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第6話:マブイの胎動

 昭和二十年四月、沖縄本島南部。


 斎場御嶽の上空に、鈍く重たい音がこだました。


 ズゥン……と大地の奥深くまで響き渡るその音は、いつも聞いていた海の音や、村の祭りの太鼓とはまるで違う。

 空に走る黒い影――。それは爆音と火の粉を撒き散らし、家々や人々の日常を次々と飲み込んでいった。


 赤黒い煙が天まで昇る。その中に、あの優しい背中が、ぽつりと浮かぶように思えた。


 ──ユナ婆が、斎場にいる?


「ユナ婆が、御嶽に……!?」


 誰かの叫びが遠くで聞こえた。

 その瞬間、ツルの中で何かが凍りつく。


 避難しているはずだった。

「御嶽を離れない」と言っていたけど、それでも、いつも信じたかった。

 けれど今は、もう迷っている場合じゃない。


「お願い……お願いだから、生きてて……!」


 気がつけば、足が勝手に動いていた。

 手ぶらのまま、崩れた石垣を飛び越え、焼けた草の中を無我夢中で駆けていく。


 風が熱い。

 すすけた空気は、吸うたびに喉を焼く。

 身体の奥で、鼓動が大きく鳴っていた。


「ユナ婆……どうして、どうしてそこに……!」


 ドォン……!


 すぐ後ろで地響き。木が裂け、岩が砕け、土煙が舞い上がる。


 爆風が、ツルの背中を追いかけてきた──


 でも。


 ふわっ──と、身体を包む風。


 足元から吹き上がる風が、ツルの身体を優しく持ち上げ、爆風の中心から彼女を滑らせるように遠ざけた。


「えっ……?」


 転がるはずだった身体が、宙に浮いたように軽い。

 後ろで地面が抉られ、火の柱が立ち上がる。


(……今の、偶然?)


 でも、それは違う。

 明らかに、自分のまわりの空気が変わっている。


 風が、心臓の鼓動に合わせて脈打っていた。

 まるで、誰かがそっと手を伸ばしてくれているような――不思議な、あたたかい気配。


 石垣の向こう、薄暗い斜面の下。

 日本兵らしき影が、泥にまみれてうずくまっていた。


「立ち入り禁止だ──!」


 目が合った瞬間、一人の兵士が声を張り上げる。

 それは命令というより、恐怖に突き動かされた叫びだった。


 彼らもまた、逃げていた。

 軍の指令ではなく、生きるためだけに、聖域へと潜り込んでいたのだ。


 一瞬立ち止まりかけたツルだったが、すぐに心を振り切った。


(ユナ婆が、まだ……!)


 爆音がまた響く。空から迫る影。


 今度は、ツルの真上――


「っ……!」


 バゴォォン!!


 激しい爆音、閃光。

 世界がぐらりと歪む。


 でも――またしても、ツルの身体には傷ひとつつかない。


 風が、彼女の前方に巻き起こり、爆風の進路を逸らしていた。


 その中心で、ツルはただ立ち尽くしていた。


「なに……これ……?」


 息は荒いのに、足は軽い。

 焦げた肌も痛くない。風が、すべてを優しく弾いている。


(守られてる……?)


 理由なんて分からない。

 でも、胸の奥がじんじんと熱い。

 その熱が風になり、彼女の背を押した。


「……行かなきゃ……!」


 ツルは走る。

 風そのものになったかのように、煙の中をまっすぐに。


 もう誰にも頼れないなら、自分が行くしかない。

 それだけが、彼女の全てだった。


 ──そのとき、胸の奥が脈打った。


 名もない“何か”が、確かに目を覚ました。

 形も理由も分からない。ただ、そこに在るもの――


 風が流れ、空が開ける。


 ツルの走りと共に、“何か”もまた、息を吹き返していく。


 * * *


 斎場御嶽が見えてきた。


 焦げた森の先、倒れた枝と岩の間──


 そこに、ユナ婆がいた。


「……ユナ婆!」


 ツルは叫び、転ぶように駆け寄る。


「嘘……やだ……!」


 土にまみれ、胸の下に赤い染み。

 でも、かすかに息をしていた。


「よかった……! でも、すぐ……!」


 そのとき、また空が唸った。

 重い音が、近づいてくる。


(来る──!)


「いやっ、やめてよっ!」


 ツルが叫ぶと、地面がうねる音が響いた。


 崩れかけた岩が、まるで意志を持つようにせり上がり、二人を盾のように包んだ。


「なに、これ……!?」


 岩と土が壁となり、次の瞬間──爆風。


 ズドォン……!


 世界が大きく揺れる。でも、土の壁はびくともしなかった。


 ツルは立ち尽くす。


(私……何を……)


 分からない。でも、感じる。


 ──守れた。


 手のひらが冷たくなっていく。


「え……?」


 水のような感覚。でも、水じゃない。

 手のひらから、やさしい光がじんわりとにじみ出した。


「お願い……お願いだから……!」


 光はユナ婆の胸に染みこみ、ゆっくり呼吸を整えた。


 その手が、ツルの指を握り返す。


「……ツル……来てくれたんだね……」


「うん、来たよ……!」


 涙がこぼれる。でも、心の奥に灯るものがあった。


 * * *


 ユナ婆の身体はまだ痛々しい。でも、確かに生きている。

 ツルはその手を包み、そっと寄り添った。


「……お前が来てくれて、ほんとうによかったさ……」


 かすれた声。その中に、微かに笑みがあった。


「私……変なんだ。風が動いて、地面が持ち上がって……光まで……。でも、自分でやった気がして、怖いの」


 戸惑いと混乱がにじむ声に、ユナ婆は目を細めて優しく微笑んだ。


「……うん、それでいいさ。分からなくて当然さね……」


 静かに、そっとツルの髪を撫でる。


「でもな、ツル──お前の“マブイ”は、もう目を覚まし始めてる」


 風が止まり、斎場御嶽に静寂が戻る。


「……ツル。話しておきたいことがあるんだよ。

 これはな、ノロの血を引く者たちが代々伝えてきた話さ──」


 ツルは背筋を正し、耳を澄ます。


「この世がまだ若かった頃……人と神の間に、今ほど境目がなかった。

 命が芽吹き、風が歌い、水が祈り、光が微笑んだ……“マブイ”という流れが世界に満ちていた」


「マブイは、風や火、水、土、光や影、祈りや時……自然や感情そのものの力だ。

 人はみんな、それぞれ“自分のマブイ”を抱えて生まれてくる。

 ……誰の中にも、必ず、何かがある」


 ツルの胸に、さっき感じた風や大地の揺れ、光――それが全部、“マブイ”なのだと、しみこんでいく。


「……でもね、ツル」


 ユナ婆の瞳が、鋭くも優しく細められる。


「お前のマブイは、特別さ。

 あらゆるマブイと結び、調和し、変えてしまう力――

 “ニライのマブイ”と呼ばれるものだよ」


「……そんな、伝説みたいな……」


「伝承には、こうある。“全てのマブイを結び直す力”。

 理を超え、祈りで世界の流れそのものを変える力。

 もともと“神”にしか許されなかったマブイ――

 今、その力が、お前の中で息づいている」


 ツルは戸惑いながら、胸の奥の熱がどんどん膨らんでいくのを感じていた。


「でも、なんで私が……?」


 ユナ婆は遠い目をしながら、やさしく語る。


「……赤子のころのこと、覚えてるかい?」


 ツルは首を振る。


「だろうね。でも、おばぁは覚えてるさ」


「曇り空に、一本だけまっすぐ光が降りてきて……

 お前のすぐ上にだけ、その光があった。

 春でもないのに、小さな花が足元に咲いていたんだよ」


「“神さまが来てる”って、あの日思ったさ。

 でも、不思議と怖くなかった。

 『この子に出会うために、生きてきた』って、そうはっきり思えた」


 ツルの目から、静かに涙があふれる。


「ツル、お前は多くのマブイと繋がれる。

 でも、それをどう使うかは、お前の心次第さ」


「その力に溺れるも、誰かを守るも、決めるのは“自分”――」


 そう言って、ユナ婆はもう一度ツルの手をぎゅっと握る。

 命のぬくもりを感じる。


 * * *


 夜が明けきる前、斎場御嶽の奥に朝焼けに似た光が差し込んだ。


 その光に包まれながら、ツルはユナ婆のそばに座る。

 両手でその手を握りしめ、ただ、祈るように。


「ユナ婆……さっき、私……何か、したの?」


 胸の奥が熱く、今も何かが揺れている。


(確かに、世界が動いた……)


 自分の中から、何かが溢れた。

 それは幻なんかじゃない、はっきりした感覚。


 ユナ婆のまぶたが、かすかに開いた。

 ぼんやりした焦点でも、ツルをしっかり見ていた。


「……ツル……よう、やったねぇ……」


 その声は細く、でもしっかりとした風の音みたいだった。


「だめ、もう喋らないで……!」


「ふふ……もういいさ……ノロとしての役目は……果たしたよ……」


 その笑顔はやさしく、切なかった。

 命の祈りそのものだった。


「……お前の中に、ちゃんと光が見えた。それだけで……幸せさね……」


 ツルが手を強く握る。けれど――


 ユナ婆の手から、力が抜けていった。


「ユナ……ばぁ……!」


 声にならない叫びとともに、涙があふれた。


 その想いが空気に伝わったように、ドン……と地面が鳴る。


 空間がゆっくり揺れ、何かがツルの中から解き放たれた。


 足元から大地色の波紋が広がり、空気が脈打つ。


 小石がふわりと浮かび、重力が反転するように髪が舞う。


 ツルの瞳は、深い金色に染まっていた。


 彼女の中心からあふれる力。それは「大地共鳴」――


 感情と共に目覚めた“マブイ”が、世界へと響いた瞬間だった。


「……もう、誰も……失いたくないんだよ……!」


 その祈りが、御嶽の空気を変えていく。


 * * *


 ──沖縄本島・南部。摩文仁の高台。


 戦火の届きにくい小さな木造詰所。


 ここには、一般には知られていない特殊な観測班がいた。


 “霊的現象監視班”――

 通称、「秘匿結界観測班」。


【★】


 古くは“影守かげもり”と呼ばれたユタや巫女、陰陽師の系譜。

 近代国家の裏で設立された特務調査部隊。


 目に見えない世界を監視し、異変の芽を摘むのが彼らの仕事だった。

 沖縄のように霊的密度が高い土地では、現地の感覚を持つ民間出身者と本土から派遣された技術系職員が混在していた。


 記録係として配置されていたのが──神波清一郎だった。


「……観測値、急上昇中。知念御嶽から強い反応……!」


 古びた測定器がうなりを上げ、針が跳ねる。


 清一郎は記録紙に目を走らせ、眉をひそめる。


「これ……単層の霊波じゃない。

 二重干渉……複数の波形が重なってる。

 しかも、この“波”――暴れてない。むしろ、調和して響いてる」


 針の動きは、暴走どころか、まるで秩序だった音楽のように整っていた。


「これは……誰かの“意志”だ。偶然じゃない」


 ──バチッ!


 複数の計測器が一斉に火花を散らし、沈黙する。


「……機材ダウン。干渉波が強すぎたか……」


 直後、無線が鳴る。


『神波清一郎へ──

 知念エリアにて沖縄特有の霊的反応を観測。

 “マブイ”と呼ばれる地域信仰との関連が高い。

 状況により、対象の確保または封印の判断を委任する』


 清一郎は静かに受話器を置いた。


「“マブイ”……そう呼ばれている力、か」


 窓から風がふっと吹き込む。

 記録紙が揺れ、机の上を舞う。


「乱れてない。暴走なら、もっと荒れるはず……」


 目を細め、焼けるような波形に見入る。


「……違う。これは“始まり”だ。

 何かが、いま世界の根っこから動き出した――」


 彼の声には、震えるような期待が混じっていた。


 新しい“時代”が、いま始まろうとしている――


 * * *


 斎場御嶽の中心部。


 ツルは、崩れた岩の上に静かに立っていた。


 まわりには、まだかすかな地の気が残っている。

 風は静かに流れ、空には薄く星が瞬いていた。


「……ユナ婆、見ててくれた?」


 ぽつりと呟いた声は、風に乗って、森の奥へ消えていく。


「私……やっと、少しだけ目が覚めた気がする」


 顔にまだ迷いは残る。でも、その瞳には光が灯っていた。


 誰かを救いたいと思った。

 力を振るう理由が、たった一つでも見つかった。


 ――たとえ、この力が恐れられても。

 それでも、“誰かのため”に立つ。

 その覚悟だけが、今のツルを支えていた。


 彼女の背中には、はっきりと新しい意思が宿っていた。

ご覧いただき、にふぇーでーびる(ありがとうございます)!


物語が少しでも心に残っていましたら、

ブックマークや評価などでそっと応援いただけると、とても励みになります。


後書きの下にあります「☆☆☆☆☆」から、

あなたの想いの数だけ、ぜひ押していただけたら嬉しいです。


これからもツルたちの歩みを、見守っていただけますように──。

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