第3章 邂逅する一人の干渉 4
気づいたときには、僕とルリは奇妙な道の上を歩いていた。それは歩道橋のようで、眼下に見える道路よりも高い位置にあった。一度上ったきり階段は現れない。いくつか分岐点があったが、そちらは目的地の工業地帯があると思われる方向とは違っている。
歩道橋の左右は金属製の柵に囲まれていた。モノレールの線路がすぐ左隣を通っている。右隣には高速道路が通っていた。その上を走る自動車の音が絶えず聞こえている。
歩道橋の上なのに、なぜか街灯が一定の間隔で立っていた。まだ夜になったわけでもないのに、街灯の明かりが灯っている。たしかに、両隣を建造物で挟まれているから、暗いことは暗い。僕達のほかにそこを歩いている者はいなかった。
ルリは何度か立ち止まって、柵から身を乗り出して眼下の道路を眺めた。その道路は高速道路と同じくらいの交通量がある。自家用車だけでなく、ミキサー車やトラックの姿も確認できた。工業地帯に近づいていることは間違いないだろう。
「お腹空いた」
そう言うなり、ルリは自分が背負っている鞄の中から保存食を取り出して、勝手に食べ始める。先ほど休憩してから、まだそんなに時間は経っていない。
彼女には、沢山食べるときと、まったく食べないときの、二つの場合があるようだ。沢山食べるときは、食べる手が止まらないし、まったく食べないときは、こちらがどんなに甘いものを差し出しても興味を示さない。赤ん坊のような特徴といえる。
保存食を食べ終えて、機嫌が良くなったのか、ルリは口笛を吹き始めた。
どこかで聞いたことのあるメロディだった。ただ、僕はその曲の題名を思い出せない。いや、もともと知らないのかもしれなかった。そちらの可能性の方が高いだろう。
僕は固有名詞を覚えるのが苦手だ。人の名前を覚えるのが特に苦手だった。「ルリ」というのはラ行音だけから成る名前で、僕はラ行音が好きだったから、覚えようとしなくても、口が勝手にその発音の仕方を覚えてしまった。
「どう?」ルリが訊いてくる。
「何が?」
「私の口笛」
「エクセレント」僕は感想を述べた。
「でしょ。わざわざ言ってくれなくても知ってるんだから」
「じゃあ、訊かなくていいのでは?」
「いつか、口笛の世界大会に出るつもりなんだ」
「口笛の世界大会なんて、あるの?」
「あるわけないでしょ。馬鹿じゃないの?」
「馬鹿?」
「そんなの、早食いの世界大会よりも馬鹿だよ」
「早食いの何が馬鹿だって言うんだ」僕は反論した。「一生懸命ご飯を食べているじゃないか」
「何言ってるの?」
ルリは立ち止まり、冷めた目でこちらを見る。それから、彼女は僕を睨みつけた。数秒間、僕はそのまま睨み続けられる。
こちらに背を向けて、彼女は一人でさっさと歩いていってしまった。
僕は黙ってルリの背中を見つめる。
そのとき、不意に大きな音がした。
何の音か分からなくて、僕は一瞬辺りに視線を巡らせる。
ルリの前方で巨大な煙が上るのを僕は見た。暗い中でも目立つ、輪郭のはっきりした灰色の煙が、物凄い勢いで立ち上る。煙は勢いを増し、やがて、その中から赤と橙を混ぜた火の粉が散った。火の粉が互いに接触し合い、ついには巨大な炎が舞い上がる。
炎は渦となって、歩道橋を前方から飲み込んでいく。
僕がいる所からルリの所まで、十数メートルある。
彼女は歩くのをやめていた。
「ルリ!」
僕は彼女の名前を呼んだ。
ルリはこちらを向かない。
激しい揺れに襲われて、僕はその場に立っていられなくなる。体勢を崩し、歩道橋の左側にある柵に掴まった。視界の先で、ルリが僕と反対側に倒れるのが見える。彼女も僕と同じように柵に掴まっていた。
突然、背後から巨大な力で押し倒されるような感覚に襲われる。
僕は両手で柵を掴み直す。
視界が揺れ、平衡感覚が失われた。
音がどこから聞こえているのか分からなくなる。
歩道橋が斜めに傾いている。
立ち上がろうとしたとき、もう一度爆発音がした。
すぐ前方で炎が上がるのが見える。
赤い炎が僕の視界を覆った。
ルリの姿が見えなくなる。
「ルリ!」
僕はもう一度彼女の名前を呼んだ。
しかし、応答はない。
船に乗っているみたいに歩道橋が揺れているのが分かった。僕はようやく立ち上がり、柵を掴んでいた手をスライドさせて、柵の上にある手摺りを掴む。そのまま手摺りを辿って、ルリの所に向かおうとした。
すぐ目の前の床が燃えている。
しかし、通れないほどではない。
できる限り炎に触れないように、床の一部を迂回して進む。
煙が途切れた先にルリの姿が見えた。彼女は床に座っている。座っているというより、寝ていると言った方が近かった。バランスを崩して立てないのかもしれない。
あと数メートルで彼女のもとに辿り着く。
もう一度、大きな音。
しかし、その音は爆発によるものではなかった。
上の方から軋むような音が聞こえる。
僕はそちらを見る。
立ち並ぶ街灯の内の一つに亀裂が入り、針金を曲げるように中程から折れ曲がっていた。
照明が凄まじいスパンで点滅し、ついには明かりが消える。
火花が飛び散った。
街灯が倒れる先にルリがいる。
歩道橋の上で横になっている、彼女の姿。
僕はまた彼女の名前を叫んだ。
彼女の二文字しかない名前を呼び終える前に、倒れてきた街灯が僕の視界を横切った。




