第9話:久高島の影の泉
観測拠点──沖縄南部・摩文仁の高台にある仮設基地の朝は、少しだけざわついていた。
久高島方面の霊波に、また異常が出た。
測定器の針が異常なほど跳ね、数値が記録紙を引き裂かんばかりに乱れている。
「……これは、通常の霊性変動じゃないな。逆流反応に近い」
神波清一郎が眉をひそめて呟いた。
「しかも、波形が“個の意志”に近い……久高島で、何かが目覚めかけている」
彼の視線を追うように、ツルも記録紙を見つめる。
胸に抱かれたクルが「にゃ」と一声、低く鳴いた。
そんな緊張感の中、ふわりと場に風穴を開けたような声が響いた。
「……あれ? これって、おかしいってことですか?」
振り返ると、白いコートに身を包んだ若い女性が、首をかしげて測定器を覗き込んでいた。
初めて配属されたばかりの新任隊員──由紀乃。
柔らかい雰囲気に、ゆるく結んだセミロングの髪。ふわっとした口調に、班員たちも最初は戸惑っていた。
「おかしいっていうか……これはちょっと、危ないくらいで……」
若手班員の一人が曖昧に答えると、由紀乃は小さく「あら」と目を丸くした。
「じゃあ、なおさら行かなくちゃですね」
「えっ、いや、それは逆じゃ……」
「だって、私……なんか“行かなきゃ”って気がするんです」
にこっと笑ったその顔には、不思議な確信が宿っていた。
そのやりとりを見ていたツルは、自然と口を開いた。
「……あなた、本土から来たんですよね」
「はい。呼ばれて、というか……送り込まれて、というか。どっちでもいいんですけど」
言いながら由紀乃は、測定器の上に置いていたお守りの袋を取り出し、中から金平糖をひとつ取り出した。
「ひとつ、いります?」
「……大丈夫です」
戸惑うツルに構わず、由紀乃は自分で金平糖を口に含んだ。
「……うん。やっぱり今日の空気、少しざらついてる。神経がぴりっとする感じ。……“ひとりぶんじゃない”感覚、っていうのかな」
そう言って、空を見上げるその目は、さっきまでの天然さとはまるで別人だった。
清一郎が、その言葉に反応するように彼女を一瞥する。
「君、霊性に感応する体質か」
「うふふ、それは内緒です」
はぐらかすように微笑む由紀乃を見て、清一郎はそれ以上は何も言わなかった。ただ、興味を持ったようにその視線を少し長く留めた。
ツルはその様子を見ながら、胸の奥が微かにざわつくのを感じた。
この人、きっと“普通の人”じゃない。
その予感は、やがて現実となっていく。
「……久高島への再調査、実施します」
清一郎の一声に、班員たちの緊張が高まった。
「霊性密度が高すぎて、これまで正式な調査は避けてきたが……反応が強まりすぎた。これ以上放置すれば、制御できなくなるかもしれん」
その言葉に、ツルはすっと顔を上げた。
「……私も、行きます」
「ツル……」
清一郎が言いかけるよりも早く、ツルははっきりと答えた。
「“あの夜”からずっと……泉が呼んでる気がする。……ウメが、あの場所で“待ってる”ような気がするんです」
班員たちは言葉を失ったまま、その空気にのみ込まれていく。
由紀乃はふわっと手をあげて笑った。
「じゃあ、私も同行します。だって、誰かが“呼んでる”気がするんですもの」
天然なようで、核心をついた言葉。
その笑顔の奥に宿る“気配”を、ツルは見逃さなかった。
この人はきっと、ただの観測員じゃない。
“何か”を抱えてここに来た。
クルが小さく「にゃ」と鳴き、ツルの足元にまとわりつく。
風がまた変わった。
久高島──“影の泉”が、彼らを待っていた。
* * *
観測班の装置が、再び小さな異常値を刻んだ。
「……霊波、再浮上。これは……あの子の反応だ」
班員の声が低く響いた。清一郎は無言のまま記録紙に目を落とし、ツルの肩越しに視線を投げかける。
「……やっぱり、ウメのマブイだよね」
ツルは膝を抱えるようにして、青白い小石を握りしめていた。クルは彼女のすぐそばで丸くなり、じっと沈黙を保っている。
測定器の針は揺れている。だが、その反応は明らかに“影”ではなかった。
「人のマブイとしては弱すぎて、影のそれとしては整いすぎている。……中間だな」
清一郎の口調は淡々としていたが、その瞳は静かな憂いを湛えていた。
「霧の中に……まだ、いるんだ」
ツルは小さくつぶやいた。泉の奥、あの白く濁った霊気の向こうに、仮面を砕かれたまま姿を消した少女。ウメ――彼女は完全には戻っていない。
「どうして……帰ってこないのかな」
問いかけに答える者はいない。
だが、ふと、足元のクルがかすかに鳴いた。
「……にゃ」
ツルはその声に顔を上げた。クルの尾が、ほんの一瞬だけ、淡く青白く光った。
「……そうだよね。ウメは、まだ迷ってる。自分が何者なのか、人間なのか、影なのか……きっと、それすらも、わからなくなってるんだ」
霧の奥で、泣いている気がした。声にはならない、けれど確かに存在している“祈り”。
清一郎は静かに立ち上がると、泉の方角に目を向けた。
「我々には、今すぐできることはない。だが……あの子が完全に“戻る”時が来たら、誰かが、そこにいてやらないとな」
ツルは頷いた。
「わたし、絶対に迎えに行く。……今度は、見捨てないって、もう決めたから」
クルがふたたび、そっと鳴いた。それはまるで、遠くの霧に響くかすかな合図のようだった。
──霧の奥。
一瞬、誰もいないはずの水面がゆらぎ、少女のような影がぼんやりと立っていた。
「……ツル……」
声なき声が、泉の奥から揺らぎとなって漏れた。
だがその姿は、すぐに霧に溶け、消えていった。
* * *
久高島・影の泉の前。
風が凪ぎ、森の音が消える。
泉の表面は、まるで鏡のように静まり返り、ツルの姿を映していた。
「……これが、“影の泉”……」
ツルが歩を進めるごとに、泉の水面がゆらりと揺れる。
後方では清一郎が観測器を構え、由紀乃と数人の班員が遠巻きに見守っていた。クルはツルの足元から離れず、静かに佇んでいる。
ツルは一歩、水辺に膝をつき、そっと手を伸ばした。
「……ウメ……ここにいるの?」
水面に触れたその瞬間――
視界が白く、音もなく反転する。
「っ!?」
感覚が消え、時間すら止まったようだった。
──視界は真っ白。音も温度も存在しない“虚無”の空間。
だが、そこに漂う感覚は――懐かしい。
(ここ……知らないのに、どうして……)
ひと筋の光が差し込む。
その光はゆっくりと広がり、ツルの足元に“金色の花の絨毯を咲かせた。
風が吹く。香りが満ちる。水晶のような葉がきらめく幻想の大地。
その中央に、ひとりの少女が立っていた。
──銀白の衣をまとい、髪先に月の飾りを揺らす存在。
彼女が振り向いた瞬間、空が切り裂かれるように光が炸裂した。
「……アマノキヨ」
その声は、胸の奥に突き刺さるように、優しく痛かった。
ツルの唇から、自然に名がこぼれる。
「……ツキ……」
少女は静かに頷いた。
銀の瞳の奥で、哀しみと警告が揺れている。
「マブイが濁っていくの。人々の祈りが……届かなくなってる。
私たちの力じゃ、もう……この流れを戻せない」
言葉が途切れたその瞬間、空に黒い亀裂が走った。
世界の端が崩れ、闇のしぶきが宙を漂う。
(……これが、“あの時”の……)
記憶の底から、もう一つの風景が蘇る。
──影に染まりゆく月の神・ツキサミヨ。
──それを、ただ見ていることしかできなかった太陽の神・アマノキヨ。
──そして、祈りの結晶「ニライのマブイ」を代償に、妹を“神の次元”から封じた日。
ツルの心に、巨大な罪悪感と後悔の波が襲いかかる。
「……封印しかできなかった。助けられなかった……!」
光が弾け、世界がゆらぐ。
その中心に、月神はたったひとことを返した。
「でも、あなたは今……“人間”なんでしょう?」
◆ ◆ ◆
──現実世界。
ツルの身体は、泉の前で崩れるように膝をついていた。
肩が小刻みに震え、頬には涙がひとすじ伝っていた。
「ツル……!」
清一郎が駆け寄ろうとするが、クルが小さく「にゃ」と鳴き、静止する。
ツルは、泉を見据えたまま、震える声で呟いた。
「……私、思い出した……
私は“アマノキヨ”。妹のツキを……封印したのは、私……!」
班員たちが息を呑む。
沈黙のなか、泉の水面が黄金の光で脈打ち始める。
その波紋がツルのマブイと共鳴し、微細な霊波が空間を震わせる。
由紀乃がぽつりと、空気を和ませるように言った。
「なんだか……あったかくて、でも泣きたくなる感じ……」
ツルは、クルを胸元に引き寄せ、立ち上がった。
「……もう、繰り返さない。
“神”じゃなくて、“人間の私”が、今度こそ……ウメを救う」
その目には、かつてアマノキヨだった存在の威厳と、
ひとりの少女としての“意志の光”が宿っていた。
泉の奥から、黒い霧と共に、微かな声が重なる。
「……ツル……」
──それは、確かに聞き覚えのある声。
──かつて、共に笑い、泣き、守ってくれた少女。
「ウメ……待ってて。必ず、行くから」
風がざわめき、泉の水面が静かに開かれる。
光と影が交錯し、物語は新たな領域へと進み始めた。
* * *
──泉の揺らぎが止んだ。
ツルは立ち尽くしていた。
その背に、冬の光がそっと降りそそぐ。
少女の肩に寄り添う黒猫・クルが、静かに「にゃ」と鳴いた。
「……ツル、大丈夫か?」
背後から、清一郎の穏やかな声が届いた。
班員たちは距離を取りつつも、皆その様子を見守っている。
ツルはゆっくりと振り返った。
その表情には、まだ涙の跡が残っていた。
けれど、その瞳は澄んでいた。
「……ごめんなさい、ちょっとだけ……思い出してました。
ほんとうに大切だった、たった一人の妹のことを」
清一郎の表情がわずかに動く。
ツルは続けた。
「私は……アマノキヨだった。
でも、今は“ツル”として……ウメを、救いたいって思ってる」
その名が出た瞬間、泉の奥が微かに揺れた。
そして、ほんの一瞬。
水面に、あの影の仮面を砕かれた少女の姿――ウメが浮かび上がった。
白い霧の中で、身体を抱えるように座り込んでいる。
「……ウメ……?」
ツルがそっと手を伸ばす。
だが、水面には触れられない。
空気にさえ、手応えはない。
「影の泉……彼女の“魂”が、今も囚われてるのね」
清一郎が一歩、ツルの隣に立つ。
「魂は、記憶の奥に潜ってしまう。だが、完全には消えていない。
呼び戻すには……強い“想い”と“結び”が必要だ」
ツルは頷いた。
胸元の布の中に、白く光る石――幼い日にウメとクルと見つけた神石が揺れている。
「あの時、私を守ってくれたのはウメだった。
誰にも言えなかった弱さを……あの子は、わかってくれた」
彼女の声が震えた。
「……今度は、私が守る。あの子の“マブイ”が、影に飲まれきる前に……!」
泉の向こう、微かに反応したように、ウメが顔を上げる。
その瞳はまだ虚ろだが、わずかに震えていた。
「……ツル……?」
小さな声が、水面から届いた。
ツルは泣きそうになりながら、笑った。
「会いに来たよ、ウメ。
もう置いていかない。絶対に、もう一度、一緒に笑おう」
その言葉に、泉の表層がほんのわずかに光を宿した。
クルが小さく喉を鳴らし、ツルの足元でくるりとしっぽを巻いた。
──風が止み、久高島に一瞬の静けさが訪れる。
班員の一人がそっと呟いた。
「……霊波、下がりました。安定しています」
清一郎が静かに目を閉じる。
「ここは、“結び”の場になった。
彼女たちの絆が、封じられた祈りを、再び動かし始めている」
由紀乃がツルに手を差し伸べた。
その瞳は、ただの“観測員”のものではなかった。
「ツルちゃん……もう少し、こっちに戻ってきて。
ね、私たち、まだ帰らないといけないから」
ツルは、ゆっくりと頷く。
泉の奥には、まだ囚われたウメの姿が残る。
それでも――その輪郭は、もう完全な影ではなかった。
「……ウメ、また来るから。今度はきっと、光の中で――」
その声に、泉の水面がそっと応えるように揺れた。
ツルはクルを抱き上げ、静かに振り返る。
「封印なんて、二度としたくなかった。
でも、あの子を救うためなら、私は何度でも……祈るよ」
そうして彼女は、一歩、未来へと歩き出した。
その背中には、かつて神だった少女が抱いた後悔と。
いま“人間”として抱く、新たな希望が重なっていた。
──久高島の空には、冬の淡い光が差していた。
影はまだ残る。
けれど、祈りの光は、確かに灯されていた。
そしてそれは、物語の“はじまり”を告げる一歩だった。