渇き鬼
――耳が、聞こえない。
砲撃の轟音がようやく遠のき、代わりに耳鳴りが脳の奥をしびれさせている。
土の匂い、焦げた肉の匂い、火薬の刺激臭が入り混じり、息を吸うたびに肺が痛む。
視界は灰色の靄に覆われ、何が天で何が地かもわからない。
何かが俺の胸に覆いかぶさっていた。
重い……そして、生ぬるい。
指先で確かめると、それは仲間の兵士だった。背中が破片で裂け、制服は血と泥で硬く固まっている。
頬を近づけると、もう呼吸はなかった。
彼の体が砲弾の破片を受け止め、俺を生かしたのだ。
喉がひりつく。
舌は砂を噛んでいるようにざらつき、唾も出ない。
俺は仲間の亡骸を押しのけ、膝をついて立ち上がった。
腰の水筒は、撃ち抜かれたのか穴が空いていて、泥水がこびりついているだけだった。
銃はなく、腰の弾薬袋も空。
唯一の武器は、足元に転がっていた錆びたシャベルだった。
遠くでまた砲声が響く。
土塁の影を伝いながら、まだ残っているかもしれない防空壕を探す。
生き延びるためには水がいる。それがなければ、ここで干からびて死ぬだけだ。
壕の入口を見つけ、這うように中へ入る。
暗闇、湿った土の匂い……だがそこに息遣いが混ざった。
懐中電灯の光がこちらを舐め、影が壁に長く伸びる。
敵兵だった。
互いに声を発するより先に、体が動いた。
俺はシャベルを振り上げ、光の中へ踏み込む。
金属が骨に当たる鈍い感触、短い呻き声。
敵兵が倒れたが、その瞬間、熱い衝撃が脇腹を撃ち抜いた。
呼吸が荒くなる。
腹の中で何かが暴れているような感覚と、温かい血が服を濡らす感覚が同時に押し寄せる。
痛みで足元が揺れ、目の前が暗くなる。
……死ぬ。
そう思った時、手が銃に触れた。
俺は震える手で銃身を外し、壕の壁に置かれたランプの炎に押し付けた。
金属が赤く染まり、やがて白に近い輝きに変わった時、それを脇腹に押し当てた。
焦げる音と、肉の焼ける匂い。
口から声にならない叫びが漏れ、涙が勝手に流れた。
痛みで視界が白く染まるが、それでも手を離せば血が止まらない。
やがて銃身を投げ捨て、壁にもたれた。
息は早く、心臓の鼓動が耳の奥で爆ぜている。
しかし……喉の渇きは、それらすべてを上回っていた。
舌は乾ききり、唇がひび割れる。
意識が霞み始め、景色が遠ざかっていく。
耳鳴りの奥で、何か重い足音が響き始めた。
最初は、また敵兵だと思った。
シャベルを握り直し、暗がりを睨む。
――だが、出てきたのは人間ではなかった。
毛に覆われた巨体。
二メートルを優に超える背丈、肩幅は戸口を塞ぐほど広い。
顔には鬼の面のような骨格が刻まれ、濁った黄色の目が闇の中で光っている。
生暖かい息が血と泥の匂いに混ざり、鼻を刺す。
「お前、生きてるのか……残念だ」
声は低く、地面から響くようだった。
「生きてるなら、何かよこせ。かわりに何かくれてやる」
巨人は背負った包を投げ下ろした。
中には軍帽、懐中時計、指輪、煙草、そして水筒。
どれも、戦死した者から奪ったのだと直感でわかった。
喉が勝手に動き、俺は水筒を指差した。
「……それを……くれ」
「これは、この場所では命より貴重だ」
巨人は笑い、歯の間から黒い唾液が垂れた。
「大事なものをよこせ」
ポケットを探り、唯一残った物――胸ポケットの小さな写真を取り出す。
妻と、生まれたばかりの娘の笑顔。
巨人はそれを奪い取り、懐に押し込むと、水筒を投げた。
蓋を開け、一口飲む。
鉄のような味と、腐った匂いが口いっぱいに広がった。
巨人の輪郭が揺らぎ、煙のように滲んでいく。
「……ありがとな」
その声を最後に、俺の意識は闇へと沈んだ。
――目を覚ますと、壕の中には死体と、転がった空の水筒だけが残っていた。