第2話:琉球の聖地に現れた赤子
昭和六年の新春。
まだ夜明けには遠く、星の残る空の下──海からの風が、ぴたりと止んだ。
島尻郡知念村──いまの南城市にあたるこの地には、琉球王国時代から神が宿るとされた聖地がある。
その名は斎場御嶽。
御嶽とは、神々が降り立ち、語りかけ、祈りを受け取る“現世と神界の境”である。
その御嶽の奥、岩壁に囲まれた三庫理と呼ばれる祈りの場に、ひとりの老ノロが身を屈めていた。
彼女の名はユナ。
齢七十を超え、かつて琉球王国に仕えていた巫女筋の末裔である。
国が変わり、時代が変わっても──
彼女はただ、神の声を聞きつづけていた。
その夜、ユナは眠りの中で不思議な夢を見た。
──雲ひとつない空に、光と影が交わる。
──風は止み、大地の脈動が胸を打つ。
──そして、古の言葉が、かすかに響く。
「還れ……マブイよ……時をこえ……再び地に降れ……」
目を覚ましたとき、ユナは自分の足が御嶽へと向かっていることに気づいた。
靴も履かず、身一つで、まるで導かれるように歩いていた。
そして、御嶽の前へ辿り着いた瞬間──空気が変わった。
音が、消えたのだ。
鳥の声も、潮騒も、虫の羽音すらもない。
時間そのものが止まったような、“静寂の音”が空間を支配していた。
──そして。
御嶽の前に、ひとりの赤子がいた。
生まれたばかりとは思えぬ清らかな肌。
そして、泣き声ひとつ上げず、ただ静かに天を仰ぐその姿。
目を閉じているはずのその子が、
なぜか──彼女を、見ていた。
ユナの背に、冷たい震えが走る。
だが、それは恐怖ではなかった。
それはまるで、はるか昔に交わした「約束」を思い出すような、胸を打つ懐かしさ。
そっと近づいたユナは、岩肌に佇む赤子を抱き上げる。
その体はあたたかく、小さな心音は、御嶽の中に微かな“光の鼓動”として反響していた。
ユナ「……やはり、あんた、“還ってきた”んだね……」
この子は、神か。あるいは、人か。
いや、そんな区別すら無意味だと、ユナは感じていた。
──これは、「マブイの還り子」。
かつて命を繋いだ存在が、再びこの地に戻ってきたのだ。
その目的も意味も分からぬままに──
ユナは静かに、赤子を胸に抱き、歩き出す。
足元には、御嶽の滴からこぼれた水がきらきらと光り、
まるで赤子のマブイがそこに“祝福の印”を刻んだように見えた。
空がほんのりと青みを帯びはじめる黎明。
斎場御嶽の奥で始まったこの出来事は、やがて琉球の運命を変えていく──その第一歩となる。
──誰にも知られることなく、“神の子”が現れた夜だった。
* * *
赤子を抱いて村に戻ったユナ婆は、ゆっくりと家の門を開けた。
まだ薄明の時間、鶏の声がどこかで鳴き、煙草の火をくすぶらせながら男たちが起き出す頃。
その手に宿された命を見て、最初に顔をしかめたのは、隣人のオバァだった。
「あいや、ユナばあ……その子は、どこで?」
「……御嶽さ」
「えぇっ!? なんて……御嶽から来たの? それは……それはもう、神さまか、影のモンじゃないの……」
その一言が、まるで火種に火を投げたようだった。
朝の村にざわめきが広がり、老人たちは眉をひそめ、若者たちは遠巻きにその子を見る。
なかには手を合わせて拝む者もいれば、怖れを抱くように視線をそらす者もいた。
「御嶽の子は神の使いって言われてるさ」
「けど……そうじゃなくて、“祟り神”もいるって聞くよ」
「夜に出たって噂もあるさー。こりゃ、何かの予兆じゃないかね……?」
ユナはそんな声に動じることなく、静かに赤子を抱き続けていた。
その腕の中で、赤子は一言も泣かず、まるで周囲のざわめきを受け流すように、ただ目を閉じていた。
自宅に戻ったユナは、囲炉裏の前に座り、赤子に湯で温めたミルクを与える。
その口元がかすかに動いたとき、彼女の目からふいに涙がこぼれた。
「……久しぶりに、マブイのぬくもりを感じたよ」
日が高くなる頃、村の代表や古老たちがユナの家に集まり、囲炉裏を囲んで問うた。
「ユナばあ、その子をどうするつもりかね?」
「育てるよ。うちの孫として」
「そりゃ、無理じゃないか? 何者かも分からないし……」
「この村に災いが起きたらどうする?」
「逆さまさ。あの子は、災いから守るために現れたんだ」
そう言い切るユナの目は、老いを越えた強さに満ちていた。
「あの子のマブイは……“還ってきた魂”さ。どこかの誰かが転生したんじゃない。あの子自身が“ここへ帰ってきた”。それだけで、充分な証拠さ」
集まった男たちは顔を見合わせたが、ユナに逆らえる者はいなかった。
彼女は、今も村の御嶽を守る“最後のノロ”であり、誰よりも神事に通じた存在だったからだ。
「それにね、マブイの力ってのは、怖がれば怖がるほど、影に引きずられる……
だから、この子が“影の子”にならないように、あたしが見守る。それが、うちに課せられた役目さ」
やがて集まりは静かに解散し、誰もが複雑な想いを抱えながらも、ユナの家から遠ざかった。
その夜。ユナは縁側で赤子を胸に抱いたまま、空を見上げた。
風が戻っていた。
月が滲むように揺れ、その先に淡く光る星が瞬いている。
「名前が、いるね……この子には、“音”を与えなきゃいけない」
ユナはゆっくりと、赤子の額に手を添えた。
「“ツル”と呼ぶよ……風に舞うように、けれど根は深く、神と地を繋ぐ鳥のように──」
それは、彼女がかつて夢で聞いた名前。
それは、風のようにやさしく、神事のときに巫女たちが囁く「古きマブイの響き」だった。
──ツル。
こうして、御嶽から現れた赤子は名を与えられ、
御嶽の秘密を胸に抱いたまま、ひとりの少女としての第一歩を踏み出す。
次第に、ツルの中で眠るマブイが、目覚め始めていくことなど、まだ誰も知る由もなかった──。
* * *
時は経ち、1937年。
春の風が畑を渡り、フクギ並木の葉がさらさらと鳴る頃──
ツルは、村の御嶽の前で一人、指を組んで座っていた。
彼女は6歳になっていた。
髪は肩ほどに伸び、瞳は年齢以上の静けさをたたえていた。
そして、誰も教えていないはずの「言葉」を、祈るように口ずさむ。
「マブイよ、流れよ……この手に宿れ……
クミヤマヌシ(神の山主)よ、夜を越え、光を連れ来ませ……」
その言葉は、ユナ婆ですら知らない“古語”だった。
聞き覚えのない言葉に、畑で作業をしていた女たちが顔を見合わせる。
「また始まったさ……あの子、どこであんな言葉覚えたのかね?」
「まるで……神が乗り移ってるみたいさ」
誰もが気味悪がったが、ツルは構わず、御嶽の奥に向かって歌のように祝詞をささやいた。
ユナ婆はその様子を遠くから見守っていた。
「あの子は、見えないものが見えてる……“時のゆらぎ”に、マブイが触れているのさ」
村では次第に、「ツルには霊が憑いている」という噂が広まりはじめていた。
ある日、ツルは市場へ向かう途中、村の子どもたちに声をかけられた。
「おい、御嶽の子!」
「影としゃべってるって、ほんと? 呪いの子じゃないのか?」
からかいと好奇心の混じった視線。
ツルは何も言わずに、黙ってその場を離れようとしたが──
「おまえ、ほんとは人間じゃないんだろ!」
その言葉に、ツルの背中がわずかに揺れる。
だが、振り返ることなく、歩みを止めなかった。
彼女の中では、最近ある“夢”が繰り返し現れていた。
──岩のようなものが積まれた御嶽の奥。
──水面が月を映し、そこから伸びる影がこちらへ手を伸ばしてくる。
「影が……目覚める……」
その一言を、寝言のように口にした夜、ユナ婆はツルの枕元にそっとマースを撒いた。
「……この子は、見えすぎてしまうのかもしれんね」
ツル自身も、自分の中にある“記憶のようなもの”が、現実と混じり合っていく感覚を覚え始めていた。
自分はどこから来たのか。
なぜ、こんなに“知っているはずのないもの”を知っているのか──
それでも、ユナ婆の言葉だけが、彼女の支えだった。
「ツル、怖くなったら空を見なさい。マブイは、風に乗ってあんたを守ってくれるよ」
その夜、ツルは御嶽の前で両手を組み、空を見上げた。
月は静かに照っていた。
だが、月光の影に紛れて、何かが“こちら”を見ているような気がして──
ツルはふと、自分の胸元を握りしめた。
そこには、彼女が拾った石とマースを布に包んで作った、小さなお守りがあった。
「……マブイよ、お願い。私を忘れないで」
そう囁いた声は、風にかき消されたが──
その手のひらには、ほのかにあたたかい光が、そっと灯っていた。
影と光が、静かにせめぎ合いはじめる──
* * *
春の終わり、空気が重く湿り始めたある夕暮れ──
ツルは、斎場御嶽の奥へひとりで足を運んでいた。
木々の葉は深い緑に変わり、鳥たちもその静けさを避けるように声をひそめていた。
風は止み、空は淡い橙と藍のグラデーションに染まっていた。
ツルの足取りは迷いなく、岩の間をすり抜け、御嶽の奥、**三庫理**へとたどり着く。
そこは、かつてユナ婆が赤子の彼女を見つけた場所だった。
──私は、どこから来たのだろう。
──なぜ、こんなにも“懐かしい”のだろう。
その答えを誰かに教えてほしくて、でも誰にも聞けなくて。
ツルは小さく息を吐くと、御嶽の石畳に膝をつき、手を合わせた。
それは誰にも教えられていない“祈り”だった。
けれど、彼女の指は自然と動き、言葉は胸の奥から湧き出るように紡がれていった。
「マブイよ……私に教えて……
なぜ私は夢を見るの?
知らない景色、知らない言葉……
それでも、とても、なつかしいの……」
目を閉じると、風のない空間で、葉が一枚、ふわりと落ちる音がした。
その音が胸の奥に染み込んでいくように──
石の御嶽の奥で、なにかが“応えた”気がした。
ほんの一瞬だけ、ツルの手のひらがほのかにあたたかくなる。
それは、炎のようでもなく、日差しのようでもない。
ただ、やさしく包むような、命の根源に触れるような“ひかり”だった。
ツルは目を開き、自分の手を見つめる。
その手の中には、幼いころ自分が拾い、マース(塩)とともに布で包んだ**“お守り”**があった。
その中に忍ばせた石──それは、うすく光を宿していた。
「……神石……」
ツルが自然とそう呼んだその石は、
まるで“記憶”の中から持ち出されたような、不思議な存在感を放っていた。
その夜、ツルはユナ婆にそのことを話さなかった。
なぜなら、心のどこかで感じていたのだ。
──これは、「誰か」に教えられるものではない。
──これは、自分の中から“思い出す”ものだ、と。
祈りという行為が、ただの習慣ではなく、自らを導く力となることを
ツルは幼いながらに、身をもって知ったのだった。
それは、神でも人でもない、“在るべき場所”へ還るための第一歩。
月がのぼり、御嶽の石畳をやわらかく照らす。
ツルはその光の中で、ひとり座り続けていた。
静かな時間。
だが、その“静けさの奥”で、マブイは確かに──流れ始めていた。
──そして、影もまた、微かにざわめきはじめていた。
* * *
その夜、ツルはひとり、ユナ婆の家の奥で眠っていた。
布団の中、胸にはいつものように、手作りのお守りを抱いて。
夜風が障子を揺らし、外では月が雲にかくれ、空がにぶい灰色に沈んでいた。
夢を見た。
──それは、現と夢のはざま。
足元に水が滲んでいた。
まるで地面そのものが、黒く湿っていくように、足裏を冷たい感触が這いあがってくる。
「……ツル……ツルや……」
耳の奥で、かすれた声が囁いた。
男とも女ともつかない声──いや、それすら不明瞭な、影そのものの声。
「マブイはね、さみしがりやなんだよ……」
「だから……お前のマブイも、わたしのところへ……」
ツルは、振り返ろうとした。
だが、身体が動かない。視界は真っ黒に染まり、そこに人影のような“何か”がゆらりと立っていた。
影は、形を持たない。それはただ、空間のひずみのように、揺らめき、伸び、沈み、流れていた。
「お前の中にある“鍵”が欲しい……」
「それさえあれば……また、世界を元に戻せるのに……」
──なにを、言っているの……?
影は、ひとすじの涙のような光を放った。
その光は、お守りの中にある“神石”に吸い込まれるように、静かに触れていった。
「マブイが光る? あれは、あれは……おかしい、なぜ……」
その瞬間、ツルの胸元がぼうっと光を放ち、
影の囁きが、一気に遠ざかっていく。
「まだ……早かったか……」
「だが……お前は、いずれ来る……影の泉へ……」
ツルは、はっとして目を覚ました。
息が乱れ、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
障子の外、夜明け前の風が、静かに吹いている。
胸に抱いたお守りは、いつも通り、冷たく硬いだけだった。
けれど──確かに、夢の中では、光っていた。
「影……の……泉……?」
ツルは、手のひらでそっとお守りを包んだ。
不思議と、怖さよりも先に、
“そこに行かなければならない”という確信のような感覚が、胸の奥に灯っていた。
彼女はまだ知らない。
「影の泉」がこの世界の深部にあることも──
それが再び開くとき、かつての神々の因果が動き始めることも。
けれど、彼女のマブイは、微かに目覚めつつあった。
光と影のはざまで、祈りが生まれ、試練が始まろうとしていた。
──こうして、ツルの運命は静かに転がりはじめる。