乙女ゲームの中の≪喫茶店の店長≫というモブに転生したら、推しにロックオンされた。
私は田中いつき。
しがない飲料メーカー勤め。
毎日ノルマと納期に追われては、夜な夜な乙女ゲームでときめきを補給して生きている。
今ハマってるのは、『ときめき☆青春学園~キミの隣は空いてますか?~』。
王道の学園もの。選択肢によるストーリー展開・パラメーター育成。バッドエンドなしの安心設計。
プレイ済み周回50回超え。全ルート制覇済み。
キャラの誕生日も好きな飲み物も、ぜーんぶ暗記済み。
社畜生活で枯れた私の心には、こういう青春が必要なのだ。
今日も風呂上がりのビール片手にゲーム機を握って、
「さてさて、今日は誰と青春するかなー」
そうつぶやいて、いつものようにゲームスタートボタンを押した――
◇ ◇ ◇
……はずだった。
次の瞬間、ふわっと意識が浮き上がったかと思うと、まぶしい光とともに視界が開けた。
気がつけば、私は――知らない場所にいた。
木の香りのするカウンター。棚にはティーカップと、コーヒーサイフォン。
レトロな振り子時計が、コチコチと時間を刻んでいる。
「……え?」
見知らぬ景色。でも、どこかで見たことがあるような。
この木目調の内装。アンティークのランプ。
――これはまさか……
ゆっくり立ち上がる。後ろにある鏡を見ると、映ったのは自分じゃない。
黒髪のショートカット、整った顔立ちの少女。せいぜい16歳かそこら。制服でも私服でもなく、落ち着いたシャツにエプロン姿。
「え……これ、私?」
首元には、名札がついていた。
《Karin》と、その右下に小さく《Polaris》やたら意味深な文字。そう、これ――
「これ、カフェ・ポラリスじゃん……!」
声が震える。
この店、知ってる。というか、何十回も見てる。
『ときめき☆青春学園』の放課後デートスポット。
女主人公と攻略キャラが恋愛イベントをこなす、背景の喫茶店だ。
そしてこの名札……ゲーム中にたまに見切れてる店長(名前なし)!
女主人公に「おまかせで」って言われて、ドリンクを無言で出す、あの謎モブ!
「ちょ、まって……待って待って……なんで私、カフェのモブ店長になってるの!?」
おかしい。
私は確かに家でビール飲んで、ゲーム起動して……その次がこれ?
「ていうか、 若っ!! OLの私はどこいった!? 会社は!? 残業代は!? 」
あわててポケットを探ると、スマホもない。
カウンターの隅、レジの横にはバリスタ検定の参考書と文庫本サイズの小さなノート。
ノート中を見ると、持ち主の名前は「果林」になっていた。しかも、日記らしきノートにはこう書かれていた。
『パパとママが海外に旅立ってから、私が店を継いで、もうすぐ半年』
『バリスタ検定に向けて、今日も勉強』
……情報整理しよう。
私の名前が「果林」になってる(転生の証明)
見覚えのある喫茶店(ゲームの背景)
バリスタを目指してる(店長設定)
親が海外に行った(世界観的テンプレ)
これってつまり――
「まさか、私……乙女ゲームのモブに転生してる!?」
叫びそうになる口を両手で押さえる。
その直後に店の扉が開かれた。
――カランコロン、と可愛らしいドアベルの音。
「こんにちは、二人です」
……その声を聞いた瞬間、私は心臓が止まるかと思った。
え、ええ!? ちょっと待って……!
この声、この響き、この抑揚……まさか、まさか、まさか――
ゆっくり顔を上げた私は、完全に時が止まった。
目の前に立っていたのは、制服姿の少女と、そして――
銀灰色の髪、端整すぎる顔立ち、長いまつげに伏し目がちな瞳。
佇まいからして“異質”なほど洗練された空気をまとう少年。
東堂環。
モデルもこなすミステリアス系男子。
成績優秀・運動神経抜群・人当たりはいいけど、なかなか本音は見せない。
推し……私の激推し……!
出たーーーーーーーー!!!
生・東堂環、降☆臨!!!
顔ちっっさ!! 脚ながっ!! 肌つやっつや!!
公式ビジュアルの数億倍美しいんだけど!? どうなってるの世界!!!?
何この透明感、息してる? 二次元の限界突破してない!? いやこれ三次元か!!!
え、これ幻覚!? 死ぬ!? 死んでる!!!?
(尊……尊い……酸素が……足りない……)
あかん。無理。推しを前にしてまともな接客なんてできるわけがない。
というか、これ絶対放課後デートのタイミング。
私、邪魔したらダメなやつじゃん!背景に徹しなきゃ!!!!
ど、どうしよう……ッ!!
どんな顔すればいいの!? 普通って何!?!!?
「い、いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」
カウンター越しの笑顔が引きつってないことを祈る。
お願い、今だけでいいから営業スマイルレベルMAXになって……!
心の中で「社会人スキル・発動!」って叫びながら、ぎこちなく手を差し出した。
「ありがとうございます。……じゃあ、窓際の席にしようか」
東堂くんが女主人公に穏やかに微笑む。
はい無理ーーーー!!!
その笑顔、破壊力がやばい。どこまでが現実で、どこからが視覚バフ!?
しかも、生声が……生声が耳に残る……!
あああ、もう落ち着け私。冷静になれ、田中いつき。
……いや、果林だった。転生モブ女子、ただいま接客中。
とにかく流れを確認。ゲーム通りなら、ここで――
メニュー選択のあの画面が出るはず。
――ピンッ。
ほら来た、女主人公の頭の上に浮かぶ青いウィンドウ。
背景が半透明の、見覚えしかないUI。選択肢が浮かんでる。
しかも、見えてるの私だけ!? モブなのに視認できちゃう仕様、なんなの!?
でもありがとう。これで流れは完全に読める。
選択肢は三つ。
A 紅茶
B コーヒー
C おまかせ
「あの、おまかせメニューでお願いできますか?」
……まじか。
それ、いくんだ。
ゲームでは、AとBは“攻略対象の好みを当てる”用の選択肢。
当たれば好感度+1。でも、外したら何も起きない。(ちなみに環くんはAです)
でもCは違う。“おまかせ”は、完全なる博打。
うまくいけば一気に好感度+5とか、レアイベント発生とかあるけど――
失敗すれば、好感度ガッツリ下がることもある!!
さくらちゃん(女主人公デフォルト名)、チャレンジャーすぎない!?
いや、わかるけど! その気持ち、超わかるけど!
だって環くんって、最初まじで情報が少ないもんね。
部活にも入ってないし、学校でのイベント発生率低いし、会話もミステリアスの極み。
ガート堅いし、初期段階で好感度上げる術が少なすぎる。超攻略難易度高いキャラなのよ。
だからこそ、わかる……そのおまかせ、ワンチャンに賭ける乙女心……!!
「……じゃあ、僕も。同じもので」
環くんが静かに言った。
ほんの少しだけ、目を見開いたような、驚いたような――
そんな反応をしてから、さくらちゃんと同じドリンクを注文してきた。
うん、同じものを頼むのもゲームの流れ通り。
ということは、これ、私、今ここで変なもの出したら恋の進行に水さすやつ!!!
攻略妨害系モブなんて絶対イヤなんですけど!?!?
「おまかせドリンク2つですね。少々おまちください」
よし……考えよう。ここは腕の見せ所。
まず、さくらちゃん用に一杯。
これは彼女にとっての“恋のスタート地点”になるドリンク。
だから、恋と青春のはじまりを感じさせる、フレッシュで可愛い一杯がいい。
――たとえば、桃とローズヒップのピンクソーダ。
シュワっとした炭酸に、花びらを浮かべて、甘酸っぱい青春の味。
見た目も映えるし、恋する乙女にぴったりのドリンク!
そして、問題は……環くん。
プラス効果を狙うなら、ここで環くんの心に刺さる一杯を出さなきゃならない。
単純に、好みに合いそうなものを出せば好感度上がるかな?
できれば特殊イベント発生やアイテム獲得も狙いたいところだけど……難しい。
だって今の環くん、けっこうナイーブな状態なんだよね。
表向きは穏やかで、笑顔も見せるけど――
その裏では、モデルの仕事のストレスと、将来の不安に揺れてる時期。
学校でうまくやってるように見えるけど環くん自身は馴染めてないと思ってるし、でも周囲に本音は話せない。
そう、ちょっと孤独で、ちょっと疲れてる。
初期の環君はかなり不安定なのだ。
だったら、今の彼に必要なのは――
やさしい香りと、安心感のある味。
私の手が、自然と動いた。
グラスに注ぐのは、エルダーフラワーとライムのハーブソーダ。
炭酸はほんのり弱めに調整して、ミントを軽く添える。
グラスの縁には、凍らせたエディブルフラワー。透明感のある青が、涼しげに揺れる。
これは、心がすっと静かになる飲み物。
肩の力を抜いて、ふと息をつきたくなるような――
そんな彼の、“今”に寄り添う一杯。
「お待たせしました」
私は、二人のテーブルにそっとグラスを置いた。
……どうか、この一杯が、二人の物語の始まりになりますように。
そして、環くんの疲れた心にも、少しだけ――
この味が、残りますように。
透き通ったピンクと、やさしい青のコントラスト。
ガラスの縁に飾られたエディブルフラワーが、午後の陽射しを受けて淡く光を反射していた。
小さく、やわらかく、色づいた春のしずくみたいに――美しい一杯。
「わあ……っ」
さくらちゃんが、思わず声を漏らした。
目をぱちくりと見開き、ピンクのグラスを両手で包みこむようにして見つめている。
その視線は、完全にキラッキラの乙女モード。
「可愛い……なんか、ジュエリーみたい……! ……すごい、飲むのがもったいないくらい……」
頬がふわっと染まっているのは、照れか、ときめきか。
たぶん、どっちも。
一方、環くんは――
グラスに手を伸ばしたまま、しばし無言だった。
けれど、その静かな視線は、確かにグラスの中に注がれていた。
氷がカランと音を立てる。
指先が触れた瞬間、彼のまつげがわずかに震える。
「……ライム……ミント……あとはなんだろう……」
言葉は淡々としているのに、まるで香りそのものを確かめるように、ゆっくりと――丁寧に話す。
その姿に、どこか張りつめた空気がほどけていくのを感じた。
「……きれいだね」
ポツリと、環くんがつぶやいた。
その言葉が、まるでこのグラスを通して、何か奥のほうにあるものに届いたような――
そんな気がして、私は思わず胸の奥がぎゅっとなった。
環くんがストローを唇にあてた、その一瞬。
私の脳内では、全警報が作動した。
(ストロー!! 環の唇が!! 触れてる!!! )
(これ記録したい!! スクショ!! スチルください公式さん!!!)
もはや酸素が足りない。呼吸が追いつかない。
「……ふふ」
環くんが、少しだけ笑った。
「面白い味だ。でも、好きかもしれない。なんか、すごく……落ち着く」
えっ……
えっえっ……今、笑った!? 環くんが、ちゃんと笑った!?!
ちょ、誰か!!! ログ保存して!!! 尊い!!!!
そして、“落ち着く”きたこれ!!
心身ともに疲れている環君の“落ち着く”はかなりキーワードです!!!!
完全にこれ、イベント成功フラグじゃん!!!(※ガチ勢確信)
「わあ、こっちもすごく美味しい……!」
主人公のさくらちゃんが、嬉しそうにピンクのドリンクを覗き込んでる。
「桃の香りと、お花みたいな風味? 飲んだことない味かも!」
うんうん、さくらちゃんの反応も完璧。
すごいよ私! OL時代の商品開発経験がまさかこんなところで役に立つとは……!
「このドリンク、オリジナルですか?」
不意に、環くんの声が落ちてきた。
柔らかい声。
「うっ……あっ、は、はいっ」
思わずしどろもどろになった。
あかん、推しから直球で話しかけられると脳がバグる。
「……美味しいです。ありがとう」
し、しんだ…………
今、完全に褒められた…………環くんに…………私、褒められた…………
完全に尊死した。尊みの極み。ありがとう世界。
……なのに。
なのに――
UIが、出ない。
(あれ……? え、今、あんなにいい感じだったよね!?!?!)
私は思わずヒロインの頭上を見た。
青い選択肢ウィンドウ、「好感度+○」の表示が出るはずだ。
そうでなくても何かしらの結果が表示されるはず。
しかし、――何も出ない。
(え、ウソ。失敗? 嘘でしょ!? めちゃくちゃいい空気だったじゃん! あのドリンクも笑顔も、手応えMAXだったのに!?)
……思わず、胃のあたりがキリキリしてくる。
その間に、環くんとさくらちゃんは軽く会話を交わし、お礼を言って、そっと席を立っていった。
ドアベルがチリンと鳴り、店内に静けさが戻る。
(……ごめん、さくらちゃん。イベント背景のモブじゃ、力になれないみたい……)
ただのモブポジに戻って、静かにグラスを片付ける。
青春のキラキラした空気だけが、まだ店内に残っている気がした。
……それはそれで、ちょっとだけ、切なかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
ベッドの中、天井を見つめながら、私はぐるぐると思考の渦に沈んでいた。
(あれって……やっぱり、失敗だったのかな)
あの“ピンクと青のドリンク”。
さくらちゃんも、環くんも、ちゃんと笑ってくれてた。
雰囲気だって、悪くなかった。むしろ、良すぎたくらいで。
なのに、UIは出なかった。
(環くん、社交辞令で言ってただけだったりして……)
思い返すほどに、不安になる。
「……ううう、考えすぎ……もう寝よう……」
でも、目を閉じても、まぶたの裏に環くんの微笑みが焼きついて離れなかった。
あのとき言われた、「ありがとう」の声。
あれだけで、心がふわっとほどけるくらい、うれしかったのに。
なのに、報われなかったような気がして、
どこか、置いていかれたような気がして――
私は、きゅっと毛布にくるまりながら、
まだ少しだけ、胸の奥が苦いまま、眠りについた。
◇ ◇ ◇
――そして翌日。
カラン、コロン。と、
いつものように、喫茶ポラリスのドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま――」
振り返って、私は目を見開いた。
そこに立っていたのは――環くん。ひとり。
えっ? えっ? えっ?
今日、一人!? なんで!?!?
「……あの」
彼が、少し照れたように目をそらしながら、言った。
「また、“おまかせ”でお願いできますか」
尊いィィィィ!!!!!!!!!!!!!
まって待ってまって!?!?!?!?
どういうこと!?!?!?!?
なにそれ、またおまかせの飲みに来てくれたってこと!?!?!?!?
しかも今日は単独で!?!?!?
てか照れ顔……!!!!!環君の照れ顔!!!!!!!!
「えっ、あっ……もちろんですっ」
思考が混乱に次ぐ混乱。
脳内の乙女ゲームガチ勢データベースが、未知のイベント分岐を探して総検索中。
でも――出ない。こんなパターン、記録にない。
――ピンッ。
私の頭上に、いつものUIが表示された。
でも、違った。
画面が、青じゃなくて――ピンク。
(ピンクUI!?!?!?!?!?)
画面には、ふわっと光る文字。
『好感度 +10』
(え? え??)
私は慌ててUIの色と文字をガン見した。目の錯覚じゃない。
いつもと違う。確かに“色”が違う。
(ゲーム内で、UIの色って変わったことあったっけ……? いや、ない……)
(てか、さくらちゃんがいないのに、なんで今のタイミングで好感度 +10が表示されたの?)
――どういうこと?
思わず目をこする。でも、消えない。
ふわふわと光るそのウィンドウは、数秒後に自然と消えた。
そしてそのとき、環くんが――
ほんの少しだけ、口元を緩めて笑った。
「……ありがとう。どうしても、昨日の味が忘れられなくて」
ありがとうの言い方が、昨日よりも少し――やわらかくて。
そして、なぜだか少し、照れたようにも見えた。
その言い方が、昨日よりも少し――やわらかくて。
そして、なぜだか少し、照れたようにも見えた。
私の心が、ざわざわと波打つ。
(これ……まさか……私、ルート入ってる……?)
まさか、そんなこと。
私はモブで、おまかせメニューを選んだ時に移りこむ程度の背景で――
震える手で、カウンターでグラスの準備をする。
背中からふいに、声が届く。
「店長さん、名前……かりんって言うんだね」
はっ、と顔を上げると、環くんがこちらを見ていた。
今日に限って、カウンター席に座っている。まっすぐ、すぐ近くに。
その距離に、ちょっと息が詰まる。
「僕は東堂環。……覚えてもらえたら、嬉しいな」
静かな声。でも、まっすぐな言葉だった。
今、彼はちゃんと私を見ている。
女主人公じゃなくて――“私”に向けて、言葉をくれた。
どくん、と心臓が跳ねる。
“モブなのに攻略される”という、前代未聞の展開が――
すでに、始まっていたのだ。
【To Be Continued…】