表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/11

第4話:風と影と

 昭和十二年〈1937年〉夏、

サンニン(月桃)の葉が、風に揺れていた。

 御嶽の奥。村の外れにある小さな小屋の縁側で、ツルは膝を抱えて座っていた。


 七歳の少女。短く切った黒髪に、日に焼けた肌。

 村では「マジムンの子」と呼ばれ、ほとんどの子どもたちから距離を置かれていた。




 だが、今日もひとりだけ、風のようにやってくる声がある。


「ツルー! 今日さー、また方言札つけられたわけ!」


 弾む足音とともに現れたのはウメ。

 ツルより少し年上で、元気で、結んだ髪がよく揺れる子だ。


「うちなー口、つい出ちゃったら先生に見つかって、すぐ札つけられたさ。まったくもう!」


 彼女はランドセルを放り出し、どさっとツルの隣に腰を下ろした。




 ※※「方言札ほうげんふだ

 沖縄の学校で、方言を使った子どもに罰として首から下げさせられた木札。

「標準語を覚えさせるため」とされたが、子どもたちにとっては屈辱だった。




「言葉まで取り上げられるなんて、おかしいさー……」


 ウメの言葉に、ツルは小さくうなずいた。

 学校に行ったことはなかったが、彼女の話を聞いていると、外の世界の重たさが少し伝わってくる。




「……あ、そうだ。今日はこれ持ってきたよ」

 ウメは懐から小さな包みを取り出す。


「うちのおっかぁが作ったおだんご。ツルにも食べてほしいって」


「……ありがとう」

 ツルは小さな声で答える。その表情が、ほんの少しやわらいだ。




 そのとき――


「にゃーっ!」


 勢いよく、小屋の奥から黒い影が跳ねて出てきた。

 軽やかな足取りで縁側に飛び乗ると、勢いそのままに包みの近くへ突進する。




「こらー、クル! またおだんご狙ってるし!」

 ウメが慌てて手を伸ばすが、黒猫はひらりと避けて、すかさずツルの膝の上に乗った。


 しっぽの先がくるんと鍵のように曲がっている、小さな黒猫――クル。




 クルの目を見たウメが、ふと思い出したように言う。


「ねえ、ツル。クルの目って、変わってるよね」


「……うん。左と右で色がちがう」


「うん。金と青……。きれいだけど、ちょっと不思議な感じするよね」


「……見てると、なんか落ち着く気がする」


 ツルがぽつりと呟いた。




 ふたりと一匹。

 言葉は少ないけれど、静かであたたかな空気がそこに流れていた。




 その夜、クルはツルの布団の中に潜り込み、胸元に顔をうずめた。

 ツルは驚きもせず、そっとその背を撫でる。


 くるんと丸めたしっぽが、心の中の寂しさを、少しだけほどいてくれるようだった。




 まだ小さな命。だけど、もうツルにとっては、なくてはならない存在だった。

 それは、ウメにとっても同じだった。


 クルの目は、いつものようにやさしく見つめていた。


 * * *


 昭和十四年〈1939年〉、春。

 沖縄の海辺には、まだ戦の影は届かず、風はやわらかく潮の匂いを運んでいた。


 海が見える丘の道を、ツルとウメが並んで歩いていた。


 ツルは十歳。髪は肩まで伸び、目つきもやわらかくなってきた。

 少し背も伸びて、草履を履く足取りにも芯が見えるようになった。


 ウメは十一歳。成長が早く、制服は少しきつそうだった。

 腰まで伸びた髪を紐でくくり、まるで年上の姉のような頼もしさがある。




「ツルも、ほんと変わったさー。最初は、ぜんぜん喋らなかったのに」


「……そんなことない」


「あるある。前は、うちの話しても、“うん”しか言わなかったのにね」


 ウメが笑い、ツルは照れくさそうにそっぽを向いた。


 ふたりのあとを、くるんと曲がったしっぽが揺れながらついてくる。

 黒猫のクル。子猫だった頃に比べて、少しだけ大きくなり、肩にもひょいと飛び乗れるようになっていた。




「クルも、でっかくなったね。ちょっとふっくらしてきた?」


「……食べすぎかも」


「だよねー。うちの弁当のおかず、しょっちゅう減ってるし!」


 ツルとウメが顔を見合わせて笑うと、クルは「にゃ」と短く鳴いて砂浜のほうへ駆け出した。




「ちょ、クル! 波のほう行っちゃだめよ!」


 砂浜を走るヤドカリを追いかけて、クルは波打ち際でぴたりと立ち止まる。

 ふと、前足で砂をかくように動かし、地面の一点をじっと見つめていた。


「……なにかあるの?」


 ふたりが駆け寄ると、砂の中に白っぽい綺麗な石がふたつ見えた。

 陽の光を受けて、かすかにきらきらとわずかに虹色に輝いている。



「拾ったっていうより……掘り出した感じさ」


 ツルがしゃがみこんで石を拾うと、クルは満足そうに足元に頭を擦り付けた。


「クルが見つけてくれたんだよ、きっと。ね、ツル」


「……うん。なんか、いい石だと思う」



 ウメは自分のハンカチを取り出して、小さな石を包んだ。


「ふたりとクルの、ひみつのお守りね。これ持ってたら、離れてもきっとつながってる親友の証!」


 ウメはふたつある石のひとつをツルの手にそっと渡した。


「……ありがとう」


 ツルは布に包まれた石をそっと胸元に押し当てた。



 ツルとウメと、クル。浜辺に、三人の影が長く伸びていた。

 


 * * *


 空気がどこか重たく感じられる春の夜。

 風は止み、月も雲に隠れていた。

 御嶽の奥にある石畳の前に、ツルが静かに佇んでいる。


 十二歳になったツルの髪は肩を越え、横顔にはあどけなさの奥に落ち着きが宿っていた。

 動きにも無駄がなく、膝をついた姿には、どこか神聖な気配すら漂っていた。



 その日、ウメの祖母が高熱で倒れた。

 薬も足りず、医者も来られず、家族は心細い夜を迎えていた。


 ツルは自分に何かできることはないかと、ただひとり祈っていた。


「……ウメのおばぁちゃん、よくなりますように」


 小さく、呟いた。

 手を合わせたまま、ツルは目を閉じた。



 そのときだった。

 背後の茂みが、わずかに揺れた。


 しなやかな動きで現れたのは、黒猫のクル。


 クルも、以前よりすっかり成長して大きくなっていた。

 背の毛は艶を帯び、しっぽのくるんとした先端はゆるやかに揺れている。ただ、少し気になるのは他の猫より成長が遅い気がした。


「……クル」


 ツルが名前を呼ぶと、クルは一度鳴き、彼女の横にすとんと座った。

 しっぽの先が、ぴたりと止まる。


 そして――


 しっぽの先端が、かすかに光りはじめた。

 青とも白ともつかない淡い不思議な光。

 炎でも、月明かりでもない、静かな“ぬくもり”のような光だった。


 ツルは息をのんで、その光を見つめた。


 クルの目が、そっと開かれる。

 左は金色、右は青。

 その瞳が、ツルの瞳とまっすぐ重なった瞬間――

 胸の奥が、不思議とあたたかくなる。



「……ありがとう」


 ツルがささやくと、クルは「にゃ」と短く鳴き、しっぽをやわらかくふるわせた。


 その夜、ツルは御嶽でクルとともに過ごした。

 木々のざわめきもなく、ただ静かに、時間だけが流れていった。



 そして翌朝。

 ウメが慌ただしく駆けこんできた。


「ツル! おばぁ、熱下がったの! お医者さんもびっくりしてたよ。奇跡だって!」


 ツルは、ふっと微笑んでうなずいた。


「……よかった」


 彼女の胸元では、布に包まれた小さな白い石が、ほんのりとあたたかくなっていた。


 縁側では、クルが毛づくろいをしている。

 その仕草は、いつものクル――のはずだったが、

 ツルには、昨夜のしっぽの光が、夢ではなかったと確信できていた。


 * * *


 村に、少しずつ異変が忍び寄っていた。

 海の向こうの戦が本土にも及び、男たちは徴兵で次々に姿を消していった。


 配給は滞り、子どもたちの衣服は擦り切れ、畑には不安げな会話が飛び交う。

 笑う大人は減り、空を見上げる者も少なくなっていた。


 昭和十九年の夏。

 ツルは十三歳。背はすっかり伸び、ウメと並ぶほどに成長していた。

 肩を越える黒髪が風にゆれ、歩く姿には静かな芯が見えはじめていた。


 そして、ウメは十四歳。働き手として家を支える毎日の中で、背中には影を背負ったような大人びた表情を見せることも増えた。


「最近……変な夢を見るの。知らない場所の。」


 ツルがつぶやくように言った。

 縁側の下で、クルがごろんと転がり、片目を細めてこちらを見ていた。


「どんな夢?」


「凄く夢とは思えない現実みたいに……崩れた建物。泣いてる子。煙と、すごい音と……うまく言えないけど、未来の景色かもしれない。怖かった。」


 ウメは言葉を返さなかったが、ツルの手をそっと握った。

 ツルは、それだけで少し楽になった気がした。



 その夜。

 ツルは御嶽の奥でまた祈っていた。


 未来が怖い。

 でも、誰かを守りたい。

 その想いだけが、胸の奥に強く感じていた。



 目を閉じると、耳の奥で水音のような響きがした。


「……クル?」


 目を開くと、黒猫のクルが傍に立っていた。

 毛並みは艶やかに伸び、金と青の瞳が暗闇の中で静かに光っていた。


「なにか……感じてるの?」


 クルは鳴かなかった。

 ただ、くるんと曲がったしっぽの先をゆっくり揺らし――光らせた。


 青白い火のような淡い光が、しっぽの先端にともる。



 その瞬間。


 御嶽の奥、何か黒いものがすっと横切った。

 風はないのに、木々がざわめき、草がざわりと波打つ。


 ツルは息を止め、その気配を見つめた。

 “何かがいる”と、本能が告げていた。



 クルはツルの前へ一歩進み出て、しっぽをさらに高く掲げた。

 その光が広がったとき、異様な気配はふっと消えた。


 そして――

 ツルの胸元にある、布に包んだ白い石が、じんわりと熱を帯びていた。


 確かに“なにか”が近づいている。

 それだけは、はっきりと感じられた。



 ――そして翌日。


 村の東側、草が枯れた畑の隅で、一頭の牛が倒れていた。

 理由は誰にもわからなかった。ただ、

「何か変だ」と、村の人々はささやきはじめた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ