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第5話:夢に差し込む、燃える景色

 ――夢だった。


 また同じ夢。


 黒く焦げた空。

 遠くで爆ぜるような音。

 崩れた家々の瓦礫に、ひとり取り残されたような少女の泣き声。


 焼け落ちる木造の家々。

 灰と煙のなか、誰かが助けを呼ぶ声がする。

 けれどツルの足は動かない。身体が、石のように重くなる。


 ふと足元を見ると、地面に落ちているのは“自分の手”だった。




「――やめて……!!」


 ツルは目を開けた。


 息が浅くなっていた。

 布団の中、闇はしんと静まり返っている。

 秋の夜風が、薄い障子をゆっくり揺らしていた。




 13歳になったツルは、顔立ちに少し大人びた陰影が出てきていた。

 頬の丸みが落ち、瞳には幼さの奥に、どこか“耐える者”の強さが宿っている。


 伸びた髪を後ろでひとつに結び、毎朝身支度をするのが日課になっていた。




 布団の端では、クルが静かに目を開けていた。

 くるんと曲がったしっぽを巻いて、じっとツルの顔を見ている。


「……起こしちゃった?」


 クルは「にゃ」と短く鳴き、ツルの胸に頭をこすりつけた。




 ツルはその柔らかさに、小さく息を吐いた。


「……また、燃える夢。……なんでだろうね」


 クルは、答えない。ただ黙ってそばにいる。




 数日後の朝。

 斎場御嶽の方角――村の奥にある聖域のあたりに、黒い霧のようなものが立ちのぼっていた。


「霧かねぇ……?」


「いや、煙じゃないか?」


「でも、火の匂いはしないさ……なんか、気持ち悪い」




 その夜、村の牛が一頭、何の前触れもなく倒れた。

 目を見開いたまま動かなくなり、血も傷もないのに、まるで“力が抜けきった”ように。


 それを見た老婆が、小さくつぶやいた。


「……あの霧が、なにか連れてきたのかもねぇ」




 まだ誰も、その意味を知らなかった。

 けれどツルの背中には、なにか湿ったものが、そっと手をかけていた。




 夜になると、風の音が微かに変わってきた気がした。

 御嶽の奥で、誰かが呼んでいるような――そんな気配が、近づきつつあった。


 * * *


ある日、村の井戸端に人が集まっていた。


「御嶽に入りびたりって、本当なのかね……?」

「猫と話すとか言ってたし、前からどこか違ってたさ」

「家畜が倒れたのも、あの霧が出たのも、きっと――」


 


そのときだった。


 


「それ以上、言うんじゃないよ」


乾いた声が空気を裂いた。

杖をつきながら現れたユナ婆が、目を細めて井戸端の中心に立った。


「祟りだの呪いだの言う前に、自分の心ん中をよう見てごらん。

 不安に呑まれて、誰かを悪者にしたくて仕方ないだけじゃないかい」


誰も、言い返せなかった。

ユナ婆の眼差しは、老いてなおまっすぐだった。


 


「ツルは……あの子は、おばぁがいちばん信じてるさ。

 人のせいにする前に、自分の“恐れ”と向き合うことさね」


 


村人たちは視線を逸らし、次第にその場を離れていった。


ツルはその様子を、少し離れた木陰から見ていた。

ユナ婆の背が、小さく、でもとても大きく見えた。



その夜。

ユナ婆は急に倒れた。

呼吸が浅く、手足に力が入らず、目も開けられなくなっていた。


ツルは、藁の布団に横たわるユナの手を握りしめた。


「だいじょうぶ……きっと、すぐ治るよ」


震える声で言いながら、ツルの中でははっきりとわかっていた。

この温もりは、少しずつ遠のいている。


 


外では風が止み、虫の音すらなかった。

まるで村全体が、息を潜めて様子をうかがっているかのようだった。


 


“自分はまた、一人になるのだ”――

その予感だけが、ツルの胸に重くのしかかっていた。


 


戸の外に視線を向けると、クルがじっと立っていた。

くるんとしたしっぽを静かに揺らしながら、

その左右の瞳で、何か“見えないもの”を見ているかのようだった。


 * * *


ユナ婆が倒れて三日目の夜、ツルは座敷の柱に背を預け、目を開けたまま眠れずにいた。

部屋の隅には薬草と水の器、冷たくなったお粥が置かれている。


ユナの呼吸は浅く、まるで何かと戦っているようだった。


「……ねえ、起きてよ……」


震える声で呼びかけても、返事はない。


 


月は隠れ、風もない。


「……ウメに、会いたい」


呟いた瞬間、胸の奥に小さく軋むような痛みが走る。

ウメの声、ウメの笑顔、あの石を分け合った日――

心の中に残っているのは、温かな思い出ばかりだった。


 


夜道を抜けて、ツルはゆっくりとウメの家へ向かった。

髪は風にあおられ、細くなった肩を包む着物がゆれる。

13歳になった彼女の体はまだ幼さを残しているが、歩く姿には迷いがなかった。


 


クルが後ろをついてくる。

足音を立てず、ただ静かに。


 


ウメの家に着くと、戸の隙間から灯りが見えた。

懐かしい匂い、声の気配――たしかに“ウメの暮らす場所”だった。


ツルはそっと戸を叩いた。


 


カラリ、と木の音が鳴ったあと、現れたのはウメの母だった。


 


「……ツルちゃん」


その表情は柔らかかった。けれど、その目の奥には、哀しみがあった。


「ごめんね。今は……ちょっと、会わせられないの」


 


「ウメは……?」


「……今は、家の中で休んでるの。学校のことや、畑のこともあってね……」


その言葉のどこかに、“もう来ないで”という静かな拒絶がある気がした。

ツルはそれを理解していた。


 


無理に聞き返すことも、叫ぶこともなかった。


ただ、深く一礼して――

ゆっくりと背を向けた。


 


夜の空気が冷たい。

クルがツルの足にすり寄るように歩く。

その目はツルの顔をじっと見つめ、何も言わず、ただ寄り添っていた。


「クル……ありがと」


ツルは小さくつぶやき、歩き出す。


 


背後で、ウメの家の戸が、静かに閉じる音がした。


“もう、誰にも頼れない”


その現実が、ツルの影を深く、重たくしていく。


 * * *


その夜、ツルは何も持たず、ただひとり御嶽へ向かった。


風はなく、空には月も星もなかった。

それでも、足元の小道はうっすらと見えていた。

 

御嶽の奥。


そこに、それはあった。


あの霧が、また、現れていた。


 


黒く、湿った霧。

風もないのに揺れ、まるで生き物のように地を這う。

近づくたびに、空気が冷たく濁っていくのがわかる。


クルがツルの前に立つ。

背を丸め、くるんと曲がったしっぽを高く掲げる。



そのしっぽの先が――ぼうっと光った。


白とも青ともつかない、言葉にできない光。

 

そして、霧の中から――“声”がした。


 


「きみも、さびしいんだろう?」


 


耳に聴こえる声ではなかった。

頭の奥に、直接響いてくるような感触。

言葉なのに、音ではない。


 


「誰も、信じてくれない。

だから、ひとりで耐えてきたんだよね」


 


ツルは答えなかった。

けれど、心の奥がじわりと染み込まれていくのを感じていた。


 


「でも、もう……がんばらなくてもいいんだよ?」


 


クルが低く鳴いた。


「……っ!」


ツルはハッと我に返る。

霧の輪郭が、一瞬“顔のようなもの”に変わった気がした。

目のような、口のような、形にならない影がそこにいた。


 


ツルは一歩、後ずさった。

胸元の石が、ぬくもりを帯びて小刻みに震えていた。


あの、ウメと分け合った白い石――

今にも何かを訴えるように、熱を持ち始めていた。


 


「……わたしは……」


何かを言おうとしたそのとき。

霧の奥がすっと静まり、気配がひとつ、消えた。


クルのしっぽの光がふっと消えた瞬間、

森の闇が一気に押し寄せてくる。


 

ツルは小さく震えながら、それでも後ろを振り返らずに歩き出した。

背後では、霧がゆっくりとしぼみ、祠の奥へと静かに消えていく。

 


クルがぴたりと寄り添い、ツルの膝に額を当てた。

その温もりだけが、唯一の現実だった。


 


翌朝、ユナ婆の容態はさらに悪化していた。

意識は浅く、名を呼んでも返事はない。

けれどその手は、ツルの手をそっと握り返していた。


 


そして、その日。

南の空に、かすかな轟音が響いた。

それはまだ遠いが、確かに――地の底から近づいてくるような、重い音だった。


 


風も、潮も、木々のざわめきも。

すべてが息を潜めるように、次の嵐を待っていた。


 


ツルは縁側に腰を下ろし、膝の上のクルを抱いたまま、遠くの空を見つめていた。


 


その目に、もう幼さはなかった。



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