第10話:久高島、呼ぶ声
久高島へ行くことが決まったのは、その計器の針が震え出してから三日後のことだった。
「戦後残留調査と、ついでに霊波の観測だそうだ」
清一郎がそう言ったとき、ツルは「残留」という言葉の重さを、うまく呑み込めなかった。
戦は終わった。
けれど、この島のどこかには、まだ終わっていないものが残っている。
そういう意味なのだと、だんだん分かってきた。
港に並ぶ船のうち、一隻に「久高」と黒い字で書かれた札が掛けられている。
軍の船ではなく、漁師の船を改造したみたいな、小さな船だ。
波に合わせてゆらりゆらりと揺れていて、乗る前から酔いそうになる。
「おお、ツルちゃん。船は大丈夫かね」
網を肩に担いだおじさんが、にやりと笑った。
港の人たちも、ツルの顔はもう覚えているらしい。
観測班とセットで、何かと御嶽から降りてくる変な子、くらいには知られている。
「ちょっとは怖いさ。でも、行く」
ツルがそう言うと、隣で由紀乃が「私も怖い」と小さな声でつぶやいた。
「でもさ、こういうのって盛大に酔った方が『来たぞー』って感じしない?」
「どんな考え方」
清一郎が、半ばあきれた顔で荷物を担ぎ直す。
観測器を詰めた木箱が一つ、帳面とペンが入った鞄が一つ。
それだけで、彼がどこへ行っても「仕事」になるのだと、ツルは最近やっと理解してきた。
船が桟橋を離れると、港のざわめきがゆっくりと遠ざかっていく。
潮風が頬を打ち、塩の匂いが鼻の中を満たした。
水平線の向こうに、小さな島の影が見え始める。
「……あそこが、久高島ね」
由紀乃が目を細める。
ツルは無意識に、胸のあたりを押さえた。
懐かしいような、怖いような、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
初めて見るはずなのに、何かを「思い出しそうで思い出せない」感覚が、波のように押し寄せてくる。
(行きたくない、ような。
でも、行かなきゃいけない、ような……)
クルが足元で短く鳴いた。
黒い毛並みを風に揺らしながら、じっと島の方を見ている。
「クルも、何か感じるね?」
問いかけると、クルはツルの足に頬をすり寄せるだけだった。
その金と青の瞳の奥に、光が小さく明滅している気がする。
やがて船が浜に着くと、島の人々がこちらを見てざわついた。
痩せた少年、腕組みをしたおばあ、漁から戻ったばかりの男たち。
彼らの視線は、最初は観測班の男たちの荷物に向けられ、
次にツルの顔を見て、少しだけ柔らかくなる。
「斎場の子か。なら、まあ……」
誰かがそう言うのが聞こえた。
御嶽の子、というだけで、少しは怪しさが薄れるらしい。
「お世話になります。清一郎と申します。本土からの、戦後調査と……」
清一郎が、用意していた説明を丁寧に口にする。
その言葉の端々から、本当の目的を悟っているのか悟っていないのか、
島の人々は複雑な顔でうなずいた。
「この島にも、戦の前からの御嶽があってね。
勝手には入らせられんよ」
白髪の多いおじいが一歩前に出て、鋭い目を向けてくる。
清一郎がなにか言葉を探していると、その横から、しわだらけの細い手がすっと伸びた。
「斎場の子なら、連れていってもいいさ」
小柄なおばあが、ツルの顔をじっと見つめる。
髪には布を巻き、目尻には深い皺。
それでも、その瞳は驚くほど澄んでいた。
「島の御嶽は、よそ者にとっては“ただの場所”さ。
でも、あんたは違う。ね?」
問われて、ツルは一瞬言葉を失った。
何が違うのか、自分でもよく分からない。
ただ、御嶽の前に立ったときの胸のざわめきと、
戦の夜に感じたあの冷たい囁きだけが、頭の中で鳴り始める。
「……分からんけど。
見えはするさ」
正直にそう答えると、おばあは薄く笑った。
「見えるなら、それでいいさね。
私はこの島のカミンチュさ。案内してあげるよ」
カミンチュ。
ユナばぁが生きていた頃、何度か口にしていた言葉。
神に仕える人。祈りの道を歩く人。
ツルはおじぎをして、そのあとをついていった。
清一郎と由紀乃も、少し下がってついてくる。
島の道は、思ったよりも静かだった。
戦の痕は、ここにもある。
崩れた石垣、穴の開いた屋根、いなくなった家族の名を何度も呼ぶ声。
それでも、この島には、本島とは少し違う空気があった。
海の匂いは同じはずなのに、胸の奥をくすぐるような、柔らかい感覚。
足元から立ち上ってくる何かが、背骨の方へ、すうっと上っていく。
(これが……マブイの風、なのかな)
ユナばぁがよく言っていた言葉を思い出す。
戦の前、穏やかな夜に、縁側で一緒に風を浴びながら聞いた話。
「マブイはね、風に乗って動くんだよ。
いい風の日は、みんなの心も少し軽くなるさ」
今、頬を撫でる風は、決して軽くはない。
でも、どこか懐かしくて、涙腺を刺激するようなぬくもりがあった。
海が見える小さな丘を越えると、森が現れた。
木々のあいだから、白い石畳がのぞいている。
「ここが、久高島の御嶽さ」
カミンチュのおばあが立ち止まり、深く頭を垂れた。
ツルも同じように膝をつき、額をかすかに下げる。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
さっきまで体を包んでいた海風が遠ざかり、かわりに、
土と石と、祈りの匂いが、肌にぴたりとまとわりつく。
(斎場の御嶽と……少し似ている。
でも、もっと──深い)
ツルは喉を鳴らした。
足元の石の冷たさが、じわじわと膝から太ももへと上がってくる。
「一番奥には、泉があるさ」
カミンチュのおばあが、低い声で言った。
「昔から、島の者でも、そう簡単には近づかん場所よ。
あんた、本当に行くつもりかね」
おばあの視線が、ツルの横にいる清一郎と由紀乃に向く。
清一郎は目を細めて、静かにうなずいた。
「彼女は、もう何度も“境目”を見てきました。
ここを避ける理由は、ありません」
「理由なら、山ほどあるさ」
おばあは肩をすくめ、しかしそれ以上は何も言わず、奥の小道へと歩き出した。
森を抜けると、空が少しだけひらけた。
日差しが葉の隙間をこぼれ、細い道の先に、石垣で囲まれた小さな空間が見えてくる。
その中心に、泉があった。
石に囲まれた丸い窪み。
水は驚くほど澄んでいて、底まで見えるほどだ。
落ち葉も浮かんでいない。波紋ひとつない鏡のような水面。
なのに、その澄みきった静けさが、逆に不気味だった。
(……ここだ)
ツルは一歩、泉に近づいた。
足元の石が、かすかに鳴る。
クルが短く鳴き、尾をふくらませる。
金と青の瞳が、ツルと泉を交互に見つめている。
「ツル、無理はするな」
後ろから清一郎の声。
その言葉と同時に、由紀乃がツルの袖をそっとつまんだ。
「ねえ、なんか……冷たいよ。
ここだけ、空気が違う」
由紀乃の言う通りだった。
肌に当たる風の温度が、泉の周りだけ一段低い。
目に見えない境界線が、ツルの足首あたりをくるりと巻いている。
(でも、行かなきゃ)
ツルは小さく息を吸い、泉の縁に膝をついた。
水面を覗き込むと、自分の顔が映った。
疲れの残る頬、薄い唇、額に貼りついた前髪。
その隣に、一瞬だけ、知らない誰かの影が映った気がした。
長い髪。白い衣。
月光のように冷たい瞳。
「……!」
目を瞬いたときには、もうそこには自分と空だけが映っていた。
「ツル?」
清一郎の声が遠い。
泉の水が、彼女を引き込もうとしているように感じた。
ツルは、そっと指先を水面に近づけた。
「待て」
清一郎の声が、今度ははっきりと鋭く響く。
「触れるだけ」
ツルはそれだけを言って、指先で水面をかすめた。
瞬間。
真昼のはずの空が、ぱちん、と音を立てて消えた。
足元の感覚がなくなる。
冷たいとも、温かいともつかない、色のない空間。
上下も、前後もない。
自分が立っているのか、浮かんでいるのかすら分からない。
ただ、胸のあたりに、一本の細い糸が繋がっている。
それがクルと、清一郎たちと、現の世界へ続いているのだと、感覚で理解できた。
(ここ……どこね)
声を出しても、音にならない。
代わりに、遠くから、かすかな囁きが聞こえてきた。
「……アマ……」
誰かの声。女の声。
懐かしくて、聞きたくなくて、でも聞かずにはいられない声。
「アマ……ノ……」
ツルは勢いよく振り返った。
そこに、銀の衣をまとった女が立っていた。
月の光をそのまま形にしたような髪。
夜の海の底を思わせる瞳。
その顔を見た瞬間、胸の奥が痛いほど締めつけられる。
名前が喉もとまで上がってきて──そこで引っかかった。
(誰……?
でも、知ってる)
「あなたは……」
名前を呼ぼうとしたとき、女の唇が動いた。
「まだ、来るな」
そう言っているように見えた。
けれど、耳には届かない。
音が、途中で切り取られてしまうみたいに、意味にならない。
女の横に、もう一つの影が立った。
黒く、長く、底の見えない影。
人の形をしているようで、そうではない何か。
その影が、静かに手を伸ばす。
ツルの胸のあたりが、焼けるように熱くなった。
(あれは、戦の夜に見た──)
「ツル!」
現の声が、遠くで響いた。
クルの鳴き声も聞こえる。
胸に繋がった糸が、ぐい、と強く引かれた。
次の瞬間、ツルの視界は白く弾けた。
「ツル! おい、しっかりしろ!」
目を開けると、清一郎の顔がすぐそばにあった。
額に手を当てられ、由紀乃が半泣き顔で覗き込んでいる。
「急に倒れたんだよ。びっくりした……!」
ツルは荒い息を吐きながら、周りを見渡した。
目の前には、さっきと同じ泉。
水面は静かで、何も映していない。
ただ、胸の中には、さっき見た女の姿と、影の手の感触が、生々しく残っていた。
「……いた」
自分でも驚くほど低い声が、喉からこぼれた。
「ここに、“何か”いる。
ユナばぁが言ってたような、ちょっとしたマブイじゃない。
もっと……大きくて、よくないやつが、眠ってる」
カミンチュのおばあが、険しい顔で泉を見つめた。
「だから、近づくなと言ったんだよ。
あそこは、昔から“向こう”と繋がっている場所さ。
戦の前から、ずっとね」
清一郎は、ツルの肩に手を置きながら、泉と計器の方向を交互に見た。
胸の内で、何かが数式とは違う形で組み立てられていく。
(ここが、中心だ。
戦の前から、今も。
この島の、沖縄の──影の流れの)
彼はそっと息を吐き、帳面を開いた。
ペン先が紙の上を走る音が、泉の静けさの中に淡く響いていく。
ツルは、もう一度泉を見つめた。
今はただ静かな水面。
けれど、その底のさらに下に、
銀の衣の女と、底なしの影が、ひたひたと息を潜めている気がしてならなかった。
(あそこは、いつかまた私を呼ぶ。
今はまだ、「来るな」って言われたけど──)
胸の奥で、何かがゆっくりと、形を取り始めていた。
懐かしさと、罪悪感と、まだ名前のない決意が、
細い糸のように絡まり合っていく。
久高島の森を抜ける風は、
相変わらず、静かで、どこか哀しげだった。




