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第7話:戦の火が落ちる夜

 昭和二十年(三月)1945年。沖縄本島・斎場御嶽の村。




 朝なのに、空はどこか灰色が混じっていた。


 東の海から昇るはずの光は、薄い雲のベールに遮られ、

 村全体が、夜明けと夕暮れのあいだみたいな色に沈んでいる。


 ツルは井戸のそばで桶を引き上げながら、空を見上げた。


 遠く、海の向こう。

 小さな銀の点が、ゆっくりと列になって動いている。


 鳥じゃない。雲でもない。


 最近よく見る、

 空を切り裂いて飛んでいく「音の塊」。


 そのあと、どこかで黒い煙が立ちのぼる。




「……また、向こうのほうが燃やされてる」


 井戸の冷たい水が、指先を締めつける。


 少し離れたところでは、村の大人たちがラジオを囲んでいた。

 ガリガリと雑音交じりの音。

 聞き取りづらい声が、「本土決戦」「米軍上陸」という言葉を繰り返している。


 誰も、笑わない。


 子どもたちも、いつの間にか大声で走り回らなくなった。




 ユナばぁがいなくなって、ひと冬が過ぎた。


 ツルは今、御嶽の近くの小さな家で、

 村の手伝いをしながら暮らしている。


 朝は水汲みと畑、

 昼は年寄りの世話、

 夕方になると、斎場御嶽の掃き清め。


 ユナばぁがいつもやっていたことを、そのまま引き継ぐように。




(ユナばぁのマブイは、ここに居るんでしょう)


 御嶽の前に立つたび、

 ツルは胸の中でそうつぶやいた。


 マブイ。


 命の芯。

 見えない結び目。


 あの日、最期の枕元で聞かされた言葉が、

 今も胸の奥で静かに灯っている。




 結び目。


 ユナばぁ。

 ウメ。

 クル。


 そして、この御嶽。


 どれかひとつが切れたら、

 何か大事なものまで一緒に崩れてしまう気がした。




 クルが、石垣の上からひょいと飛び降りてきた。


 黒い毛並みを揺らしながら、

 くるんと曲がった尻尾を高く上げる。


「おはよう、クル」


 ツルがそう声をかけると、

 クルは「にゃ」と短く鳴き、足に身体をすり寄せてきた。


 その左右で色の違う瞳が、一瞬だけ空を見上げて細くなる。


 金色のほうには、

 遠くの銀の点々が映り込んでいた。




 ◇ ◇ ◇


 その日の午後。


 ツルは、ウメの家の前で立ち止まった。


 戸口の外には、いつもより多くの荷物が積まれている。

 衣服を詰めた風呂敷、米袋、鍋。


 ウメの母が、慌ただしく荷物を縛っていた。


「……引っ越すの?」


 思わず声が出る。


 ウメの母は振り向き、

 一瞬だけ困ったような顔をしたあと、

 無理に笑顔をつくった。


「ツルちゃん。驚かせてごめんね。


 ほら……南のほうが危ないって話もあるしね。

 北の親戚のところに、一時避難しようってことになってさ」


 言葉に出しているわりには、その目に迷いがあった。


「ウメは?」


「荷物の整理してるよ。……呼んでくる」




 しばらくして、戸口からウメが顔を出した。


 髪は少し伸びて、

 背も前よりわずかに高くなっている。


 けれど、笑うときの目の形は昔のままだった。



「ツル」


「……本当に、行っちゃうの?」


 聞きたくなかった言葉。

 でも、聞かずにはいられなかった。


 ウメは唇を噛んでから、小さく頷いた。


「お父、前に“学童疎開”の話を断ったからさ。

 今度こそ安全なところにって……」


「うちは?」


 ツルは自分の胸を指さす。


「うちは、ここに居るしかないよ。

 御嶽、ほったらかしにはできん」


 ユナばぁが守ってきた場所。


 結び目のいちばん太いところ。


 そこを離れたら、

 自分が自分でなくなってしまう。




「分かってる」


 ウメは、少し寂しそうに笑った。


「ツルは、御嶽の子だもんね」


 言葉自体はからかいのようでいて、

 その声には、確かな信頼と羨望が混ざっていた。


「だからさ。


 ツルはここに居て。

 うちは……戻ってくるから」


 そう言って、ウメは自分の胸元から

 細い紐に通した小石を取り出した。


 ツルが持っている白い石と対になる、あの日の片割れ。


「これ、ちゃんと持っててよ。


 結び目、忘れられたら困るから」


 冗談めかして笑ったウメの目の奥に、

 涙が滲んでいるのを、ツルは見た。




 言葉が詰まりそうだった。


 その代わりに、ツルは胸元の布袋を握りしめる。


「うちも、忘れんよ」


「うん」


 ウメは短く頷き、戸口の向こうへ消えていった。


 その背中が、どこか遠くに行ってしまう影のように薄く見えた。




 クルが足元で小さく鳴く。


 ツルは空を見上げた。


 遠くの銀の点は、さっきより増えている。


 空が、静かに音をため込んでいるようだった。




 ◇ ◇ ◇


 夕方。


 斎場御嶽の奥では、風が止んでいた。


 ツルは御嶽の前の落ち葉を掃きながら、

 違和感にぴたりと手を止める。


 音が、ない。


 鳥も、虫も、

 枝を揺らす風も。


 すべてが息をひそめている。




 御嶽のさらに奥。


 大きな岩の陰に、小さな窪みがある。


 雨のあとにだけ、水がたまる場所。


 けれど、今日は雨など降っていない。


 その窪みに、黒いものがわだかまっていた。


 水とも、影ともつかない、

 ねっとりとした闇の塊。


 以前、ツルが夜に迷い込んだときに見たものと、

 よく似ている。




「……また、出てきた」


 ツルがそうつぶやくと、

 クルが背を丸めて低く唸った。


 尻尾がふくらみ、毛が逆立っている。


 その尻尾の先が、

 うっすらと、白く光った気がした。




 黒い水は、ゆっくりと波打つ。


 そこから、細い糸のようなものが

 ふわりと空中へ伸びていく。


 糸は風もないのに揺れながら、

 御嶽の上空へ、さらに遠くの空へと消えていった。


 まるで、空に並んだ銀の点へ手を伸ばしているように。




 胸の奥がざわりとする。


 ユナばぁの声が、頭の中でよみがえった。


「マブイにはね、ぐるぐると同じところを回って溜まってしまう場所がある。


 黒い水たまりみたいなとこさ。


 あんたは、ああいう場所に

 人より強く引き寄せられてしまう子だよ」




(でも、うちは――)


 ツルは黒い水から視線をそらし、

 御嶽の前で手を合わせた。


「守りたいものからは逃げないって、約束したさね」


 それは、ユナばぁと交わした約束。


 戦が始まろうと、影がどれだけ濃くなろうと、

 自分で選んでここに立つ、と決めた。




 その瞬間。


 遠くから、耳を裂くような音が響いた。




 ゴオオオオオオ――




 空が震える。


 地面が、血の気を失ったみたいに冷たくなる。


 クルが飛び上がり、ツルの肩にしがみついた。


「……来た」


 誰かの声か、自分の声か分からない言葉がこぼれる。




 ◇ ◇ ◇


 村の上空に、

 黒い腹を見せた飛行機が列をなして現れた。


 警報の笛が鳴る。


「防空壕に入れ!」「子どもを連れて!」


 大人たちの叫び声が一気にあがる。


 泣き叫ぶ子ども。

 荷物を抱えて走る女たち。


 ツルは足を止められなかった。


 御嶽のほうへ走る。


 斎場御嶽の岩陰には、村人たちが掘った浅い壕がある。


 深くはない。

 心細いほどの穴。


 それでも、何もない場所よりはマシだ。




 山道の途中で、

 小さな子どもを抱えたおばあが転んでいた。


 荷物が散らばり、

 子どもは声も出せずにおばあの服を握りしめている。


 頭上では、金属の影が飛び交う音。




「うちが持つよ!」


 ツルは荷物を引ったくるように抱え、

 おばあの腕を引き上げた。


「もう少しで岩陰だから! 急いで!」


 息が切れる。


 心臓が苦しい。


 それでも足を止めない。


 守りたいと思ったものから、

 背を向けたくなかった。




 壕の入口にたどり着くと、

 すでに何人もの村人が身を寄せ合っていた。


「ツル!」「あと何人か入れるかね?」


「子どもを先に!」


 混乱した声の中で、

 ツルは子どもを壕の中へ押し込み、

 おばあを支えて中へと押しやる。


 自分は入口の岩陰に背中を預けるかたちで座り込んだ。


 クルが胸に飛び込んでくる。




 次の瞬間。


 空が破裂した。




 閃光。


 空気が、形を持って押し寄せてくる。


 耳の奥がキーンと鳴り、

 世界から音が消える。


 少し遅れて、

 地面を揺さぶる轟音が腹の底まで響いた。




 壕の中で、誰かが悲鳴を上げる。


 岩壁から土が落ちてくる。


 ツルは咄嗟に、

 入口側に覆いかぶさるように身を乗り出した。


 目を閉じる。


 次の爆風に備えて、

 全身を固く、固く丸める。




 そのときだった。


 瞼の裏側に、

 黒い水面がひらかれるのが見えた。


 御嶽の奥の、あの窪み。


 そこから、無数の細い手が伸びてくる。


 戦の恐怖、

 燃える街の叫び、

 忘れられた祈り。


 それらが混ざり合った「影」が、

 壕の中のマブイに、冷たい指を伸ばそうとしていた。




(だめ)


 喉ではなく、

 胸の奥で声が鳴る。


 ユナばぁの笑い声。

 ウメの約束。

 クルの温もり。


 結び目の感触が、

 ツルの全身をぎゅっと束ねる。




(ここからは、連れていかせない)




 ツルは、ぎゅっと胸元の布袋を握りしめた。


 熱い。


 石が、脈を打っている。



 クルの身体も、腕の中で震えながら光を帯び始めた。


 尻尾の先から、白い火花みたいな光が滲む。




 爆風が、もう一度迫ってくる。


 空気がねじれる。

 岩が軋む。


 その瞬間、

 黒い水から伸びてきた影の腕が、


 何か透明な膜のようなものにぶつかって、

 じゅ、と音もなく弾かれた。




 光と影がぶつかる。


 水面に投げ込まれた石のように、

 黒がはじけ飛ぶ。


 壕の入口の手前で、

 見えない壁に波紋が広がるような感覚があった。




 爆風は、壕のすぐ上をかすめていった。


 岩肌がえぐれ、

 土と小石が雨のように降ってくる。


 それでも、

 壕そのものは崩れなかった。




 土煙の中で、

 誰かがしゃくりあげる声がした。


「……生きてる……?」


 小さな子どもの声。


「生きてるよ。大丈夫、今はここにおる」


 ツルは、自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。


 腕の中のクルが、

 力を使い果たしたみたいに、ぐったりと丸くなる。


 尻尾の光は、もう消えていた。




 ◇ ◇ ◇


 どれくらい時間が経ったのか分からない。


 空襲の音が遠ざかり、

 壕の外の世界が、少しずつ音を取り戻していく。


 ツルたちは慎重に壕から出た。


 空は、さっきより赤に近い。


 村の向こう側から、

 黒い煙がもくもくと立ち上っていた。


 さっきまで人が暮らしていた家々が、

 あっけないほど簡単に崩れ、燃えている。


 火の手は、風にあおられて広がっていく。


 焦げた木の匂い。

 焼けた土の匂い。


 遠くから、誰かの泣き声が聞こえた。




 ツルは、胸が締め付けられるのを感じた。


 守れなかったもののほうが、

 きっと多い。


 それでも、

 この壕の中のマブイは、今もここで息をしている。


 そのことだけは、はっきり分かった。




(ユナばぁ)


 ツルは、焼けた空を見上げた。


(うちは……ちゃんと守れた?


 まだ足りない?


 それでも、逃げなかったよ)




 胸の奥で、黒い水が静かに波打つ。


 あの影の泉は、

 これからもっと深く、広くなっていくだろう。


 戦も、まだ終わらない。


 けれどツルは、その水の縁に立ってしまった以上、

 もう目をそらすことはできないと分かっていた。




 クルが、か細い声で「にゃ」と鳴いた。


 ツルはその頭を撫でながら、

 焼け跡の村を、まっすぐ見つめた。


 この夜のことを、

 きっと一生忘れない。


 そして、この夜こそが、


「影を抱く少女」が生まれた瞬間だったと、

 後に語られることになる――。

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