転ぶとか、そういう話より先に、数値のズレが気になる。
だから、このバイトに向いていると判断された。
「ほら、今が1.0002G」
モニターを指さす。
「ちょっとだけ高いですね」
「誤差だよ、誤差」
先輩は椅子に深く腰掛けた。
「0.98と1.02の違いなんて、誰もわかんねえ」
坂上が言った。
「酔う人は、どうせいつでも酔いますし」
それはたぶん正しい。
作業は本当に単純だった。
重力コアの制御端末にアクセスし、微調整値を入力するだけ。
キーボードを叩く感触は、大学の演習室と変わらない。
ただ一つ違うのは、失敗したら、床が天井になるかもしれないという点だ。
「よし、0.9998」
僕が言う。
「いいね」
先輩が親指を立てる。
「これで朝まで放置だ」
坂上が立ち上がり、ぴょんと軽く跳ねた。
「変わんないっすね」
「そりゃそうだ」
先輩が笑う。
「変わったら困る」
そのときだった。
床に置いてあった工具箱が、ほんの一瞬、遅れて落ちた。
「……今の、見ました?」
僕が言うと、二人は首を傾げた。
「普通に落ちただろ」
「気のせいじゃないすか」
気のせいかもしれない。
でも、グラフの線が、ほんのわずかに揺れていた。
0.9998
0.9999
0.9997
心拍数みたいだな、と思った。
「先輩」
「ん?」
「重力、安定してないです」
「どのくらい」
「……0.01G未満ですけど」
先輩は少し考えてから言った。
「誤差だな」
坂上が笑う。
「人間の体感じゃ、絶対わかんないっすよ」
たしかにそうだ。
でも、僕の胸の奥で、なにかが引っかかっていた。
数字は、嘘をつかない。
嘘をつくのは、だいたい人間のほうだ。
モニターのグラフは、ゆっくりと上下を繰り返していた。
まるで、呼吸するみたいに。
重力が安定していない、と言っても、最初は本当にどうでもいい変化だった。
坂上が、さっきより少し大げさに歩くようになった。
歩くというより、若干スローモーションの演技に見えた。
「なんかさ」
坂上が言った。
「俺、今、月にいる気しません?」
「気のせいだろ」
先輩が即答する。
「月だったら、もっと軽いよ」
「じゃあ火星っすかね」
「火星も違う」
「じゃあどこっすか」
「知らん」
僕はモニターを見ていた。
数値は相変わらず、呼吸みたいに上下している。
0.9996
1.0001
0.9995
誤差だ。
そう言われれば、そうとしか言えない。
坂上が今度は、床に落ちていたペンを拾おうとして、少し失敗した。
指先が、ペンを掴む前に空を切る。
「あれ?」
と言って、もう一度。
今度は掴めた。
「……老化っすかね」
「早すぎるだろ」
先輩が笑った。
僕は笑えなかった。
物が落ちる速さが、一定じゃない。
ほんの一瞬だけ、遅れる。
それから帳尻を合わせるように、すっと落ちる。
世界が、計算を間違えている感じがした。
「なあ」
坂上が言った。
「このバイト、時給いいですけど、危険手当とか出ないんすかね」
「出るわけねえだろ」
先輩が鼻で笑う。
「出たら合法になる」
それは確かにそうだった。
坂上は調子に乗って、軽くジャンプした。
着地が、ほんの少し遅れた。
「おお」
と彼は言った。
「今、浮いたっすよね」
「浮いてない」
「浮きましたって」
「浮いたら通報もんだ」
先輩はそう言いながら、僕のほうをちらっと見た。
その視線には、ほんの少しだけ、確認の色が混じっていた。
「……浮いてねえよな?」
僕は言葉を選びながら答えた。
「視覚的には」
数字は、正直だった。
揺れ幅が、0.02Gに近づいている。
「先輩」
「なんだ」
「これ、外から質量引っ張られてる可能性あります」
「デブリか?」
「……たぶん、それより重いです」
先輩は椅子から立ち上がった。
急に、動きが慎重になる。
「観測データは?」
「この時間帯、空白です」
「……だろうな」
坂上が空気を読まずに言った。
「え、なに、俺ら今、重力にモテてる感じっすか」
「黙れ」
先輩が即座に言う。
その瞬間、坂上の体が、ほんの数センチ浮いた。
浮いた、というより──
床から、引き剥がされた。
「うわっ」
彼の足が、ばたつく。
手すりを掴もうとして、空を切る。
「坂上!」
僕が叫ぶ。
次の瞬間、重力が戻った。
坂上は床に叩きつけられた。
「いってぇ……」
彼は仰向けになったまま、笑った。
「今の、絶対月でしたよね」
誰も笑わなかった。
モニターの数値が、明らかにおかしい。
0.97
1.03
揺れ幅が、人間の感覚領域に入っている。
「コア再調整する」
先輩が言った。
「このままじゃ、観光客が騒ぎ出す」
「手動ですか」
「そうなるな」
僕は喉が鳴るのを感じた。
手動調整は、禁止されている。
理由は単純だ。
重力に、近づきすぎるから。
「誰が行きます?」
坂上が起き上がりながら言った。
「じゃんけん?」
坂上が言った。
でも、その声には、さっきまでの軽さがなかった。
「馬鹿」
先輩が言う。
「俺が行く」
「先輩」
「経験者だ」
「でも」
「それに──」
先輩は、少し笑った。
「お前らより、俺のほうが重い人生送ってる」
意味がわからないけど、止められなかった。
重力コアへの通路は、狭く、白く、やけに綺麗だった。
掃除が行き届いているのが、逆に不気味だった。
「戻らなかったら、通報しろ」
先輩が言った。
「十五分だ」
「フラグ立てないでください」
坂上が言う。
「立てとかないと、回収されないからな」
冗談みたいに言って、先輩は中に入っていった。
通路の奥で、重力が歪む。
先輩の足取りが、だんだんおかしくなる。
「……なんだ、これ」
通信越しの声が、少し低くなった。
「下が、下じゃねえ」
モニターの数値が、急激に跳ね上がった。
1.10G
坂上が言った。
「え、これ、やばくないすか」
返事はなかった。
次の瞬間、通信がノイズに包まれた。
重力コアの内部で、何かが「落ちた」音がした。
いや、落ちたんじゃない。
捕まった。
僕は、そう思った。
重力コアの内部は、外から見るよりずっと狭かった。
先輩の声は、通信越しにくぐもって聞こえる。
まるで、水の中で喋っているみたいだった。
「おい、数値、どうなってる」
「……上がってます」
僕は正直に答えた。
「1.12Gです」
「そりゃ重いわけだ」
先輩は苦笑したような声を出した。
「足が、床に縫い付けられてる感じだ」
坂上が横から言った。
「縫製ミスっすね」
誰も笑わなかった。
モニターのグラフは、さっきまでの呼吸みたいな動きをやめていた。
代わりに、下からぐっと引っ張られるような、いやらしい形をしている。
重力井戸。
教科書でしか見たことのない単語が、頭に浮かんだ。
質量が近づくと、重力場が歪み、抜けられなくなる。
人間にとっては、沼みたいなものだ。
「先輩、無理しないでください」
僕は言った。
「戻ったほうが──」
「戻ろうとしてる」
先輩は言った。
「けどな、戻る方向が、どっちかわからん」
一瞬、冗談かと思った。
でも、次の言葉で、それが違うとわかった。
「上と下が、絶えず入れ替わってる」
坂上が口を開いたまま固まった。
「……それ、酔いません?」
「酔う」
先輩は即答した。
「めちゃくちゃ酔う」
通信の向こうで、何かが金属に擦れる音がした。
靴底が、床を引っかいている音。
「手、伸ばすぞ」
先輩が言った。
「誰か、引っ張れ」
坂上が慌ててハーネスを掴んだ。
だが、先輩の体は、ほとんど動かない。
「……重い」
坂上が言った。
「先輩、重すぎますって」
「それなりに色々な」
「いや、人生じゃなくて!」
それでも、坂上は引いた。
顔を真っ赤にして、歯を食いしばって。
先輩の手が、数センチ、こちらに近づいた。
でも、そこで止まった。
「無理だな」
先輩が言った。
不思議と、落ち着いた声だった。
「俺、これ以上動かない」
「嘘でしょ」
坂上の声が、震えた。
「さっきまで動いてたじゃないですか」
「さっきは、まだ軽かった」
「……軽いって」
先輩は、少し笑った。
「重力ってのはな、気づいたときには、もう遅い」
僕はモニターを見ていた。
数値は、1.18G。
これ以上上がれば、坂上も危ない。
「坂上」
僕は言った。
「離れろ」
「は?」
「このままだと、お前も引っ張られる」
「でも」
「離れろ!」
坂上は、先輩を見た。
ヘルメット越しに、目が合った気がした。
「坂上」
先輩が言った。
「いいから、離せ」
「……先輩、ずるいっすよ」
坂上は、無理に笑った。
「こんなとこで、格好つけないでくださいよ」
「格好つけてない」
「じゃあなんすか」
「もう、十分だ」
その言葉が、妙に静かだった。
坂上は、ゆっくりと手を離した。
先輩の体が、ほんのわずか、奥に沈んだ。
まるで、見えない泥に足を取られるみたいに。
「なあ」
先輩の声が、少し遠くなった。
「このバイト、時給いくらだっけ」
「……聞いてません」
坂上の声が震えた。
「だろうな」
通信の向こうで、先輩が笑った気がした。
「命の値段は、いつも、聞いた後に分かるもんだ」
数値が1.25Gを超えた。
「先輩?」
坂上が呼びかける。
返事はなかった。
モニターには、ただ数字だけが表示されていた。
正確で、冷たくて、何も言わない数字が。
重力コアの内部が、静かになった。
坂上は、その場に座り込んだ。
さっきまで冗談ばかり言っていた奴とは思えないほど、静かだった。
「……俺」
坂上が言った。
「さっきまで、浮いたの、楽しいとか思ってました」
僕は何も言えなかった。
「重力って」
坂上は続けた。
「ちゃんとあるほうが、いいっすね」
その言葉が、やけに胸に残った。
モニターの数値が、少しずつ下がり始めていた。
先輩が、最後に調整を入れたらしい。
施設は、助かる。
観光客は、明日も走って、転んで、写真を撮る。
何も知らずに。
坂上が立ち上がった。
「……俺、もう、重力いじるバイト、やめます」
「たぶん、できなくなる」
僕は言った。
「それでもいいっす」
彼は、弱く笑った。
「ちょっと、重すぎました」
その笑いは、もう冗談じゃなかった。
夜が明けた。
正確には、夜明けという概念はここにはないのだけれど、観光ステーションの照明が「朝モード」に切り替わったことで、そう感じただけだ。
リングの向こう側で、観光客が目を覚ます。
シャワーを浴びて、朝食を食べて、今日も宇宙でジョギングをする。
重力は、ほぼ一G。
完璧だった。
僕と坂上は、制御室の床に並んで座っていた。
さっきまで立っていたのに、どうしても立つ気になれなかった。
「……これ、報告どうするんすかね」
坂上が言った。
「規定どおり」
僕は答えた。
「数値異常、外的要因、手動再調整。人的被害なし」
「人的被害」
坂上は小さく笑った。
「便利な言葉っすね」
僕は何も言えなかった。
報告書は、驚くほど簡単だった。
テンプレートに沿って、チェックを入れ、数字を打ち込むだけ。
重力コア内部で起きたことは、「一時的なアクセス不能」として処理された。
先輩の名前は、どこにも書かなかった。
書く欄が、なかった。
── 正確には、書くための項目が最初から存在しなかった。
“想定外の出来事は、想定されていない”
それがこの仕事のルールだった。
指を動かせば書けた気がした。でも、指は動かなかった。
朝の便で、僕たちは地球圏に戻った。
シャトルの床は、やけに重かった。
立つと、足の裏がきちんと床に吸い付く。
それが、妙にありがたかった。
「……地上って、こんな重かったっけ」
坂上が言った。
「こんなもんだよ」
僕は答えた。
「前から」
「前から、こんなに、ちゃんと立ってたんすね」
「そうらしい」
地球は、相変わらず青かった。
何も知らない顔で、回っていた。
バイト代は、三日後に振り込まれた。
深夜割増、危険手当なし。
でも、金額だけ見れば、悪くなかった。
坂上は画面を見て、しばらく黙っていた。
「……これ、使っていいんすかね」
「使わなきゃ、意味ない」
僕は言った。
「使って、忘れるための金だろ」
「忘れられます?」
「無理だな」
坂上は、少し考えてから言った。
「じゃあ、重たいもん買います」
「重たいもん?」
「鉄アレイとか」
「なんで」
「持ってるときは、余計なこと考えなくて済みそうなんで」
それは、彼なりの冗談だった。
でも、笑えなかった。
学校では、何事もなかったように講義が進んだ。
重力制御の授業もあった。
教授は言った。
「重力は数値で管理できます。人間の感覚は、あてになりません」
僕はノートを取る手を止めた。
数字は、確かに正確だ。
でも、感覚が嘘をつくとは、もう思えなかった。
坂上は、その授業を途中で抜けた。
あとで聞いたら、退学手続きをしたらしい。
「もう、軽い人生でいいっす」
と、最後に言っていた。
それからしばらくして、〈リム〉の観光広告を見た。
笑顔の人たちが、宇宙で走っている。
キャッチコピーは、こうだ。
「地球と同じ重さの、最高の休日を」
僕は、少しだけ画面から目を逸らした。
重さは、同じじゃない。
たぶん、もう。
夜、部屋で一人、床に寝転がる。
体が、ちゃんと床に引っ張られる。
重力は、確かにある。
それは、数字じゃなくて、感覚として。
思い出も、同じだった。
どこにも表示されないのに、確実に、引っ張ってくる。
あの夜、先輩が言った言葉を、ふと思い出す。
――重力ってのはな、気づいたときには、もう遅い。
僕は、天井を見上げた。
天井は、落ちてこなかった。
それでいい、と思った。
少なくとも今は、ちゃんと、ここに立っている。
重力に、捕まらない程度の場所に。
宇宙のアルバイトと同系の作品です。
良ければ【宇宙のアルバイト─最終日─】もご一読くださいませ。




