第7話:影を抱く少女
――朝が来た。
斎場御嶽の空は、ほんのりと青みを帯びていた。
夜明け前の冷たい空気が、焦げ跡の残る森と、崩れた岩の上を静かに撫でていく。
ツルは、ユナばぁの手を握ったまま、地面に倒れるように寄り添っていた。
どれほどその手を握っていたのか、自分でも分からない。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。けれど、世界はまだ、ほとんど音を取り戻していなかった。
ユナばぁの顔は静かだった。
苦しんだ跡はなく、どこか微笑んでいるようにも見える。
夜の間、何度も何度も呼びかけた。「起きて」「置いていかないで」「帰ろう」
けれど、その声はもう、ユナばぁの耳には届かなかった。
ツルは、眠るように動かないユナばぁの横で、夢の中と現実の狭間を揺れていた。
自分が泣いていたのか、眠っていたのか、それすらよく分からない。
震える指先で、もう一度だけユナばぁの手を握りしめる。
そこには、ほんのかすかに――昨日までの温もりの名残があった気がした。
「……ばぁ……」
かすれた声が、森の奥に吸い込まれていく。
ツルの心は空っぽだった。
何も感じない、感じたくない。ただ、ユナばぁのそばにいたかった。
戦争は終わったはずなのに、世界は何も変わらない。
焼け跡の匂い。黒く煤けた木々。空に漂う白い煙。
人の声も、祭りの音も、どこにも聞こえない。
それでも、朝日はゆっくりと斎場御嶽の奥を照らし始めていた。
――不意に、ツルの頬に光が差した。
それは、ユナばぁと最後に見たあの日の光に、少しだけ似ていた。
冷たい空気の中で、ツルはゆっくりと目を閉じる。
(ばぁ……ごめんね……守れなかった)
そう思うと、胸の奥がじんじんと痛む。
涙はもう枯れたはずなのに、また熱いものがこみ上げてくる。
朝の静けさの中、
斎場御嶽は、深い祈りに包まれていた。
* * *
森の中に、足音が近づいてくる。
枯葉や小枝を踏みしめる、複数人の重たい響き。
それはこの場所にしばらくなかった“人の気配”だった。
「このあたり、反応が強いぞ……!」
低く緊張した声が、静寂を切り裂いた。
斎場御嶽の入り口から、白い作業服に身を包んだ男たちが数名、慎重に歩み寄ってきた。
彼らは「秘匿結界観測班」――戦火の下で沖縄本島に配備された、特殊な霊的現象を調査する部隊だった。
一人の男が、古びた測定器の針が大きく振れているのを見て、驚きに息を呑む。
「ここだ……! 霊性反応、異常に高い」
班員たちが足を止め、目の前の光景を見て、しばし言葉を失った。
焦げ跡の残る岩陰に、14歳ほどの少女が一人、地面に膝をついている。
その手は、年老いた女性――ユナばぁの冷たい手を、まだしっかりと握っていた。
少女の髪はすすけ、顔には涙の痕が残っている。
けれど、その目は何かを見つめるように、どこか遠くを漂っていた。
最初に動いたのは、記録係・神波清一郎だった。
彼は班員たちの間を静かにすり抜けると、そっとツルの前にしゃがみ込む。
「大丈夫か……? 君、聞こえる?」
ツルはかすかに顔を上げるが、声を出すことができなかった。
ユナばぁの手から、どうしても離れられない。
清一郎は、ユナばぁの顔に目を落とすと、そっと黙礼し、その胸元で手を合わせた。
他の班員が、緊張した面持ちで測定器を覗き込む。
「……この少女から、ものすごい霊的波動が出ている。普通じゃない……」
「……戦災孤児、なのか……?」
誰かが小声でつぶやいた。
ツルは周囲の大人たちの声も、手の中のぬくもりも、すべてが遠くなっていくのを感じた。
――あの日から、何も変わらない。
目の前の現実だけが、静かに自分を押し流していく。
班員の一人が、清一郎に目配せする。
「搬送しますか? ……このままでは危険です」
清一郎は、ツルの目線に合わせて優しく語りかける。
「君、ごめんね。今は少し、休もう。……大丈夫。君を安全な場所に連れていくよ」
ツルは微かに頷き、やっとユナばぁの手をそっと離した。
その指先に残る冷たさが、痛いほど胸を締めつける。
清一郎はツルの肩に静かに手を添え、彼女をそっと立ち上がらせる。
班員たちがブランケットを広げ、ツルの身体をそっと包み込む。
「……行こうか」
そのときだけ、ツルの足がふらついた。
けれど、清一郎の支えに身を預けて、彼女は焼け跡の森を一歩ずつ歩き始めた。
ユナばぁの亡骸は、やがて朝日の中で静かに眠り続けていた。
ツルの心には、ぬくもりと痛み、そして途切れそうな祈りだけが残されていた。
* * *
仮設の詰所――
戦争で壊れた民家の残骸を寄せ集めて造られた簡素な建物。窓はなく、壁に裂け目があるたび、朝の光がすき間から差し込んでいた。
ツルは粗末な布団に横たわっていた。
肩にかけられた毛布は、どこか薬品のにおいがした。
目を閉じれば、夢の奥でユナばぁの声が聞こえる気がして、ずっとまぶたを開けないでいた。
耳の奥で、男たちの声がかすかに聞こえる。
「やはり、霊性値が異常に高いな……」
「本人は完全に無反応だ。心的ショックか……?」
「……データは取れた。あとは引き渡すだけだ」
どの声も冷たく、どこか機械的だった。
ツルは、自分が“もの”のように扱われている気がして、身体をさらに小さく丸めた。
だが、その中で一人だけ違う気配があった。
静かで、波立たない声。
「……もう少し、休ませてやれないか。目を覚ましても、今は何も話せないはずだ」
それは記録係・神波清一郎の声だった。
清一郎は、他の班員たちが離れた後も、そっとツルの枕元に腰を下ろしていた。
無理に言葉をかけることはせず、時折静かに水差しから湯飲みに水を注ぐだけだった。
ツルがふと目を開けると、清一郎と目が合った。
その瞳には、冷たい光も、強い期待もなかった。ただ、誰かの痛みを知っている大人の静かなまなざしだけがあった。
しばらくの沈黙。
「……喉、乾いてないか?」
清一郎がそう言って湯飲みを差し出す。
ツルは黙ってそれを受け取ると、一口だけ水を飲んだ。
何も話さなくてもいい。問い詰められない。
その静けさが、ツルにはかえって苦しくもあり、少しだけ心地よくもあった。
――夜。
詰所の灯りは、風が吹くたびにちらちら揺れた。
外から聞こえる虫の音が、ほんの少しだけ世界に命を返している。
ツルは座ったまま、目を閉じていた。
やがて、静かに清一郎の声が聞こえる。
「……君は、“何かを守るために生き残った”顔をしてる。……そんな顔、俺は忘れられない」
その言葉に、ツルの胸がわずかに震えた。
戦火の中、誰かを守り、誰かを失い、どうしようもなく生き残ってしまった自分。
心のどこかで責め続けてきたその顔を、初めて誰かに見抜かれた気がした。
涙は出なかった。ただ、胸の奥にそっと波紋が広がっていく。
ツルは俯いたまま、小さく頷いた。
その夜、彼女は少しだけ、静かに眠りにつくことができた。
* * *
夜が明け、仮設詰所の中に薄橙色の光が差し込んできた。
朝露が森の葉にきらめき、焼け跡だった御嶽の空気にも、少しだけ穏やかさが戻ってくる。
ツルは目を覚ますと、そっと起き上がった。
毛布の中で固まっていた指先をゆっくりと伸ばすと、昨夜より少しだけ身体が軽い気がした。
外に出ると、空は深い青から柔らかな朝の色へと変わりつつあった。
焼け残った岩陰の先に、昨夜まで自分がいた場所が見える。
ユナばぁの亡骸は、観測班の手で静かに清められ、花が一輪添えられていた。
ツルは小さく息を呑み、そっとその前にしゃがみ込んだ。
もう冷たいユナばぁの手。でも、その手の温もりや、柔らかな声や、まなざしは心の中でまだ生きている。
「……ばぁ……ごめんね。……ちゃんと、行くよ」
そう呟くと、不思議と涙は出なかった。
夜通し泣き果てたのかもしれない。あるいは、心のどこかで少しだけ、前を向く力が生まれたのかもしれない。
後ろで足音がする。振り向けば、清一郎が静かに立っていた。
「……大丈夫?」
ツルはほんの少しだけ、うなずいた。
清一郎は、強く励ますでもなく、無理に慰めるでもなく、ただ隣に座る。
「……どうして、私に優しくするの?」
ツルは自分でも驚くほど自然に、ぽつりと問いかけていた。
誰にも言えなかった弱さや不安――それを、今ならこの人には聞いてもいいと思えた。
清一郎はしばらく空を見上げてから、ゆっくりと答えた。
「理由なんて、いらないさ。ただ……君が生きていてくれてよかった。そう思っただけだよ」
その言葉は静かに、でも確かにツルの胸の奥に届いた。
朝の空気に、微かな希望の光が混じり始めていた。
昨日までの痛みも、ユナばぁとの別れも、消えることはない。
でも――「誰かに大切にされていい」と、少しだけ思えるようになった。
ツルはユナばぁの亡骸に手を合わせ、静かに「ありがとう」と呟く。
これが本当の、最後の別れ。
けれどその祈りは、朝の光とともに、未来へと続く小さな約束になった。
ツルは立ち上がり、清一郎の方をまっすぐ見る。
心の奥に、小さな芽が息吹くのを感じながら――
彼女の新しい一日が、静かに始まった。