運命と自由意志2024/08/19 04:24
運命とは何か?自由意志とは何か?私たちは何によってものごとを決めることができるのか?
これはそんなお話です。小説を期待した人はごめんなさい、これは小難しい1人話に過ぎません。哲学が好きな人は気にいるかも知れません。
それでも良いよ(-д☆)キラッって方は少しお時間を頂いてしばし指を酷使していただけると幸いです。
そこまで長くはありません。
これは2024年8月18日にドイツのとある都市で行った討論をかえりみる試みです。
長く話すぎましたね。では続きをお楽しみください。
まずは運命とは何かについて話したいと思います。
様々な考えがそこにあると思いますが私の所感を申し上げると、運命は私たちが私自身でで制御することのできないものであると致します。
例えば、今この拙い文章を読んでくださる親切な読者様、あなたも私にとっては運命であると言えます。
なぜなら私はあなたの事を制御することは絶対にできないからです。促すことや影響させることはできます。ただ、制御することは出来ません。
そう、あなたがタイトルに興味を持ったのかあらすじに興味を持ったのかそのどちらでも構いませんが、結果的にあなたが取った選択に対してわたしは干渉できません。
あなたが読むと思わなければ誰もあなたに読むと言う行為を強制することはできないのです。
なのであなたがこの投稿を読んでいることはまさしく私にとって運命的であると言えます。
あなたという大きな力が働いているのです。
では予定説のような既に我々のなすことは決まっているという文脈の運命は運命ではないのか?
私はそれもまた運命であると考えます。
なぜなら予定説は神という制御することのできない大きな力によって我々がなすことが決められているという考えだからです。
正誤の判定はさておき私の決めた定義からはこれは外れていないのです。
この理論に基づく場合に出現する最も大きな例が我々自身の出生についてですが、それはこの論には深く関連しないので、述べるのは控えるとします。簡潔に述べると我々は生まれたくて生まれたわけではないというわけです。
そして、運命というものが制御できない大きな力だとするならば、私自身ですら制御できない、運命であると言えるでしょう。
なぜなら私には私が制御することのできない欲求が根源的に存在するからです。
例えば、私が喉が乾いて水が飲みたい。
そのため、水を買って飲むことにいたします。
この時、私には水を飲みたいという制御できない生物的な欲求が存在し、それによって私は水を飲むという行為を選択したことになります。
この欲求は制御のできない力であるため、運命であると言えます。
では私自身とは何なのかというと、これはデカルトの述べる至言に則りまして、我思う故に我ありなのでございます。
つまり考える私という自己が存在し、それこそが私の核である。私そのものなのであります。
よって私には、制御のできる私と、制御のできない私が存在するわけです。
より一般的に言えば、理性と欲望が人間には備わっているわけです。
そして理性以外は制御ができない。つまり運命であると言えるのです。
ふむ、なるほどと、運命については皆さん理解ができたのではないかと存じます。
ですが、制御可能な私、理性とは何なのでしょうか?
私たちは私達自身を何処までが制御が出来て、何処までが制御不可能であるのでしょうか?
私は制御のできる私、それこそを自由意志であると述べます。
つまり自由に私たちががものごとを選択できる、その部分に於いて私たちは理性的である。運命から外れたものであるというわけです。
さて、先程の例を振り返ると、私が喉が乾いて水を飲んだ訳です。しかし、喉が渇いているときに私は水ではなくコーラでも良いし、何ならビールを飲んでも構わないでしょう。
沢山の中にある選択肢の中で何を選ぶかは全権が私に裁量されており、自由に自分の意志で何を飲むかを選び取ることができるのです。
しかしながら、読者の皆さんは「いやいやちょっとお待ちよ、哀れな作者よ。それがもし正しいとして、その私が自由に選択することができる、制御することができたとしても、結局制御のできない私の飲みたいという欲望に影響されてしまっている。それじゃあ、自分で選択したということは難しいでしょう、浅はかなことをネットに書くのはやめなさい。」とお想いのことでしょう。
はい、確かにその通りです。
ここで私が申し上げるのは、運命は私たちの自由意志を影響するということです。なぜなら運命は自由意志すらも内包しているためです。
私以外の自由意志は私が制御できないため、運命であるからです。
自由意志すらも運命ではあります。ただし、私以外には。
そして私達は様々な外的要因に影響され、私たちが、それぞれ持つ自由意志もそれに変化します。
私たちの自由意志は私たちそれぞれが、自由に選択することができるのですが、自由とはいえ、私たちの自由意志はある程度の基準に則ってそれを定めているわけです。
そして、その基準は私とは違う外部要因。すなわち、運命によって決定づけられるのです。
この基準は私たちそれぞれが個々人で持っており、千差万別です。
しかし千差万別でありながらも、この基準には共通している1つの事項が存在します。
それは正しいということです。
私たちは自分たちが正しいと思った時のみしか自分の意志によって選択することができないのです。
例えば、少し古典に戻って中世ヨーロッパの
話をしましょう。キリスト教徒は中世において十字軍を結成し、聖地を取り戻すという正しき行いをするためにたくさんのムスリムを聖地獲得のために殺し、戦争をするという選択を取ることができました。
殺しや戦争というのは倫理的には間違っている行為ですが、聖地を取り戻すという正義がある時彼らはその正義という基準に基づいて人々を皆殺しにするという決断が取れたのです。
他の例を述べましょう。
とあるヴィーガンの方が、肉を食べることは動物を殺すのと同等だと考えるため、動物をこれ以上殺さないため野菜のみを食べることとする。
この例には個人の思想やポリシー、こだわりが存在します。その方の考える動物を殺さないという正義に基づいて、肉を食べずに野菜のみを食べるのです。
これらの例に基づくと私たちには大まかに2つの基準、正義があることがわかります。
それは社会的基準と、個人的基準です。
社会的基準は、社会及び他者が要請して個人に影響を与えて作り上げる基準、正義のことです。
常識や、道徳といってもいいでしょう。
例えば殺人を行ってはいけないということであったり、宗教的な戒律によって何かをすることは良くないことであるとか、禁止されている、またはしなくてはいけないなどです。
個人的基準は、主に自分の中の個人的な思想や正義または欲求のことです。
例えば、前述の社会的基準の例も引用して、とある方がある人に騙され、それを成敗するためにその人を殺す、殺したいと思い殺人を犯す。
宗教的な規律やコミュニティよりもより大事なポリシーがあるため無視をするといったことです。
例えば、普段は赤信号であるなら社会的に赤信号は止まることが正義のためその基準に基づき止まるという選択肢を取るが、本当に急いでいるときは、自分が間に合うために社会的基準を無視して、急いで時間を間に合わせる欲求、つまり個人的基準に則って自由意志により決定するのです。
これらの基準はどうやって形作られるのか?それは自由意志外から取り入れ、自由意志が受け入れたものの集合体です。
つまり、それぞれの人が考える正しさです。
例えば宗教や思想によって、美徳とするべきこと悪徳とみなすべきことは異なりますし、個人の考える正しさは幼少期からの親からの受け売りであったり自分と他者との交流であったり、または自己の内的な検証であったり様々なことから決定されうるでしょう。
究極的に言えば、正しいことや悪いことは存在しないのです。
"私たち"が、何が正しいのか、悪いのか、何が良くて、何が間違っているのかを決めているのです。
そして、それを細分化していくと個人それぞれが正しいとしていることは異なるということになります。
ただそれは結局私たちの考える正しさが自由意志に影響してしまって、本当の自由な意志ではではないじゃないかという方もいるかも知れません。
それは真理だと私も考えます。しかし、本当の自由意志があった場合、私たちが自由にあらゆることを、すべての私たちに付き纏うしがらみ、基準から解放された時、私たちは何も選び取ることはできません。自由であるからして、選択肢が無数に存在するため1つに絞ることができないのです。
こうなるとゆっくりと朽ちていくしかないでしょう。なぜなら欲求からも解放されているのであれば、生きたいという原初の本能ですら私たちを縛れず、自由意志そのものではそれを選択できないからです。
ということは、私たちが行うあらゆる行動には、私たちがその時その時で考える私たちの正しさが存在するのです。
だから何かを悔やんでいる人がいらっしゃったら私は、こう申し上げなければなりません。
あなたは正しい行いをした。あなたの周りが何を考えようとその時のあなたはあなたが正しいと思うことを行ったのだ。
何を恥じる必要があるのか?
何も恥じる必要はない。
何も悔いることはない。
あなたがその時正しいと思ったのだから正しかったのだ。
だからあなたは動けたのだ。
もし今あなたがかつてのあなたを正しくないと思うのならそれも正しい。
正しさなど本当はないのだからそんな重く考えなくて良いのだ。
今自分が動けることが何かあるならそれが最もあなたにとって正しいことだ。
自由意志はあなたの中の正しさがあって初めて意志を発現できる。
そう、私が今これを書いているのはこの考えを皆様と共有してまた皆様の考える正しさをこれまた返していただくことを目的として書いているのであります。
色々ゴチャッとしてしまったかもしれないので結論を申し上げます。
運命というのは我々が制御することのできないもののことをいい、我々が制御できるものは理性、すなわち自由意志のみです。
ですがこの2つは分断された別々のものというより、相互に影響し合う関係性を持ちます。
自由意志はそれ単体では、何も決断することはできず、外部要因である基準があって初めて意志を発現することができます。
基準には概ね2種類の特性があり、社会的基準と個人的基準があります。
基準は正義と言い換えることもでき、上記の2つの基準はその正義がどちらの要素に属するのかで分類したものです。
以上となります。
次回また、こういった私の内向的な思考の取り組みをつれづれに綴っていくかもしれないので、お付き合いいただければ幸いです。
ではまた。
このような拙い文をお読みいただきありがとうございました。
以上の文は私が内的に考えた物事と討論によってある程度の改良を加えたものに基づいています。
ですので参考文献はございませんし、確たる統計結果といった科学的な根拠及び、論証は全くございません。
また私の考えをより深めるような考えや思想があればぜひお教えしていただければ幸いです。
また、レスバではありませんが、討論についても大歓迎ですので、それについてもよろしく頂ければ幸いです。
ではでは、また何か書くかもしれませんので、よろしくお願いします。