第3話:神の子か、忌まわしき子か
──昭和十二年(1937年)・春。
沖縄本島南部、島尻郡知念村(現在の南城市)。
田畑を囲む石垣にはツワブキやススキが芽吹き、乾いた風が吹き抜ける。
赤土に染まる畦道を、細い足取りで歩く少女の姿があった。
六歳のツル。
白頭巾に、縫い目の目立つ麻の着物。素足に草履。
胸元には、色褪せた布袋が揺れている。
ユナ婆の家の台所裏で拾った石と、台所の隅にあった少しのマース(塩)、そして月桃の葉を包んだもの。袋の中には、白く光る小さな石──ツルが「神石」と呼ぶそれが、いつも守るように揺れていた。
祈るように抱きしめるそれは、誰からももらったものではない。
ツル自身が、世界の中で見つけ、作った唯一の“守り”だった。
「ねえ見て、あれ……」
畑の脇を通りかかった村の子どもたちが、声をひそめて言う。
「あれって、あの御嶽の子?」
「マジムンの子なんだよ、知ってる? 夜な夜な御嶽の奥で何かと話してるんだって」
「ユナ婆が拾ったんでしょ? きっとマジムンの子さ」
ツルは聞こえていないふりをした。
耳に届くのは風の音と、自分の呼吸だけ。
……のはずだった。
「おーい、マジムンの子!」
振り返る間もなく、背中に不意の力が加わった。
突き飛ばされて、よろめき――そのまま、前のめりに倒れ込む。
「うわっ、転んだ!」
草履が脱げ、膝が擦れて、赤土がぱっと跳ねた。
胸元に抱えていた布袋も、ふわりと宙を舞って、地面に落ちる。
ぱかりと開いた布袋から、マースと小さな石が転がり出た。
神石は赤土の中に転がり、じわりと泥に染まっていく。
「あ、なにこれ……袋の中、マースと石? まじで怪しくない?」
「こいつ、やっぱ本当にマジムンの子じゃないの?」
子どもたちの笑い声が広がった、そのとき――
「やめて!」
鋭く張った声が、空気を裂いた。
ツルも、いじめていた子どもたちも、声のほうを振り向く。
そこにはウメがいた。
ふだんは静かなその子が、真っすぐにこちらを見つめていた。
「ツルは、悪くない。マジムンの子なんかじゃない」
子どもたちが少し引き気味に言い返す。
「でも、御嶽に住んでるし……なんか変だし……」
「関係ないでしょ」
ウメは一歩、前に出た。
声を荒げはしない。でも、はっきりとした目をしていた。
「みんなだって、知らないだけ。ツルは、優しい子だよ」
言葉に詰まった子どもたちは、ばつが悪そうに目をそらし、口ごもる。
そして、一人がぽつりと「……もう行こ」と言って、連れだって去っていった。
残されたのは、赤土にまみれたツルと、彼女にそっと歩み寄るウメだけ。
「大丈夫?」
ウメがしゃがみこんで、ツルの手から神石を受け取る。
手のひらで優しく泥をぬぐうと、小さな布でくるんで返してくれた。
「……ごめんね。私、もっと早く気づけばよかった」
ツルは何も言えず、ただ小さくうなずいた。
そのとき、胸の奥に、ぎゅっと何かが詰まった。
苦しさとあたたかさが、いっしょになって、こみあげてくる。
――ぽとん。
静かに、ひとしずくの涙が、神石の上に落ちた。
ウメはそっとツルの背中に手を置いた。
「一緒に帰ろ」
ツルは顔を伏せたまま、小さく「うん」とつぶやいた。
神石は、泥にまみれても、まだわずかに光を宿していた。
* * *
潮風が畑のあいだをすり抜け、赤土の道にふたつの影を落としていた。
並んで歩くのは、小さな女の子たち。
ひとりはツル。泥にまみれた布袋を胸に抱き、膝には擦り傷がにじんでいる。
その隣には、日焼けした肌にまっすぐな瞳をもつ女の子――ウメが寄り添っていた。
「……だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
ツルは心のなかで、誰にも聞こえない声で小さくつぶやいた。
サンニン(月桃)の香りとともに、ウメの草履の音が静かな道に響く。
「あい、やっぱり血ぃ出てたさ。ほら、手ぬぐい貸す」
ウメが差し出したのは、くたっとした手ぬぐい。
ツルがためらいがちに受け取ると、ウメはにっこりと笑った。
「そんな顔しないでさー。うちは全然平気よ」
まだ背後には、さっきの子どもたちの残したざわめきが、風と一緒に漂っていた。
「ほんと、あの子たちなんねー。調子に乗ってたくせに、ひとが本気出したらすぐ逃げるさー」
その言葉に、ツルは思わず小さく笑った。
その笑顔を見て、ウメは嬉しそうに目を細めた。
「うち、ウメっていうんだ」
「……ツル」
「うわさは聞いてたけど、会ってみたら全然怖くないさー。むしろ、かわいい」
ウメの言葉に、ツルは少し顔を赤くした。
「……どうして、助けてくれたの?」
ツルの問いに、ウメはふっと視線を遠くに向ける。
「うちもね、似た感じだったさ。
おっかぁは寝たきりで、おっとーは戦に行ったまま。
ばぁばと二人だけど、最近はうちの名前も忘れることあるさ」
そして、またツルのほうを見て、やさしく笑った。
「だからね、ツルの顔見たとき、“わかる”って思ったわけさ。
言いたいこと、ずっと我慢してた顔だったから」
ツルは立ち止まり、ウメを見上げた。
胸の奥が、じんわりあたたかくなる。
「……わたし、ずっとひとりぼっちだと思ってた」
「なんくるないさ。今はふたりで歩いてるでしょ?」
ウメがにっこり笑って、ツルの手をとる。
そのときだった。
「……にゃあ」
藪の中から、ひょこりと黒い影が飛び出した。
「きゃっ!?」
ウメがちょっと驚いた声を上げる。
姿を現したのは、小さな黒猫だった。
しっぽの先がくるんと巻き、片耳が欠けている。
痩せてはいるが、左右で色の違う瞳――左は金色、右は澄んだ青――が印象的だった。
「猫……?」
ツルが声をもらすと、猫はまっすぐ彼女のほうへ歩いてきて、
そのまま足元にちょこんと座り込んだ。
そして、おずおずとツルの膝に額をすり寄せる。
「えっ……な、なんで?」
「なんねこの子、ツルに懐いてるさー」
ウメは少し驚いたように言って、しゃがみこむ。
「見て、この目。金と青……きれいだね。なんか神様みたい」
猫は喉を鳴らして、安心したようにふたりのそばにうずくまった。
その毛並みはぼさぼさで、少しだけ泥がついている。
ツルはそっと、震える手で頭をなでた。
猫はうれしそうに目を細めた。
「……この子も、ひとりだったのかな」
ツルがぽつりとつぶやく。
その声に、ウメはそっと目を細めてうなずいた。
「じゃあ、もうひとりじゃないさ。ふたりと……いや、今日は三人になったさー」
ウメがにっこり笑うと、ツルも思わず笑った。
猫のしっぽが、ふにゃっと左右に揺れた。
空には赤い夕陽が差し、
三つの影が、ひとつに寄り添って伸びていった。
* * *
──その夜。
ツルは、そっと障子を開けて、御嶽の奥の小さな寝床に戻った。
古びた畳と、くたびれた布団。
部屋の隅に、そっと置かれた布袋がある。
その足元には、ふわふわの影が一つ。
昼間出会ったあの黒猫が、迷うことなくツルのあとをついてきて、
いまは彼女の横にちょこんと座っていた。
「……ほんとに来ちゃったね。帰るつもり、ないんだ?」
ツルは苦笑しながらしゃがみこみ、
猫の体をそっとなでた。
毛並みはまだぼさぼさで、神石と一緒に落ちたときについた泥が、ところどころに残っている。
ツルは、静かに布袋を開いた。
中から出てきた神石は、まだ乾いた泥に覆われていた。
彼女はぬらした布を取り出し、小さな手で石を包み込むようにして、丁寧に拭っていった。
「……また汚れちゃったけど、大丈夫。ちゃんと綺麗にしてあげるからね」
石は泥を落とすごとに、ほんのかすかに、光を取り戻していくように見えた。
それを元通り布に包んでそっと置き、ツルはふたたび猫を見つめた。
「……あんたも、きれいにしなきゃね」
ぬるま湯に浸した布で、今度は猫の泥をやさしくぬぐっていく。
猫はおとなしくしていた。
ときどき喉を鳴らして、ツルの動きをじっと見ている。
やがて毛並みが少しふわふわに戻ったころ。
ツルは布団の端をそっとめくって、小さな体を招き入れた。
「……いまは寝るとこ、ここしかないけど……」
猫は迷いなく布団に入り、くるりと丸まってツルの胸元にぴったりと寄り添った。
そのあたたかさに、ツルは小さく息をのんだ。
誰かがそばにいる。
そのぬくもりが、信じられないくらい、やさしかった。
ツルは、そっと猫の寝顔を見つめながらつぶやいた。
「……しっぽ、くるんってしてる。くろいし、ちっちゃくて、ちょっとドジで……」
一瞬、声をとめて――それから、少し笑った。
「……クル。あんたの名前、クルにするね」
猫は眠ったまま、小さく「にゃ」と喉を鳴らした。
ツルはその音を聞きながら、そっと目を閉じた。
ひとりじゃないという実感が、胸にじんわりと広がっていく。
布団のなか、小さな手と、小さな命が寄り添っていた。