第2章 観測する一人の邂逅 4
僕はシャワーを浴びた。
この場所が本来どのような用途で使われているのか分からなかったが、水族館で働く従業員が、ショーのあとに水を浴びるための場所ではないか、となんとなく想像する。
シャワーからは温水が出ていた。電気で温めているのかもしれない。制御室ではモニターも点いていたから、電気が通っているのは間違いなかった。海洋発電というやつだろうか。残念ながら、僕はその方面の知識は乏しい。学校で少しだけ教わった気がするが、あまり覚えていない。
シャワーから上がると、脱衣所のようなスペースにタオルとバスローブが置いてあった。クードルが置いてくれたようだ。先ほど会ったとき、ルリがどんな格好をしていたのか、僕は覚えていなかった。彼女もこんな格好をしていたのかもしれない。僕が先ほどまで身につけていた衣服は、そこにはなかった。
シャワー室から出ると、また同じように、クードルはドアの左手に立っていた。彼女が決まってそちら側にいるのは、ドアが時計回りに開くせいかもしれない。しかし、控え室の扉は両開きだから関係がない。
「僕の服は?」僕は質問する。
「洗濯中だ」クードルは答えた。
「ここは、どうやって電気を使えるようにしてあるの?」
「発電している」
「どこで?」
「島の奥の方だ」クードルは壁から背を離す。「ジェットコースターの下に発電機がある」
来た道を引き返して、僕達は控え室まで戻ってきた。この建物は、設計があまり合理的ではないようで、移動にやけに時間がかかった。通路が明らかに入り組んでいる。最初から通路も含めて設計されたのではないのかもしれない。設備や部屋を作ったあとで、それに合わせて通路を作ったような印象を受けた。あるいは、人間が移動することよりも、別の目的が優先されたのかもしれない。
クードルとは控え室の前で別れた。
控え室に入ると、ルリはソファに寝転がって教科書を開いていた。数学の教科書だ。彼女は数学が好きなのかもしれない。なんとなく、そんな気がする。数学が持つシンプルさというか、ストレートさは、彼女によく似合うように思える。しかし、彼女には数学ほどの合理性はないようにも思えた。どちらかというと、文学性の方が前面に出ているだろう。
「お帰りぃ」ルリが教科書から顔を上げて、僕に言った。「楽しかった?」
「まあね」
ルリはバスローブを着ていた。僕が着ているのと同じデザインのものだ。彼女には少し大きいようで、衣服の間に妙に隙間があるのが分かった。
彼女の肌はそれなりに白い。この場合の「それなり」とはどのくらいだろうと、僕は一瞬だけ考える。火花と比較すれば良いだろうか。しかし、火花とはあの暗い制御室の中で会っただけだから、彼女が明るみのもとでどのように見えるのか、僕にはいまいち想像できなかった。
「何、嫌らしいこと考えてるんだか」ルリが言った。
「別に、嫌らしいことではない。ただ、火花は、僕達とは少し違って見える」
「外見が?」
「ほかにも、色々」
「飲み物」そう言って、ルリはテーブルの上に置いてあるペットボトルを指さす。「好きに飲んでいいってさ」
「それはどうも」
しばらくの間、僕とルリは他愛のない話をした。授業のこと、部活動のこと、そして、将来のこと……。
それから、行方不明になった生徒はどのような人物だろう、という話に発展した。想像したところでどうにもならない話題だったが、不思議と会話は途切れなかった。
こういうとき、人は、そういう対象に神秘的な姿を想定してしまうらしい。ルリは、きっと飛びきりの美人に違いないと言った。僕は、もしかすると、火花かもしれない、と言った。
「どういう意味?」ルリは怪訝そうな顔をする。
「単なる思いつきだよ」僕は応じた。
「そんなわけないでしょ」
「どうして、そう言いきれる?」
「だって、あんな人、うちの学校で見たことないよ」
「まあ、それはそうだ」
一通り話し終えると、やがてルリは黙ってしまった。そんなふうに黙っているときの顔が、彼女の中で一番キュートだと僕は思う。
それは、彼女に限ったことではないかもしれない。
言葉に汚されていない、ありのままの姿。
僕は、生まれたとき、どうして言葉を覚えてしまったのだろう。
いや、生まれる前から覚えていたのかもしれない。
それでは、僕はどうして人間に生まれてしまったのだろうか。
僕は、人間だろうか?
ふと顔を上げて、目の前に座っているルリの顔を見ると、輪郭がぼやけて、歪んでいた。
僕が見る現実とは、何だろう?
現実なんてものが本当にあるのだろうか?
「どうしたの?」ルリが声をかけてくる。「ぼうっとして」
「別に……」僕は普通よりも長い時間をかけて一度瞬きをした。「どうってことはない」
「返答がおかしいよ」
「そう?」
「何を考えているの?」
「強いて言えば、君のこと」
「どんな?」
「君の、本当の姿について」
「本当の姿?」
僕が応えないでいると、ルリはついに眠ってしまった。布団もかけないで寝息を立てている。僕は彼女の傍に近寄り、その場にしゃがんで彼女の寝顔を見た。
ルリは、いつも平気で僕の前で眠る。眠っている彼女の姿は、いつも死んでいるみたいに見えた。そんな彼女の姿を見ていても、僕はまったく不安にならない。むしろ、僕も一緒に死んでしまおうかと考えてしまう。
そうだ。
僕は、死ぬときは彼女と一緒が良い。生きている間ずっと一緒にいたら疲れそうだが、せめて死ぬときは彼女と一緒が良かった。
墓も何もいらない。ただ、同じ場所で、同じタイミングで、死ぬことができればそれで良い。風に吹かれて、ともに腐敗していく。そんな様が望ましかった。
思考を断ち切り、僕もソファに横になる。天井は自動的に明るさを落としていて、今は部屋は暗かった。暗がりの中で耳を澄ませていると、ルリの寝息が聞こえてくる。それから、微かに、波の音と、風の音が聞こえた。
僕達は、地球の上にいる。しかし、それを確認したことはなかった。そうやって、テレビや図鑑で見たものを本物として認識してしまう。映像も画像も二次元なのに、それを三次元のものとして、あたかも自分で確認したかのように思い込んでしまう。
ルリには、この世界はどのように見えているのだろう。
僕が見ているのと同じように見えているのだろうか。
眠れなくて、僕は起き上がる。ペットボトルの飲み物を一口飲んだ。お茶の味がする。緑茶だった。
ルリが寝返りを打つ音。
声。
暗い室内を歩いて、僕は部屋の出入口まで来た。
扉が横にスライドして開く。
冷たい風が身体に触れた。
僕は身震いする。
バスローブだけでは心許なかったが、ちょっとの決心をして、僕は外に出た。




