第1話:はじまりの神話 ― 降神と創生 ―
天より降り来たりし神の根は、たそがれに在りや──
光と影、うち揺らぎつつも、なほ手を結びけるか──
命の薬は波のまにまに宿り、
ゆるり、ゆるりと、始まりの風ぞ吹きわたる。
※出典:創作神詩『マブイの初風』より(物語内伝承)
* * *
はるか昔──言葉も祈りも、まだこの世に形を持たなかった時代。
海の彼方「ニライカナイ」から、二柱の神が天より降り立った。
ひと柱は、天を司る創世の母・アマミキヨ。
もうひと柱は、地を抱く父なる神・シネリキヨ。
彼らは最初に、神々の住まう聖域「ヒナタミヤ(陽向宮)」を築いた。
空は果てなく澄み、大地はやわらかく息づき、風は優しく頬を撫でた。
そこは、マブイ(魂)の流れが濁ることのない、神聖なる始まりの地。
「この地に命を。マブイの流れを穏やかに……」
アマミキヨはそう語った。
「我らの手を離れても、理はきっと巡るであろう」
シネリキヨは、静かにうなずいた。
ふたりの神は手を携えて、大地を広げ、山や海、森や川を創造した。
風に命の種をのせ、人々は生まれ、暮らしを始めた。
人々は太陽に感謝し、月に祈り、海に歌をささげ、風に語りかけた。
その祈りは天へと届き、神々の血を引く“祖霊神”たちが地上に現れた。
祖霊たちは御嶽と呼ばれる聖域に祀られ、人々を見守る存在となっていった。
その中に、特別なマブイを持つふたりの存在がいた。
ひとりは、万象と調和をもたらす太陽の女神・アマノキヨ。
もうひとりは、秩序と裁きを司る月の女神・ツキサキヨ。
ふたりは光と影の対として生まれながらも、互いを補い合い、姉妹のように親しく育った。
「ツキサキヨ、夜の静けさもまた、マブイのやすらぎね」
「そして陽の光もまた、裁きの背に影を落とす……ふふ、似て非なるものだわ」
アマノキヨは陽のぬくもりをもって命を包み、
ツキサキヨは月の静寂をもって、マブイの乱れを鎮めた。
昼と夜は交わり、理は保たれた。
ふたりが手を重ねるたび、世界は静かに息をし、マブイは穏やかに流れた。
──だが、時は流れる。
人々の心に、少しずつ変化が生まれた。
祈りは、やがて“欲”へと姿を変えていった。
土地を欲し、力を欲し、未来をも欲するようになった。
マブイの流れは濁り始め、神々の理をも揺るがすような兆しを帯び始めた。
「マブイが……苦しんでいる」
アマノキヨの声に、悲しみがにじむ。
「理が崩れる兆し……ならば、わらわが正さねばならぬ」
ツキサキヨの瞳に、強い光が灯る。
そして、ひとつの運命が静かに動き出す。
それは、ふたりの姉妹神が“決別”へと至る、遠い序章であった──。
マブイの濁りは止まらなかった。
ツキサキヨは、夜の夢を通して人々の影に警告を与え続けた。
「理が崩れる」、その言葉を幾夜も夢に織り込み、そっと魂へと届けた。
だが──人々はその夢を「呪い」と呼んだ。
夜ごと現れるその声は恐怖とされ、
御嶽は遠ざけられ、
やがて祈りすら忘れられた。
祀られぬ神は、孤独に沈む。
胸に宿っていた光は陰りを見せ、
心の奥で“影のマブイ”が芽を吹く。
誰かを憎んだからではない。
届かぬ祈り、報われぬ誠に心を削られ、
その哀しみが「影」となって彼女を包んでいった。
──それは、決して他者から与えられた呪いではない。
──それは、彼女が“人の心”に触れてしまったがゆえの堕ちゆく運命。
そして、運命の時が訪れる。
ツキサキヨは御嶽の奥に“影の泉”を生み出した。
それは祖霊すら穢す深き闇。
近づく者はマブイを損ない、理すら見失った。
「わらわが裁きを下すのではない……人の心が、わらわを影へと変えたのじゃ」
その言葉は、静かな嘆きのようだった。
ツキサキヨは、やがて「ユナクグツ(夜哭神)」と呼ばれる存在へと変わってゆく。
その哭き声は、夢と現を越えて魂に届き、人々のマブイを裂いた。
神域は乱れ、世界は再び混沌に沈もうとしていた。
アマノキヨは、姉妹であった彼女を救おうとした。
だが、影の泉はもはや神すら拒む。
それでも、彼女はあきらめなかった。
「ツキ……それでも私は、あなたの哀しみを忘れない」
その祈りと共に、アマノキヨは決断する。
神としての力、
そして「ニライのマブイ」──
すべてを代償に、ユナクグツを封じることを。
ふたりは、最後に語らうこともなかった。
ただ、光と影が交わるその一瞬。
封印の光が夜を裂き、神界を包んだ。
影神ユナクグツは、時の狭間に封じられた。
そして、アマノキヨもまた……
静かに、その座を降りた。
神の座を捨てた彼女は、
自らのマブイを新たな“肉体”へと宿す。
人として──この地に転生することを選んだ。
神としての理ではなく、
人としての「選択」と「絆」によって、
いつか影を救う未来が来ることを信じて──。
その姿を、誰も知らない。
その記憶を、誰も覚えていない。
けれど今も、静かにマブイは受け継がれている。