第8話:影の残響
昭和二十年九月。
戦が終わったことを告げる声は、沖縄の島々にも届いていた。だが、祈りのさざめきはまだ空気の奥底に響いていた。
沖縄本島南部、摩文仁の高台に設けられた秘匿観測拠点では、その日も観測機が静かに回転音を立てていた。
神波清一郎は測定器の前でじっと目を閉じていたが、ふいにまぶたを開いた。
霊波の針が、異常な脈動を刻んでいる。
「──久高島、御嶽周辺で異常反応あり」
記録紙を見つめていた班員が小さく声を上げた。
清一郎はその言葉に無言で歩み寄り、記録を目で追う。
「通常の流れじゃないな……。これは『逆流反応』か」
「ええ。しかも、この波形……ただの現象ではなく、“誰かの意志”が絡んでいるような」
清一郎は目を細めた。
霊的な反応には慣れている。だが今回は違った。まるで島そのものが『誰かの祈り』に縛られているようだった。
彼は軽く息を吐き、静かに命じた。
「久高島に向かう。霊的密度は高いが、現地調査を実施する」
緊張した班員の声が上がる。
「……あそこは、我々も初めてですよね」
「だからこそ、慎重にな」
清一郎の言葉が静かな重みを帯びる中、小さな影が観測所の入り口で動いた。
「わたしも……連れて行ってください」
それは、ツルの声だった。
清一郎は視線を向けた。ツルの瞳には、不安と同時に、確かな決意が宿っていた。
「なぜだ?」
「わからない。でも……呼ばれてる気がする。御嶽の奥で、誰かが祈りをやめられずにいるみたいで」
その声は、まるで自身の意志を超えた何かに導かれているようだった。
清一郎は数秒の沈黙ののち、小さくうなずいた。
「……同行を許可する。ただし、指示には必ず従え」
ツルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
* * *
久高島へ向かう小舟の上。
ツルは手元の布をそっと握っていた。
そこに包まれているのは、かつて砂辺の浜辺でウメとクルと一緒に見つけた、小さな白い石。
あれは、まだ世界が壊れる前――確かに心がつながっていた証だった。
(クル……)
胸の奥がじんわりと疼いた。
戦争のさなか、あの爆撃の日、気づいたときにはクルの姿が消えていた。
瓦礫の中、何日も探し回った。
誰も見つけてくれなかった。
ツルにとって、戦争が奪ったものの中で、最も痛かったのが――あの日、突然失われた“家族”の姿だった。
ツルが静かに目を閉じた、その瞬間だった。
――「にゃ」
耳に届いた、あまりに懐かしい声。
はっと顔を上げる。
そこにいた。
小舟の木の縁に、しっぽをくるんと巻いた黒猫。
オッドアイの金と青の瞳が、じっとツルを見つめていた。
「……クル……!?」
風が止まるように、時間が一瞬だけ静止した。
ツルはゆっくりと立ち上がり、その小さな身体に手を伸ばす。
クルは逃げることなく、ツルの胸元へすっと身を預けた。
「……うそ……どこにいたの……ずっと……!」
目尻が熱くなる。
言葉にならない思いが込み上げてくる。
クルは喉を鳴らしながら、ツルの頬に頭を擦りつけた。
そのしっぽの先が、ほんのわずかに――光っていた。
ツルの視界がかすかに滲む。
けれどそのぬくもりは、確かにここにあった。
(……帰ってきた……)
ずっと、祈っていた。
もう二度と会えないかもしれないと諦めかけていた。
でも今、再びそばにいる。
それだけで、胸がいっぱいになった。
遠く、久高島の森が近づいてくる。
かつて誰も足を踏み入れなかったその地に、ツルとクルが初めて降り立とうとしていた。
そしてそこには――
まだ、終わっていない“祈り”が待っている。
* * *
久高島へ向かう小舟の上で、ツルは手のひらに包まれた小さな白い石を握っていた。
かつて砂辺の浜辺で、ウメとクルと一緒に見つけた石だ。
戦争が奪ってしまったあの日々が胸に疼く。ツルの脳裏に浮かぶのは、爆撃で瓦礫となった家々と、その後姿を消したクルの姿だった。
(クル……どこにいるの……)
静かに目を閉じ、祈りを込めるように石を握りしめたそのときだった。
──にゃあ。
ふと、聞き覚えのある鳴き声がした。
ツルははっと目を開ける。
そこには、小舟の縁にちょこんと座った、くるんと曲がったしっぽの黒猫がいた。
金色と青色の、ふたつの瞳がじっとツルを見つめている。
「……クル?」
信じられなかった。
クルはゆっくりとツルのそばに歩み寄り、鼻先でツルの指をつついた。
確かなぬくもり、懐かしい香り──本物だ。
「クル……ほんとに、クルなの……!」
ツルはこらえきれずクルを抱きしめた。涙が、次々と頬を伝った。
クルの身体は温かく、その小さな鼓動が胸の奥まで響いた。
(戻ってきてくれた……)
しっぽの先が、ほんのりと青白い光を帯びていた。
ツルの中で、何かが再び繋がったように感じられた。
* * *
やがて小舟は、静かな久高島の浜辺に辿り着いた。
班員たちは緊張した面持ちで装備を確認している。
清一郎はひとり、黙って島の奥を見つめていた。
ツルは胸に抱いたクルを撫でながら、御嶽の奥を見つめる。
潮風は微かに重く、島の空気は祈りと沈黙に満ちていた。
(この奥に……誰かが待ってる)
胸の奥から、静かな決意が広がっていくのを感じながら、ツルは一歩、砂浜を踏み出した。
──こうして、久高島への初めての一歩が始まった。
その島に眠る“祈り”が、この先に何をもたらすのか──まだ、誰も知らなかった。た。
* * *
島に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
それまで聞こえていた波音や鳥のさえずりが遠ざかり、森の奥から微かな圧迫感が伝わってくる。
「久高島……やっぱり、特別だな」
班員の誰かがぽつりと呟くと、皆が無言でうなずいた。
ツルはその独特の空気に、小さく息を飲んだ。
胸元で抱かれたクルも、じっと耳を立て、金と青の瞳を静かに森の奥に向けている。
森に足を踏み入れた観測班の隊列は、ゆっくりと前進した。
観測班員たちは奇妙な装置を手にしている。
金属の枠に収まった針が細かく震える「霊波測定器」、結界を一時的に展開する「封結札」、背に背負った筒型の装置からは、低い共鳴音が漏れていた。
(祈りじゃない……何か、まるで病気を調べるみたい……)
ツルにはその機械的な光景が、少し冷たく感じられた。
そんなツルの様子を見て、若い班員のひとりがそっと近寄ってきた。
「怖いよな? 俺も初めてなんだ、この島。……でも、これが仕事だから」
「……はい」
班員は穏やかな表情で、腰につけていた札の束から一枚を抜き取ってツルに手渡した。
「弱い結界札だ。握ってれば、少しは気が紛れるから」
「ありがとう」
ツルが札を受け取ると、班員は少しだけ微笑んで、
「……まあ、俺たちにとっちゃ、いざとなったら神波さんがいるから大丈夫って感じだけどな」
そう言って、前方を歩く清一郎の背中を見やった。
「神波さん?」
「ああ、神波清一郎。うちの観測班の責任者だ。ちょっと変わってるけど、測定や予測の精度は他と比べ物にならない。……現場で何度も俺たちの命を救ってるよ」
その視線の先にいる清一郎は、静かに歩いているだけに見えたが、どこかその存在感が他の班員と違っているようにツルにも感じられた。
* * *
やがて、観測器の針が鋭く跳ね上がった。
「霊波急上昇!前方、二百メートル!」
班員の声が鋭く響き、空気が一気に張り詰める。
森の奥から白い霧が、静かに忍び寄るように広がってくる。その中心に、黒い影のような存在がゆらりと立っていた。
影の輪郭は曖昧で、ゆらゆらと不自然に揺れている。顔には表情のない、白い仮面が浮かんでいた。
(人の形……? でも……)
ツルが戸惑っていると、影は仮面の奥から、微かな声を発した。
「……ツル……」
名を呼ばれて、ツルははっと息を呑んだ。
「わたしを……知ってるの?」
声が震える。その問いに、影は答えない。ただ静かに、ツルを見据えている。
クルが小さく唸り、しっぽの先が青白く光り始めた。
「気をつけろ、何か来るぞ!」
班員が叫ぶ。
影は霧を伴い、まるで音もなく滑るように距離を詰めてきた。
その動きはどこか歪で、不自然なほど滑らかだった。地面を踏んでいる感覚もなく、まるで夢の中を歩いているかのようだ。
「結界札、展開!」
班員たちは即座に対応した。札を放つと同時に、透明な壁が空間を覆った。だが、影はその結界をじわじわと侵食していく。
「まずい……結界が押されている! 神波さん、これは──」
清一郎は静かに前に進み、測定器の針を凝視していた。
「霊波の波形が特殊だ……記憶と感情、情念が複雑に絡まっている。……この反応は、“個”の意志が明確だ」
ツルは、その影の仮面越しに感じる視線に動けずにいた。
「ツル……こっちにおいで。こわくないよ……」
甘く静かな囁き。その声を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
(知っている……この声……誰……?)
胸元に抱いたクルが鋭く鳴き、ツルの手に握られた小さな白い石が熱を帯びていく。
次の瞬間、石がほんのわずかに光を放った。
光を受けた瞬間、影の仮面に小さなひびが入る。
影はゆらりと後退し、一瞬だけ動きを止めた。
「今の光……?」
班員の誰かが声を漏らす中、ツルは息を止め、影を見つめ続ける。
影は静かに仮面の奥からツルを見つめ返していた。
そこには深い悲しみのような、切なさが宿っているように見えた。
まだ何も、思い出せない。
けれどその目は、確かにツルの心に届いていた。
「……あなたは、誰……?」
問いかけは、ただ静かな森の空気の中へと溶けていった。
* * *
霧が突如、怒りを帯びてうねり出した。
「──アアアアアアア……!」
影が放った叫びが波動となって広がり、周囲の結界札が粉々に砕け散る。
「結界、破れました!」
班員の叫びが響くと同時に、霧の刃が鋭くツルの前を切り裂いた。
ツルは悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「ツル!」
若い班員が咄嗟に駆け寄ろうとするが、その背後から黒い霧が竜巻のように噴き上がり、彼の身体を高々と宙に巻き上げた。
「う、わああああっ!」
「まずいっ……完全に攻撃意思を持ってるぞ!」
別の班員が焦りながら封結札を放つが、影はもはや止まらない。
その姿は巨大化し、暴れるように森を蹂躙しはじめる。
──その瞬間だった。
「ここまでか……」
静かな声と共に、神波清一郎が前へ踏み出した。
「対応区分変更。このままでは危険だ。私が処理する」
その言葉を聞いた瞬間、空気が凍った。
「神波さん……?」
班員たちは動きを止め、彼に視線を集中させる。
清一郎は静かに右手を掲げた。その指先が、複雑で精緻な軌跡を空に描きはじめる。
「──五行の理をここに結ぶ、天地を繋ぐ陰陽の陣」
彼の足元から五色の輝き──金、木、水、火、土が鮮やかに迸り、空間を縫うように複雑な図形を形成していく。
「『五行調和陣』、展開」
陣が完成した瞬間、辺りの空気が一変した。霧が陣に触れた途端、弾き飛ばされていく。
「す、すごい……これが神波さんの本当の力……」
班員が息を飲んだ。
影は負けじと激しく咆哮し、霧を鋭い槍の形に変えて清一郎へ向け突き出した。
「アアアアアアッ!」
だが、清一郎は動じなかった。
懐から一枚の白札を取り出し、指先に挟むと小さく息を吐いた。
「我が呼びかけに応えよ、白き尾の守り手──」
指が札を宙に放ち、光が迸る。
「『式神・白狐顕現』!」
眩い閃光の中から現れたのは、銀白の尾をなびかせた神秘的な狐だった。
その赤い双眸は闇を裂くように輝き、まっすぐに影を見据える。
「行け」
短い指示が下ると同時に、白狐が森の空間を瞬く間に駆け抜けた。
光と影が激しくぶつかり、激しい閃光と霊気が迸る。
影は強力だったが、白狐の疾走はそれを凌駕した。
一瞬の交錯。影の中央を白狐の爪が鋭く切り裂く。
「ギャアアアアアアアア!!」
霧が爆ぜ、仮面に深い亀裂が走った。
次の瞬間──仮面が光の粒となり砕け散った。
──静寂が訪れた。
仮面の奥に現れたのは、ひどく青白い頬をした少女の顔だった。
乱れた黒髪、虚ろな瞳──その姿を見た瞬間、ツルは息を止めた。
(……え?)
彼女の胸が激しく打ち鳴った。忘れるはずのない顔。忘れられないあの日々が、鮮やかに蘇る。
「……ウメ?」
その言葉は、震えていた。
影の中に現れた少女はゆっくりとツルのほうを向き、その虚ろな瞳で彼女を見つめ返した。
「……ツル?」
* * *
──森の中に、静けさが訪れた。
霧が晴れたあと、そこに立っていたのは、虚ろな瞳をした少女だった。
「……ツル……?」
少女がぽつりと呟くその声を聞いた瞬間、ツルの胸は締めつけられた。
「ウメ……ウメなの……?」
信じられない想いが、震える指先に伝わっている。
影の奥から現れた少女は、小さく頷いた。
その瞳に、僅かながら温かな光が戻ってきていた。
「ツル……やっと、会えた」
だがその輪郭は淡く、不安定に揺れていた。
ウメの身体は完全には現れておらず、霧の名残の中に溶けそうになっている。
ツルは必死に手を伸ばした。
「ウメ……! もう大丈夫だから……!」
「だめ、ツル。まだ触れないで……わたし、まだこっちに戻れないから……」
その声はか細く、消えそうだった。
ウメは悲しそうに視線を落とし、小さく呟いた。
「ごめんね……ツル。私、ずっと怖かった……。戦争も、誰かが死ぬのも、あなたを失うのも……。でも逃げたら、戻れなくなったの……」
涙がツルの頬を伝った。
「……いいよ、逃げても怖くても……それでも、私が必ず迎えに行くから」
ツルの胸元で、クルがそっと身体を寄せる。
そのしっぽの先が微かに青白く輝き、二人を繋ぐように空気を照らしていた。
そこに、静かに清一郎が歩み寄った。
その瞳は穏やかで、先ほどの戦いとは別人のようだった。
「光と影はもともとひとつの流れだ。恐れることはない。今の君たちなら、必ず取り戻せる」
そう言って、清一郎は懐から一枚の札を取り出し、静かに地面に置いた。
淡い光が空間に広がり、周囲の空気が穏やかに和らいでいく。
ウメはその光に包まれ、徐々に透明になっていく。
「……ツル、必ずまた会おうね」
「うん……絶対、また会いに来るから。それまで、待ってて……!」
ふたりの視線が重なったその一瞬、魂が確かに触れ合った気がした。
ウメは微笑みを浮かべ、やがて風に溶けるように消え去った。
ツルの手には、触れることができなかった儚い温もりが残った。
* * *
観測器の針はすでに動きを止めていた。
霊的な反応は完全に沈静化し、久高島は徐々に本来の静けさを取り戻している。
清一郎は軽く息を吐き、班員たちに告げた。
「現象の消散を確認した。これ以上の調査は不要だ。全員、撤収準備に入れ」
班員たちは安堵の表情を浮かべつつも、素早く装備をまとめ始める。
ツルの肩にそっと手を置いた班員が、小さく声をかける。
「よく頑張ったな。でも、これ以上は君の身体がもたない。今日はここまでだ」
ツルは無言で頷いた。
清一郎は最後に森の奥をもう一度見つめていた。
「今回はこれで終える。だが、この地にはまだ我々が知らない深層がある。……再調査の準備を進める必要があるだろう」
彼の言葉には、冷静な観測者としての判断と、わずかな敬意が込められているようだった。
観測班が小舟へ戻る頃には、久高島の空には微かに星が輝きはじめていた。
ツルはクルを胸元に抱きしめ、森を振り返った。
「ウメ、必ずまた戻ってくるから」
それはツルが自分自身に、そして確かにそこにいたウメに向けての誓いだった。
沖縄の“マブイ”と、本土の“陰陽”が交差したその夜。
消えかけた絆は、再びその形を取り戻しはじめていた。
物語は静かに、次の段階へと歩み始める──。