第12話:よそ者と祈りの島
昭和二十年・初秋。久高島。
午前の光が、白い砂と海面に細かく跳ねていた。
潮の匂いと、干した海藻の匂いと、人の生活の匂いが、細い路地に絡みついている。
「陽翔にーにー、そこじゃないさ! そのカゴ、こっちねー!」
「はいはい、こっちだな」
浜の近く。
陽翔は袖をまくり上げ、島の子どもたちに囲まれながら、濡れた漁具を一つずつ運んでいた。
体つきは本土の若い男らしくすらりとしているのに、その手付きはもうすっかり「働き手」のそれだ。
重いカゴを持ち上げる時の腰の入れ方も、波打ち際で足を取られないようにする歩き方も、この短いあいだに身につけたもの。
「本土のわかもんにしちゃ、よう動くねえ」
「言葉もだいぶ分かってきてるさ」
浜の上の方で網を繕っていたおばぁたちは、最初こそ警戒した目を向けていたが、
今ではそんなふうに、ぽつりぽつりと感想を漏らす程度には、陽翔を「島の中」に置き始めていた。
その様子を、少し離れた日陰からツルが眺めていた。肩には、いつものようにクルが乗っている。
「……ようやるさね、はると」
「ツル」
こちらに気づいた陽翔が、汗をぬぐいながら手を振る。
陽の光を受けて、黒に近い焦げ茶の瞳の中に、かすかに琥珀の色がのぞいていた。
「そっちは終わったのか?」
「うん。御嶽の掃除はさっき片づいたさ。
こっちはこっちで、なんか賑やかね」
ツルが笑うと、肩のクルが小さく「にゃ」と鳴いた。
陽翔が浜から上がってきて、ツルの髪の先についた砂を指で払う。
「こっちの子どもたち、俺のこと名前で呼んでくれるようになった」
「最初は“本土の変なにーにー”だったのにね」
「それはまだ、半分くらいそう呼ばれてる気がする」
「はは。そりゃそうさ」
ツルは笑って、陽翔の横顔を少しだけのぞき込んだ。
陽翔は、左眉尻の下の小さな古傷を、ふっと動かして笑った。
その笑い方が、ツルにはどうしようもなく「懐かしく」感じられる。
「……その傷さ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「眉のとこ。どうしたわけ?」
「これか」
陽翔は無意識に、その部分へ指を運んだ。
指先に触れる感触は、とっくに塞がった古い線。
でも、皮膚の下には、風と雨の重さや、あの夜のざわめきが、まだうっすら残っている。
ふと、別の空と海が頭の中に浮かんだ。
台風の夜。
怒ったような風の音。
飛んでくるトタン。
後ろで泣きそうな声。
――にぃにぃ! 危ないって!
細い手首を掴んで、自分の方へ引き寄せた瞬間、顔のすぐ横を何かがかすめた。
熱いものが流れ、誰かが慌てて包帯を押し当てる手の感触。
璃子の泣き声と、安堵の息。
その全部が、一拍のうちに戻ってくる。
「……昔、ちょっとした事故でな」
陽翔は、遠い物を見るような目になっていた自分に気づき、わずかに首を振った。
「誰か庇って?」
ツルが、空気を読むように問いを重ねる。
「まあ、そんなところだ」
陽翔は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「ほんとに危ないのは、その時じゃなくて……
油断したあとなんだって、身にしみただけだよ」
「むずかしいこと言うさね」
「自分で言っていても、少しむずかしい」
ツルはじっとその古傷を見つめ、それから、ふっと目を細めた。
「でも、似合ってるさ」
「傷がか?」
「うん。
人を守った痕なら、かっこいいさね」
ツルの何気ない言葉に、陽翔は少しだけ目を瞬かせ、それから静かに笑った。
さっきよりも、少し柔らかい笑い方だった。
その時だった。
「――ツル! ツルや! あんた、ここにおったね!」
聞き慣れた声が、浜の坂の上から響いた。
ツルが振り返る。
潮風に揺れる髪、少し焼けた頬。
見間違えようもない、幼なじみの姿がそこに立っていた。
「……ウメ?」
胸の奥が、どくん、と跳ねる。
「なにぼーっとしてるわけっ!」
ウメは一気に駆け下りてきて、その勢いのままツルに飛びついた。
ツルは体ごとぐらりと揺れ、危うく陽翔の胸に倒れ込むところを、なんとか踏みとどまる。
「うっ……ちょ、ウメ、くるしいさ……」
「生きてた、生きてたわけね……! あんた、また勝手にどっかいって……!」
ウメの手が背中に食い込む。
その指先の震えが、どれだけの夜を泣いて過ごしたのかを物語っていた。
「……ごめんね。
でも、ウメもちゃんとここに来れてよかったさ」
ツルは、背中をぽんぽんと叩くように返す。
クルは二人の間から抜け出して、陽翔の足元に避難した。
「北の親戚のとこに避難してたんだってよ」
坂の上から、ウメの親戚のおばぁが息を切らしながら降りてくる。
「向こうももうぎゅうぎゅうでね。
久高の方がまだ安全だって話になって……こちらさわりね」
「こちらこそ、世話になりますさ」
ツルは軽く頭を下げる。
ウメはようやくツルから離れ、その背後に立っていた陽翔に目を向けた。
「……で、その本土のにーには、なに?」
じろり、と値踏みするような視線。
陽翔は一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに会釈した。
「陽翔です。しばらく、ここの人たちにお世話になっている」
「ふーん。
……なんか、いけすかん顔ね」
「ウメ」
「なによ。
ツルの隣に知らん男が立ってたら、こう思って当たり前でしょ」
口ではそう言いながらも、ウメの瞳の底には、安堵と疲労と、まだ拭いきれない恐怖が渦を巻いていた。
陽翔はその目をじっと見てから、ほんの少しだけ左の口角を上げた。
「いかにも『よそ者』だからな。
急に現れて悪かった」
「開き直ってるさね」
ツルが吹き出す。
ウメも、ふっと肩の力を抜いたようにため息をついた。
「ま、ツルが一緒におるってことは、そう悪い人じゃないんでしょ」
「……それはどうだろうな」
「はると!」
ツルが肘で陽翔の脇腹を小突く。
そんなやり取りに、周りで見ていた島の子どもたちが声を上げて笑った。
フクギの木の葉が、頭上でざわざわと鳴る。
戦前とはまるで違う形になってしまったけれど、それでも「日常」と呼べる時間が、少しずつ戻ってきているようだった。
◇ ◇ ◇
「……で、班長。人間も撮っていいですか」
午後。
久高の小さな役場として使われている建物の前。
古びた木陰の下で、記録係が清一郎に向かって頭を下げていた。
肩から提げた黒い革のケース。
中には、戦前でも滅多にお目にかかれないようなカメラが収められている。
「本来の任務は、地形、壕、御嶽、橋梁の跡、だろう」
清一郎は書類を閉じ、記録係の顔を見る。
軍服の襟元はきちんと留められ、表情も真面目だが、その眼の奥には、少年のような光があった。
「分かっています。
フィルムも、薬品も、今は本土にだってそうそう回ってこない。
一枚を無駄にはできないのも分かってます」
「ではなぜ」
「……この島で、生きてる人の顔を、一枚でいいから残したいんです」
記録係は、握っていた拳をゆっくり開いた。
「偉い人や指揮官たちの写真は、放っておいても誰かが撮ります。
でも、ここで祈っている人たちの顔は、誰かが『撮りたい』と思わなければ、二度と残らない」
その言葉に、一瞬、風の音が止んだように感じた。
清一郎は視線を横に向ける。
御嶽の方から、掃除を終えたツルが歩いてきている。その少し後ろには陽翔とクル。
彼らの向こうで、島の女たちが洗濯物を干し、子どもたちが小さな声で歌を歌っていた。
「……確かに、記録する価値はあるな」
清一郎は静かに言う。
「フィルムは一枚だけだ。
条件はそれだけだ」
「ありがとうございます!」
記録係の顔がぱっと明るくなった。
「場所はどこがよろしいですかね。御嶽の前か、それとも――」
「御嶽のすぐ下の浜はどうだ」
清一郎は顎で海の方を示した。
「御嶽と海と人。
この島を象徴する構図としては、分かりやすい」
「さすが班長、言い方がかたすぎます」
「そうか?」
「でも、いいですね。やりましょう」
◇ ◇ ◇
夕方。
陽が傾き、海の上に細長く道が伸び始めた頃。
御嶽のすぐ下にある小さな浜に、ツルと陽翔とクルが呼び出された。
「え、撮られるの、うち?」
ツルは、カメラを三脚に据える記録係を見て、目を丸くする。
「当たり前でしょ。
この島の“変な子”っていったら、まずあんたの顔よ」
背後からウメが口を挟んだ。
さっきまで髪をとかされていたのか、いつもより少しだけ整った格好をしている。
「変な子て。ウメも十分変さよ」
「うちは可愛い変な子だから別枠」
「よく言うさね」
陽翔が肩をすくめると、ウメはじろりと睨んだ。
「で、本土のにーには、どういう立ち位置?」
「陽翔くんはツルちゃんの隣に」
記録係が嬉しそうに指示を出す。
「この御嶽と海をバックに、久高の子と、どこから来たか分からない青年と、その猫。
これ以上ない“今の久高島”って感じだろう?」
「言い方が妙に詩人さね」
ツルは照れ隠しのように笑いながら、御嶽を背に立った。
背中に、御嶽の拝所の石の冷たさが伝わる。
「ツル、もう一歩だけ右」
「これくらい?」
「そうそう。
陽翔くんは、そのちょっと後ろ。ツルちゃんを守るみたいな位置で」
「守るかどうかはともかく」
陽翔は言われた通りに立つ。
その影が、ツルの影と重なって、砂の上に一つの形を作った。
クルはと言えば、声をかけるまでもなく、二人の足元にとことこ歩いていき、そこにぴたりと座り込んだ。
「おお、空気の読める猫だ」
記録係が感心したように笑う。
「はい、そのまま動かないでね。
目は、こっち」
ツルは、カメラの向こうにいる記録係の顔を見つめる。
――こんな贅沢、うちには似合わんさ。
戦の前、写真なんて話、一度も出たことがない。
家にカメラがある人なんて、町の偉いさんくらいのものだった。
それが今、自分の顔を、一枚の紙に閉じ込めようとしている。
この瞬間の「生きている証」を、焼き付けようとしている。
「……うち、変な顔してない?」
小声で陽翔に囁くと、彼は一瞬だけ笑った。
「さっきまでより、ずっといい顔してる」
「なにそれ」
「事実だ」
クルが、二人の足元で「にゃ」と短く鳴く。
「はい、いくよー。動かないで――」
カメラの前で、記録係が黒い布をかぶった。
小さな風が吹き、背後の御嶽の紙垂が揺れる。
「……いま」
乾いた音がひとつ、浜辺に落ちた。
それは、世界のほんの一瞬だけが切り取られた音だった。
◇ ◇ ◇
数日後。
久高の役場に、封筒がひとつ届いた。
「ツルちゃんたちへ、だとさ」
由紀乃が、半分おどけたように封筒を振る。
清一郎は書類の手を止めて、それをツルに渡した。
「開けてみろ」
「う、うん」
ツルは喉を鳴らしながら、慎重に封を切った。
中から現れたのは、手のひらほどの小さな白黒の紙。
御嶽。
その向こうに、光る海。
その前に立つ、自分。
その少し後ろに立つ陽翔。
足元には、丸くなったクル。
「……うち、こんな顔してたんだ」
写真の中のツルは、少し緊張しているようで、けれど確かに笑っていた。
陽翔の横顔も、戦場帰りの硬さが薄れた、柔らかい表情をしている。
「へえ、よう写ってるねえ」
ウメが横から覗き込み、むくれたように唇を尖らせた。
「ずるい。
なんでこの一枚に、うちが入ってないわけ」
「ウメはちゃんと女の子だけで撮ってもらったでしょ」
「あれはあれ。これはこれ」
「それを言うさね……」
ツルは苦笑しながらも、写真から目を離せなかった。
戦で、どれだけの顔を、声を、失くしたか。
思い出そうとしても、輪郭がぼやけてしまう人たち。
この薄い一枚の紙は、その「今」を掴んで離さないでいる。
自分がここにいた、と。
誰かと一緒に笑っていた、と。
「……贅沢、もらいすぎさね」
ぽつりと呟くと、清一郎が少しだけ目を細めた。
「贅沢というより、証だろう」
「証?」
「この島で何が起きて、誰が生きていたか。
いつか誰かが振り返る時、その手がかりになる」
陽翔も、ツルの隣から写真を覗き込む。
「もしかしたら、誰かの“忘れかけたもの”を探す手がかりにもなるかもしれないな」
「また難しいこと言うさ」
「言った本人も、よく分かってない」
陽翔は、苦笑いを浮かべた。
その夜。
島の灯りが落ち、波の音と虫の声だけになった頃。
ツルは一人、狭い部屋の片隅に座っていた。
膝の上には、昼間受け取ったばかりの写真。
油紙をそっと外し、紙の感触を指先で確かめる。
少しざらついた表面。
白と黒の境目に、あの夕方の風の匂いが、まだ残っている気がした。
「……なんか、変な感じさね」
写真の中の自分と目が合う。
ほんの少し緊張して、でもいまよりも少しだけ幼い顔。
隣には、陽翔。
足元には、クル。
「この一枚が、ずっと残るわけ?」
誰に問いかけるでもなく、ツルは呟いた。
「戦の前は、そんな贅沢、考えもしなかったのにね」
ユナばぁの家にも、写真なんてなかった。
いつも一緒にいたはずの人たちの顔は、いくつも、もうぼんやりとしてしまっている。
なのに、この紙の中の自分たちは、きっと何十年経っても、この夕方のまま、ここにいる。
ツルは写真を両手で包み込んだ。
目を閉じて、ゆっくりと息を落とす。
「……なあ、ニライ」
胸の奥、深いところに向かって、静かに呼びかける。
「この一瞬のマブイさ。
どうか、流れていってしまわんでね」
今日はうまく言葉にならない。
だから、ぽつり、ぽつりと、思いつくままに。
「うちのことでも、はるとのことでもないさ。
この島の風とか、御嶽とか、クルの丸い背中とか……」
言いながら、自分でも少しおかしくなってくる。
「いつか、まだ見ぬ誰かがさ。
道に迷った時とか、全部忘れてしまいそうな夜にさ。
もしこの一枚が、ちょっとでも“戻る道”の目印になってくれたら……」
そこまで言って、ツルは小さく笑った。
「うちは、それで十分、うれしいさ」
その瞬間。
写真の紙が、指先の下で、かすかに温かくなった気がした。
御嶽の石の冷たさ。
浜の砂のざらつき。
陽翔の横顔。
クルの体温。
久高の風。
それらが、細い糸になって、紙の中にすうっと染み込んでいく。
ツルには、その全体は見えない。
ただ、どこか遠くで誰かの手と、この写真の端っこが結ばれる予感だけが、微かに伝わってきた。
「……うち、何してるんだろうね」
自分で自分に呆れながら、ツルは苦笑した。
それでも、その手は写真を手放さない。
しばらくそうしてから、ツルは立ち上がり、部屋の隅に置いてある小さな桐箱を引き寄せた。
箱の中には、ユナばぁから預かった数珠と、小さな布のお守り、戦前から持ち歩いている貝殻が一つ。
「ここなら、なくさんさね」
ツルは写真を丁寧に重ね、蓋をそっと閉じた。
「贅沢は、たまにでいいさ」
そう呟いて、箱を押し入れの奥にしまう。
その動きの一つ一つに、どこか「誰かに託す」ような慎重さがあった。
戸を閉めると、外からは波の音が聞こえてくる。
クルがいつの間にか足元に来ていて、ツルの足に頬をこすりつけた。
「クル。
うちら、ちゃんと残せたかな」
「にゃ」
かすかな返事が、暗い部屋の中に溶けていく。
この一枚が、何十年も先のある日、
東京から帰ってきた一人の青年の手の中で再び光を帯びることを、今のツルはまだ知らない。
ただ、胸の奥のどこかで――
(ちゃんと、つながっていくさね)
そんな言葉が、静かに形になりかけていた。




