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半身切り捨て瑠璃色に染まれ  作者: 羽上帆樽
第2章 観測する一人の邂逅
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第2章 観測する一人の邂逅 5

 制御室の扉の前まで来てみたが、こちらは開かなかった。箱型の装置のランプは赤く光っている。


 仕方なく引き返して控え室に戻ろうとしたとき、背後で扉が開く音がした。


 振り返ると、火花が立っていた。僕の姿に気づき、彼女はこちらを見る。


「どうされましたか?」風の間を縫うような的確な発声で、彼女が言った。


「いや、特に……」僕はもごもごと話す。「ちょっと、眠れなかったから」


 火花はジャンパーを羽織っている。それに対して、僕はバスローブ姿だ。あまりに対照的な格好に、僕は少し恥ずかしくなった。火花はそれに気づいたのか、自分が着ていたジャンパーを脱いで、こちらに差し出してくる。


「その格好では、寒いでしょう」


「いや……。すぐに戻るから……」


 火花は真っ直ぐ僕の方を見たまま固まっている。その青い目に見つめられていると、瞳の奥に吸い込まれそうになった。僕は差し出されたジャンパーに視線を移す。仕方なくそれを受け取って羽織った。少しだけ、彼女の体温が残っていた。


 火花は通路の両サイドを囲む柵に寄りかかる。この通路は外気に触れている。天井もなく、夜空が見えた。傍に電灯は見当たらないが、近隣に設置されているのであろうそれの影響を受けて、辺りはぼんやりと明るかった。


「明日は、どのようなプランで進むつもりですか?」火花が口を開いた。


 僕は彼女の方を見る。彼女は僕の前方にいた。僕がいるのとは反対側の柵に寄りかかっている。


「分からない」丁寧体と普通体のどちらで話そうかと迷ったが、余所余所しいと思われるのを嫌って、結局僕は普通体で話した。「何も考えていない」


 火花から、ある程度の経路はすでに聞いていた。彼女が目的地として推奨する工業地帯に向かうためには、海沿いを通るモノレールの線路に従って進めば良いらしい。どのくらいの距離があるのかは聞いていない。ただ、歩いて行くとしても、二時間はかからないだろうという話だった。


「火花は、旅をしたことがある?」僕は初めて彼女の名前を口にした。


 火花は少しだけこちらを見る。名前を呼ばれたからかもしれない。日常的にクードルに名前を呼ばれることはあるのだろうか、と僕は思う。彼女は火花のことを「管理長」と呼んでいた。


「ありません」火花は答える。「ずっとここにいます」


「ずっと?」


 火花は頷く。


 僕は彼女の言葉の意味を考える。シンプルな回答だったが、情報が不足しているとは思えなかった。


「生まれたときから、ずっとここにいるの?」


「生まれたときからというのは、どういう意味ですか?」


 予想していない返事だったから、僕は少し戸惑った。


「つまり、この世に生を受けたときから、ということかな」


「貴方は、自分がこの世に生を受けたときのことを、覚えていますか?」


「いや……」僕は首を振った。「普通、そのときのことは覚えていないと思うよ」


「私も同じです」


「じゃあ、少なくとも、記憶がある範囲では、ずっとここにいるの?」


「そうです」


 どういうことだろう、と僕は思う。彼女は義務教育も受けていないということだろうか。


 しかし、そもそもの前提として、彼女とクードルの二人でこの人工島の管理をしているということからしておかしいのだ。火花は、自分は行政からは独立していると言っていた。それは、国からも独立しているということだろうか。あらゆる組織から独立しているのだろうか。


 いずれにせよ、彼女が特殊な存在であることに変わりはない。


「お二人の方が特殊だと思います」火花は言った。「私は、お二人のような存在を、これまで見たことがありません」


「僕達みたいな存在って、どういうこと? 何が特殊なの?」


「二人でいるところです」火花は答えた。


「二人で?」


「いつも二人でいるのですか?」


「いつもじゃないけど……」僕は考えながら話す。「でも、二人でいることが多いのは確かだと思う」


 僕の返答を聞いて、火花は頷く。


 火花は何をするために外に出て来たのだろう、と僕は考える。それを尋ねると、夜風を浴びに来たと彼女は答えた。浴びるのは夜風だけで、シャワーは浴びないのかと尋ねようと思ったが、今はやめておいた。


 僕は、クードルについて質問した。


「彼女は、いつからここにいるの?」


「いつからかは正確には覚えていません」火花は答える。「しかし、一年や二年ではありません」


「この人工島が閉鎖されたのは、十年くらい前?」僕は思い出しながら話す。


「もう少し前だと思います。でも、だいたい、そのくらいです。二桁です」


 幅がある、と僕は思う。


「そのときには、クードルはここにいた?」


「いました」


 火花は上を向いている。彼女には何か見えるのかもしれない。僕にも星は見えた。月はここからでは見えない。


「君の話は、全体的には正確な印象を与えるのに、数や量になると少し曖昧になるようだ」僕は感じたままのことを言った。


「私も、そう思います」そこで火花はこちらを見て、小さく笑った。「分かりますか?」


「うん」


「なぜだと思いますか?」


「なぜって……」僕は考える。「余計なことは記憶したくないから、とか?」


「いいえ」火花は首を振る。「私とあなた方では、使っている単位が違うからでしょう」


「単位?」


「私の単位を、あなた方の単位に換算するのに、慣れていないのです。だから、感覚的な見積もりになります」


「距離や時間の単位に種類があるの?」


「自分だけが使うなら、新しく作り出すことも可能です」


 しばらくの間、僕と彼女の間には無言の時間が続いた。


 火花は、沈黙にも耐えられる性格のようで、長い間微動だにせず上空を眺めていた。時折風が吹いて、彼女の金色の髪を大気中に靡かせた。そのまま彼女はどこかに飛んでいってしまいそうに思えたが、他方で、彼女の足は間違いなく地面に接しているようにも思えた。


 やがて、火花は、もう戻ると言って、制御室の方に引き返そうとする。


「シャワーを使わせてくれてありがとう」彼女が立ち去る前に、僕は言った。


「案内したのは、クードルです」少しだけこちらを見て、火花は応える。


「施設を使わせてくれたことへの感謝だよ」


「そうですか」火花は頷く。


「君は使わないの?」


 僕が尋ねると、火花はこちらに背を向けて、制御室の扉を開けるために箱型の装置を操作する。


「私が最初に使いました」と、彼女は最後に言った。


 火花と別れたあとも、僕はしばらくそこに立っていた。しばらくして、ジャンパーを返し忘れたことを思い出した。今から返そうかとも思ったが、こちらから扉を開くことはできないから無理だ。明日返すのでも許してくれるだろうと判断して、僕は控え室に戻ることにする。


 控え室の中に入ると、ルリが起きていた。


「もう起きたの?」僕はソファに座りながら尋ねた。


「いや、こっちの台詞」髪を何度か横に振って、彼女は答える。「眠ってないんじゃない?」


「なかなか眠れなかったんだ」僕は答える。「今から眠るつもり」


「その上着は?」


「火花から借りたものだよ」


「彼女、どこにいるの?」ルリは少し怪訝そうな顔をする。


「さっきまで外で一緒だった」


「ふうん」


 そう言って、ルリはもう一度ソファに横になる。僕の方に背を向けてしまった。


「どうしたの?」


「別に」


「何か気を悪くするようなこと、言った?」


「気を悪くなんて、してないし」


 ルリはそれ以上何も言わなかったが、しばらくすると、こちらを振り返って、一言だけ言った。


「いいから、早く眠ってほしい」


 僕は彼女に言われた通り自分のソファに横になる。目を閉じると、自然と欠伸が出た。


 気づく間もなく、僕は意識を失っていた。

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