渇き鬼 終
三十年前、「大事なものをよこせ」
泥と血の防空壕の奥で、俺は大男に言われるままペンダントを差し出した。
中には、まだ生まれたばかりの娘の小さな顔写真。
「これで水をやる」――そう言って奴は錆びた水筒を渡し、暗闇に消えた。
俺はそれをただの取引だと思っていた。
──そして今。
夜の村外れ、古井戸の前で、奴は再び立っていた。
あの頃よりも毛皮は湿って重く垂れ下がり、鬼面の奥からは水のように濁った目が覗いている。
その隣には、白いワンピースを着た娘が立っていた。
表情は穏やかで、だが瞳はどこか遠くを見ていた。
「やめろ!その子は関係ないだろ!?」
「いや、お前は貴重な水のかわりに交換したんだ。おれはその品を今日受け取りに来た。」
奴の大きな手には、あのペンダントがあった。
錆びつき、ガラスの内側には泥水が染みていたが……中の写真は、まるで昨日撮ったように鮮明だった。
ただし、その娘の顔は今の年齢になっており、瞳は真っ黒だった。
俺が駆け寄ろうとすると、大男がペンダントを差し出してきた。
「ちっちっち。安心しろ。ちゃんと死体にしてやるから。」
その口元からは泥と藻の匂いが混じった息が漏れ、背後の井戸からはボコボコと泡の音が響いていた。
娘はゆっくりと井戸の縁に足をかけた。裸足が触れるたび、井戸の石に水が染み込んでいく。
「父さん、ありがとう。水の精算に私は行くわ。さようなら」
声は優しかったが、その足首から上がってくる泥は生き物のように蠢いていた。
俺が叫ぶより早く、大男は娘の肩を軽く押した。
その瞬間、井戸の底から巨大な水音とともに冷気が吹き上がり、二人の姿は水飛沫に溶けるように消えた。
地面には、水筒とペンダントだけが残っていた。
ペンダントを開くと、中の写真にはもう誰も写っていなかった。
ただ、ガラスの奥で水滴がひとつ、内側から落ちた。