男と女
―――雪。
轟音と共に飛び散った血によって赤く染まった雪の上で、少年は吹雪に打たれながら見上げていた。
巨大な腕をもった鈍く光る怪物。その剛腕の拳は固いレンガの道にめり込み、その境目から、赤い生き物だったものが飛び散っている。
そんな怪物を従えているかのように、もう片方の巨大な手に座って、叩き潰した『敵』を見下ろす、人形のような少女がいた。
銀色の髪、灰色の瞳、端正で幼い顔。二つに分かれ、どうやっているのか分からないくるくるとした髪型は、その少女をより一層、幻想的に見せた。
そんな少女は、雪の上に座り込む少年を見下ろして、変わることのない表情をもって、尋ねる。
『マスター、私は何をすればよろしいですか?』
その少女の問いかけに、少年は、歯を食いしばって立ち上がって、答える。
『俺に―――』
『篝さん』
「―――ッ!?」
夢はそこで覚める。
しかし、開いた筈の視界に光はなく、暗闇の中に、彼はいた。
しばし視線を右往左往させていると、真っ暗な空間の中、眩い光が差し込む。
暗闇が照らされれば、そこには何十人もの男たちがその姿を晒される。
全員、同じ服と首輪を嵌められており、その誰もが怯えた様子で縮こまっていた。
光が差し込んだ原因は、彼らが押し込められている空間の出入口が開いたからだ。
ここは、一台のトラックの中。照明器具の類は一切無し。衛生環境も最悪なここは、まさに棺桶のようなところだった。
そして、扉が開いた先にいるのは、数人の『女』
「出てこい『玩具』ども」
新生文明歴九九六年―――
『崩壊災害』によって一度、人類の文明が滅び、大陸の形も何もかもが変化した新世界となり、千年近くの年月が経った。
『エーテル』と呼ばれる未知のエネルギー物質は、あらゆる生命に宿り、人類は新たなステージに押し上げた。
しかし、エーテルを自在に操れるのは『女性』のみ。
エーテルで構成された武器『リンカー』によって、肉体をエーテルでなければ傷一つつく事の出来ない肉体『ヴァリアブルスキン』へと変化させ、超常の異能『コードスキル』を駆使し、まさに超人と呼ぶに相応しい力を手に入れた女たちは、その姿の自分たちを『戦姫』と称した。
しかし、それによって男女間の力関係は逆転。
男の立場は瞬く間に失墜し、その尊厳は淘汰され、奴隷ですらない何かへと成り下がる。
戦姫の力は、エーテルを行使できない男たちにとって、抗う事の出来ない災害であり、決して逆らう事の出来ない不条理であった。
そうして『女性至上主義』の元、世界は女によって支配され、男はいつしか、逆らう事すら忘れた家畜へと成り下がった。
薄暗い『収容所』の廊下を『エルリィ・シンシア』は掃除道具を片手に歩いていた。
ここは、この『要塞』の『娯楽』の為に設けられた場所で、運送されてきた『玩具』を収容する為の施設である。
その内の『独房』の前につくと、エルリィは鉄格子の扉を開けて、中に入る。
「ここで最後・・・」
一日の締め。この収容所の『掃除係』である彼女は、疲れ切った表情でそう呟くと、汚水の入ったバケツを床に置き、モップを浸した。
そして、汚水を切った後、床を掃除しようとしたその時、じゃらじゃらと言う音が聞こえてきた。
「オラっ、さっさと歩きな!」
そうして、間もなくして女二人と彼女らに蹴っ飛ばされる男の姿が格子の向こうに現れた。
そのまま、その男は牢屋の中に蹴り飛ばされ、床に倒れ伏す。
その男は、黒髪をした東洋風の男だった。しかし、散々殴られたのか頬は赤く腫れており、飛び散ったらしい血が衣服に飛び散っていた。
「初日から犯行してくるなんていい度胸だね。アンタは特別に、アタシらのストレス発散相手に決定したから」
「楽しみにしといてねぇ~」
と、二人の女が、その男を嘲笑う。
そして、ちらりとエルリィの方を見た。
「おい『能無し』」
「あ、はい・・・なんですか?」
エルリィはびくりと体を震わせながら応じた。
「いつまでチンタラやってんだ。一体誰のご厚意でここにいさせてもらってると思ってんだ?ああ?」
「それとも、そこの『玩具』と同じように可愛がられたい?」
そう言って、片方が床に倒れ伏す男を指差した。
「っ・・・い、いえ、すぐに終わらせます・・・」
「ふん、ほんと、なんでお前のような能無しが存在してるんだろうなぁ」
その言葉を言いながら、二人組の女たちは廊下の向こうへと行ってしまった。
一方のエルリィは、その二人がいなくなっても、両手で握りしめたモップを、尚も震わせていた。その口端を辛そうに引き結びながら。
「いっつつ・・・」
そこで、男が起き上がる。
「やろぉ・・・好き勝手殴りやがって」
男は意外と平気な様子で起き上がって見せた。
「・・・」
「・・・ん?どうした?」
唖然としていたエルリィに、その男は声をかける。
「え!?あ、えっと・・・失礼しました!」
突然、声をかけられて軽くパニックになってしまったエルリィは、瞬く間にその場から逃走。
男は、そこに一人取り残された。
(びっくりした・・・)
掃除道具を片付けながら、エルリィはほっと息を吐く。
誰も寄り付くことのない掃除用具室は、彼女という人間が心安らげる事の出来る数少ない場所だ。
「あの人、何をやったんだろ・・・」
独房に入れられる男は、大体がこの『要塞』の主に反抗した者が入れられる場所だ。
つまり、彼はこの要塞の管理者に逆らったという事。
しかし、それは自殺行為に等しい行為。戦姫に対して何もできない男がそんな事をすれば、結果は火を見るより明らかだ。
「ほら、ほらぁ、当ててみなよぉ」
掃除用具室を出て、声がしてみたから開いた窓を見てみれば、そこには、一人の男を数人の女たちがよってたかって囲んでいた。
しかし、よく見ると、男の相手をしているのはたった一人だけで、他や野次馬のように取り囲んでいるだけだった。
そして男の手には一本のナイフ。
「はっ・・・はっ・・・」
「ほらほらもっと頑張りなよ」
更に加えるならば、その足元には何人もの男の体が転がっていた。
全員、顔面が潰れていたり、首があらぬ方向に曲がっていたり、もしくは口から大量の血を吐いてびくびくと痙攣していたり。共通しているのはその瞳が本来あるべき位置にない事だろうか。
そして、その死体の一つに、女は足をひっかける。
「おっと」
その時、丁度、ナイフを持った男が、突進してきていたところで、バランスを崩した一瞬の隙のうちに、男がナイフを、その女に突き立てた。
「や、やった・・・」
男は、疲れ切った表情で、歓喜の表情を浮かべた。
「おめでとう」
しかし、すぐにその笑顔が凍り付く。
「お前が今日初めてナイフを当てられた」
刺さればその柔らかい肉を貫くであろうその刃は、その女の体に突き刺さることなく、まるで鋼にでも突き立てているかのように動かなかった。
「だからどうした?」
瞬間、男の体が宙を舞った。
股間を蹴り上げられて、悲鳴を上げる事もなく、体は一瞬、宙に浮いた。
そして、そのまま顔面に拳を喰らい、そこから無残で一方的な蹂躙が始まる。
「おらっおらっ、どうしたぁさっきの根性はどこいったぁ!」
嗤い声が聞こえる。げらげら、きゃはは、と趣味の悪い笑い声が肉を殴る音とともに聞こえてくる。
その光景から、エルリィは視線を逸らす。
戦姫の体は、エーテルでなければ傷つかない。
その性質ゆえに、かつての旧文明で発展した武器は軒並み廃れ忘れ去られた。
どれだけ刃を突き立てようが、燃やそうが潰そうが水に沈めようが、それがエーテルによるものでなければ一切傷つくことはない。
更に、戦姫の肉体である『ヴァリアブルスキン』は、素の身体能力の三~四倍の身体能力を持つ。
それ故に、女たちの横暴さは加速した。
戦姫になれば、男に傷つけられる事はない。戦姫であれば、男を一方的に嬲ることが出来る。
戦姫になれない男たちは、自分たちより遥かに弱い。
だから、そうなってしまった。
「シンシアさん」
声をかけられ、エルリィは肩を震わせて、声のした方を見た。
そこには、眼鏡をかけた女性が立っており、事務的な表情でエルリィを見ていた。
「所長がお呼びです」
所長室―――。
「今日ここに入ってきた『玩具』に生きのいいのがいたのよね」
見た目は、まるで牛。
富を貪り、支配者である事が当たり前となったが故に、欲に溺れている事が見た目でわかるほど醜態な姿を、エルリィはその短い人生で見たことが無かった。
そんな女の太い指から垂れ下がるのは、一本のペンダント。
鎖と不格好ながらも美しい輝きを持つ青い宝石のペンダントだ。
「このペンダントを取り上げようとしたら、それはそれは勢いよくね。ふふ、あれほど殴られても、全然根を上げない玩具なんて初めてよ。気に入ったわ」
そのペンダントを放り投げ、自身が用意した宝石箱に見事に入れて見せるこの要塞の所長『ペネト・フルール』。
その牛のような女が所長室の出入口の前に立つエルリィを見る。
「貴方には、その玩具の世話を任せたいのよ」
「世話・・・ですか?」
「そう、死なないようにね。屈服させる前に死んじゃったら、面白くないでしょ?」
面白くない。生死以前に、相手の尊厳を踏み潰す事に愉悦を感じる彼女らしい言葉の使い方だ。
ただ、暴力を躾と称して振るう彼女に、エルリィは苦手を通り越して嫌悪感を抱いている。
それは彼女の性格の事だけではない。
「貴方以外はやってくれないから、お願い出来るかしら?」
断りたい。しかし、断れない。
「わかり・・・ました・・・」
それが出来ない。だから、エルリィは頷くしかなかった。
そうして、エルリィは例の男の世話係に任命された。
(大丈夫、かな・・・)
翌日、億劫な気持ちな為か、彼の元へと向かう足が酷く重い。
これから行う事は、決して苦痛を和らげる為のものではなく、相手を苦しめる為だけの拷問への加担だ。
しかし、彼女は、その現状を変える気はなかった。
昨日の独房に辿り着き、エルリィは中を覗いた。
「ん?昨日ぶりだな」
男は至って平然としていた。
「あ、えっと・・・」
その一方で、エルリィはまさか声をかけられるとは思ってもみず、しどろもどろになってしまう。
「どうやら俺は目をつけられたみたいだな。見たところ、俺を生かすための延命装置にでも任命されたか」
「ど、どうしてそれを・・・」
「そのぐらいわかる。お前と俺はなんだ?女と男だろ。ゲスの考える事くらい分かる」
エルリィは、妙な感覚に陥った。
普通、あれほどの暴力を振るわれて、こんなまともな寝具もない空間に放り込まれて、他の誰もいないのに、何故平然としていられるのか、エルリィには理解出来なかった。
「そんなことより、飯かなんか無いか?昨日から食べていないんだ」
「え、あ、はい。ちょっと待ってください」
エルリィは慌てて持ってきた食料を、男に手渡した。
「その、私の朝食になるんですけど・・・」
「朝食?いいのか?」
「あ、はい・・・私は、レーションだけでもどうにかなるので・・・」
男は、渡されたトレーの上に乗せられた、エルリィの朝食をしばらく見つめていた。
やがて、それを受け取ると、
「本当にいいんだな」
「はい、大丈夫です・・・」
「・・・お前、名前は?」
男は、エルリィに名前を尋ねた。
「え?名前・・・」
「知らねえと不便だろ。短い付き合いになるかもだが、知っていて損はないはずだ」
意味は無い筈。エルリィはそう思った。
名前を知った所で、彼が覚えている意味はない。
目をつけられた時点で、彼に待っているのは破滅だけの筈なのだ。
そんな未来が目に見えている筈なのに、目の前の男はそんな事を知らないとでも言いたげに、光を失わない眼差しをエルリィに向けていた。
その眼差しに、エルリィは、自分の何かが見透かされているような気がした。
「・・・エルリィ・・・エルリィ・シンシア、です」
だが、自然と悪い気はしなかった。だから、エルリィは目の前の男に自分の名を告げた。
「篝だ」
そして、男もまた、自らの名を明かした。
そうして、篝とエルリィの奇妙な関係が始まった。